二
肝心の玄関口が……じっとりと佇んだまま、沈黙している。
僅か数メートルの距離なのだ。しかし、室内灯の光は減衰し、廊下の奥まで届かない。
そう、あの場所だけは、未だ暗闇の中に沈んでいるのだ。
ドアスコープから外を覗き見るつもりなど毛頭ない。息を吹き返した音たちに丸め込まれて近づこうものなら、扉一枚を挟んで向こう側にいる奴らの思う壺だ。奴らは巧妙に潜んでいるのかもしれない。そして、油断した俺が近寄るのをじっと狙っているのかもしれない。この数メートルが、彼岸へと続く道となる可能性を捨てきれないのだ。
最もうるさく鳴り響いている、直感という名の警鐘。
息を殺せばいい。扉を隔て、膠着している限り。それだけで勝利なんだ。夜が明けるまで耐えてしまえば、きっと──。
ドオォォォン──
視界が真っ白になっていた。あまりにも大きな衝撃であった。それが音だと分かったのは、二度、三度と繰り返されてからだった。叩かれたなんてものではない。マグマが地表まで迫り上がって大爆発したかのような、あるいは攻城兵器による破壊行為めいた轟音だった。
ドオォォォン──
扉は耐えられるはずもなく、なんとベニヤ板のごとく撓んだのだ。
そんな、まさか──とまじまじと見れば……当然、扉が撓むなどという莫迦げた現象は起こっていなかった。おそろしく強烈な激突音からそう思えてしまったのか。それと分かっていても、やはり何かがぶつかるたびに、衝撃波が身体を貫通していると錯覚してしまうのだ。
およそ常人の膂力ではなく、何が何でも押し入るという異常な殺意を感じる。明らかにさっきまでの群衆ではなかった。
まさに怪物とでも呼ぶべき異質な存在がやってきている。
これでは持たない。下手をすれば、朝までどころか……。
「なんでだよ……」
こんなことがあるのだろうか。人間の恐怖心から作られたはずの存在が、何よりも直接的な力を持ち得るのだろうか。
携帯電話を持つ手から力が抜けていく。
「おえっ」
極度のストレスか、胃がギュルリと締め上げられたみたいだった。傍らのゴミ箱に顔を突っ込み、内容物を吐き出してしまう。
ぐしゃぐしゃの吐瀉物が底に溜まっている。俺はただ、滲んだ視界でそれを見ている。
やっぱり、おかしいのは俺なんだ。玄関の動画なんか撮って、誰かに襲われていると言い張るなんて典型的な精神病患者じゃないか。あの医者は、ただ冷静に俺の病識をチェックしていただけだったんだ。
はあ、もう座ってしまおう……ううっ!
何もかも諦めて床に腰を下ろそうとするも、それすら許されぬほどの強烈な不快感に苛まれる。
悪臭が立ち昇っていた。胃液によるツンとした酸っぱい臭いとは違う。
鼻が曲がる、いや、焼けたような痛みすら感じるほどの……いわゆる腐敗臭なのだが、それに似て非なるものだ。もっと底知れず、もっと濃密な──澱みか何か。赤黒い澱みがあぶく立ちながら、ねっとりと玄関口から押し広がってきて……あああ、おそろしく息苦しい。
そのうち空気は支配され、呼吸すら奪われて、俺は──。
ドオォォォン──
はっと我に返った。
慌てて部屋の扉を閉めて身を守るも、床との僅かな隙間からじわりじわりと濃度が上がっていく。
このままでは部屋が飲み込まれ、腐食しかねない。そうに違いない。何もかもが腐り、溶けて形を失ってしまうんだ。
棚を漁り、クラフトテープを引っ張り出した。ありとあらゆる隙間に貼り付けた。窓も換気扇もエアコンも、なりふり構わず塞いでいった。無我夢中だった。
作業をしていると、ビィンと室内灯が悲鳴を上げた。続いて光が消え、点灯する。最後の抵抗を思わせる狂った明滅を繰り返している。光と闇が交互に降り注ぐと、それは正常と異常のボーダーラインで揺れているようで──。
ドオォォォン──
意味が分からない……意味が分からない!
思わず布団を被った。布団を被ったら、いつものように逃避できると思った。パブロフの犬よろしく安心できるのだ。
ブブッと携帯電話が震えた。振動音にすら戦々恐々としてしまったが、確認してみると白石からの返信であった。
まさしく一筋の光だった。急いで内容を見ると、ただ一言。
『東京だけど』
それだけであった。『戻ってきたのか?』というメールに対する端的な返信だった。
しかし、どん底へと落ちんばかりの俺を切り捨てるような無機質さだった。
「誰か……」
──ブツン。
室内灯が完全に死んだ。視界が闇に染まった。このタイミングだ。偶然なわけがない。
苛烈さを増していたドオン、ゴオンという衝撃音はバリバリバリという雷鳴じみた音を轟かせ、消え去った。
…………
再び、全くの静寂。
俺は分かっている。日常を取り戻したわけではないと。
破られたのだろう、扉も、盛り塩も。
無音が空間を支配している。時計や蛍光灯の音もしない。彼らも鳴りを潜めざるを得ない事態なのだろうか。
玄関の扉は真っ二つに折れ、あそこで無残に転がっているのだ。その向こうは完全なる異界で、君臨する化物がずるり、ずるりと入ってくるのだ。
ああ、もう、すぐに来てしまう……。
不安が渦を巻いて止まらない。数秒前まで轟音に恐怖していたのに、今や沈黙が何よりも恐ろしい。
もはや一刻の猶予もない。
携帯電話の明かりに照らされながら、涙で霞む目を擦りつつメッセージを入力する。
録画をしていたはずだったのに、いつの間にか止まっていた。録画時間はたったの四十八秒。嘔吐したときに置いたローテーブルから、携帯電話を持ち上げるシーンが最後に映っていた。
録画を始めたときを思い返すと、妙に短く感じられた。
「送信完了」の文字を見て、安堵感に包まれる。
その刹那、頭痛で現実へと引き戻される。
頭を押さえると、じゅるりと音がした。奇妙なほどに近いところからだった。
どこだ、どこからだ……じゅるり。
慌てて顔を左右に動かすと、ズグンと内側から押し上げられるような痛みが走る。
まさか──。
手で髪の毛を掻き上げる。頭皮がやけに突っ張っている……そんな気がする。いや、そんなことあるわけがない。
息を吸う。呼吸が苦しい。おどろおどろしい空気が鼻腔から入り込んでいる。それは奥まで這い上がると、デリケートな脳をぐずぐずに崩し、そして──。
「いやだ……」
頭が澱で満たされる?
頭を動かすと、再びじゅるりと波打った。
予兆なく携帯電話の画面が暗転し、完全に反応しなくなった。
俺はさらに身を縮こませることしかできなかった。
やがて、ぼうっとどこか遠くまで空間が広がった。何も見えないはずの闇の中で、茫茫たる世界の果てしなさだけを知覚していた。
どうしてだろうか。俺は布団の中にいるはずなのに。
ぼつ、ぼつ、ぼつと何かが姿を現した。ぼんやりとしたシルエットが歪みながら形を成していく。少しずつ、少しずつ、それは人の形に近づいていった。
奇妙な人間だった。遠くに、また近くに倒れ伏している。その青白い顔を持ち上げて、ただただ俺を見つめている。
男、女、老爺に老婆……もしかして、扉の向こうにいたのは……?
黒い眼はこちらを向いたまま、そして──ずるりと這い寄った。
その意志が垣間見えれば、いよいよ恐怖が込み上げる。
逃げ出さなくては──どこに?
見てはいけない──見えていないのに?
それにしても、ひどく寒い。
きっと、肉体が悲鳴を上げているのだ。異界への拒絶だろうか。それが形容不可能な皮膚感覚を齎すと、肉体は叫ぶしかないのだ。既存の言葉に当てはめて、無理矢理に表現するのならば──寒い、寒い……。
おい、しっかりしろ! 戻れなくなるぞ!
己を奮い立たせ、跳ね起きた……じゅるり……起きたのか?
ゼエゼエと息を吐きながら、もんどり打ってベッド脇に落ちた……かのような鈍い痛みが走る。
ここに居ては駄目だ。さもないと、幻覚めいた世界に取り込まれ、俺が俺でなくなってしまう。
ベランダだ。ベランダからならば出られるかもしれない。
ローテーブルらしき物体にぶつかった。膝をついて四つん這いになると、細いペンか何かに手が触れた。
俺はサッと立ち上がったのだが、それでもやっぱり、倒れているのかもしれない。
──じゅるり。
ええと、立ち上がって……何をしようとしていたんだっけ?
そうだ、ベランダだ。
いや、駄目だ、駄目だ……。
俺自身が窓を塞いだんじゃないか……。
逃さぬ
誰だ?
ただでは 済まさん
闇と、闇と、誰かの声。何も見えない。何も見えないまま、闇を見ている。俺は闇しか見えなくなっている。
怖い……怖くない。
怖いって、何が?
ああ、寒い。とにかく寒い。
でも、どこか懐かしい。ここは……鳥敷?
決して 逃さぬ 永劫の 絶望を
赤い。
赤い。
あか──じゅるり。
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