一
顔を上げた。理由はなかった。
──ピンポン。
「…………」
こういう時ほど、インターホンが鳴ってしまうものなのだろうか。
普段なら、まずはドアスコープ越しに相手を確認するところだが……どうにも躊躇われる。
午後十時。予期せぬ訪問者に漠然とした嫌悪を抱いてしまった。
──トントン。
皆、一足先に帰省でもしたのだろうか。安普請のアパートにしては、生活音のしない夜だった。
耳を澄ましていると、窓の外でゴォッと風が鳴った。
空気が冷え込んでいる。盛夏だというのに、気持ちの良い涼夜の域を超え、もはや悪寒のする肌寒さであった。連日の熱帯夜に辟易していた身からすれば、いまひとつ現実味を欠いている。
窓から見えるあの街灯は接触不良なのだろう。チカチカと不規則に光っている。
もうすぐ彼はその命を終える。きっと誰にも感謝されることなく、役目を果たせなくなったパーツは交換されるのだ。
彼はひどく物寂しげで……ああ、参った。あの揺らぎに仲間意識を抱くなんて、俺は相当にセンチメンタルらしい。
──ピンポン。
はぁ……そんなに責めないでくれよ。
ベッドの上でのっそりと身体を動かした。
廊下と部屋を隔てる扉は開け放たれ、玄関が見えている。
誰かを待たせているというのに、布団に包まれていたかった。あのとき、俺は変わろうと決意したはずなのに。
開け……
この声をどこかで聞いたことがあるような、ないような。隣の一〇三号室に住むサラリーマンだろうか。すれ違うときに挨拶を交わすだけの関係だというのに、いったいどうしたのだろう。
──トントン。
「分かったよ。あまり急かさないでくれ」
緩慢に立ち上がり、玄関へと続く廊下に差し掛かる──その瞬間だった。
開けろ
思わず足を止めていた。
怒気を孕んだ口調。サラリーマンの声ではなかった。
違う……ならば、白石なのか?
白石の声は澄んでおり、耳に心地よい印象だ。普段は真面目な彼であるが、ふとした拍子に粗野な言葉遣いをすることがあった。
そうして一歩踏み出すも、つい先日送られてきたメールを思い出し、再び立ち止まる。
『インターンで東京にいる。しばらくしたら戻るから、何かあれば連絡してくれ』
『陽太は色々と考えすぎるんだよ。サウナでも行って気分転換してみたらどうだ?』
そうだ──白石のはずがない。彼ならば俺に連絡を入れてから訪れるだろうし、そもそも信用してスペアキーを渡していたのだった。
思考を巡らせ、結果として無反応なまま立ち尽くす俺の前で、さらにトントン、トントンとノックが繰り返される。
執拗だった。万が一を考えて応答はしない。代わりに折りたたみ式の携帯電話を開き、短文で白石にメールを送った。
『戻ってきたのか?』と。
開けなさい 開けなさいよ 早く
──女?
男だけじゃない。二人いる。二人で訪れてくるような知り合いはいない。だが、あの扉の向こうに二人いる。
黒い予感はたちまち肥大化して心を埋め尽くした。どうにか立っていられたのは、薄々ながらも胸騒ぎを抱いていたからだろうか。
開けて 開けろ 開けなさい 早く
早く 早く 開けろよ
ああ、くそっ──黙れ、黙れ黙れ!
叫び出さずにはいられなかった。叫んだつもりだったのだが、喉からヒュッという息が出ただけであった。
怒声を飛ばす男性が嗄れ声の老爺を押し退け、中年女性が弱々しく願う老婆を踏みつけて喚き散らす……声が堰を切ったように交錯し、次々に移り変わっていく。
二人どころではなかった。何かが一塊になって扉の前に押しかけているみたいだった。
心当たりはあった。ずっと付きまとっていた奴らだ。それでも、この前まではどこかから覗き見てくるだけだった。それがまさか、干渉してくるなんて。
化物が向こうで呼んでいる。こうして呼びかけてくるのであれば、招かれねば入れないのかもしれない。
玄関の盛り塩が結界としての役割を果たしているのか。はたまた通販で買った御守りの御利益か。
ああもう、そんなことはどうだっていい。
「どうして、こんなことに……」
小さく声に出すと、積もっていた不満が溢れ出した。
ふざけた薬を出しやがってよ。精神安定剤なんて何の効果もなかった。あの医者は俺を異常者の括りで見ていたが、異常なのは俺じゃない。俺は普通なんだ。おかしいのは向こうにいる化物なんだ。原因だって分かっている。あの「穢れた日本人形」のせいで、すべておかしくなったんだ。
開けろ 開けて 開けて
ほら、今だってはっきりと耳に届いている。なんで俺ばかり……不条理じゃないか。はは、そうだ、ただいいようにやられるなんて、まっぴらだ。
携帯電話のカメラを起動した。画面の右上に「録画中」と表示されている。
この超常現象の発生している空間を、紛れもない証拠として押さえておくのだ。たとえ燻ったままの俺が死んでしまったとしても、残したこの映像が、この音声が、怪異に対する反攻の火種になるはずなのだ。
早く 嫌だ 嫌だ 来る 来る 来る
──来る? 来るって、いったい?
ドン、ドン、ドン──。
ピンポン、ピンポン、ピンポン──。
ああああ、もう、何なんだ!
やたらめったらに扉を殴りつけている。
俺は無様に喘いでいた。じんわりと額に脂汗が滲む。それでも、ただカメラを向け続けた。
相変わらず街灯はチカチカと明滅し、はっきりとしない。思いがけず薄墨色のカーテンに意識が向いた。十五センチ程度の隙間が、無性に不安を掻き立てた。
カーテンを閉めなければならない。俺からも、奴らからも見えないように。
でも、ベランダには絶対に近寄りたくない。奴らがカーテンの裏から姿を現すかと思うと……。
感情が鬩ぎ合い、そうこうしている間もノックとインターホンの波状攻撃で……くそ、ノイローゼになってしまいそうだ。
嫌だ、嫌だああああああぁぁぁ──……
──え?
一転、場が静寂に包まれる。
化物共が絶叫したかと思いきや、その声は次第に遠のき、ついには静まり返ってしまったのだ。
あまりに突然のことで、しばらく警戒心を抱きながら立ち尽くしていたが、何事もなかった。全身で奴らの動きを察知しようと身構えているのに、拍子抜けしてしまうほどに何も起こらない。
それはそれで問題だった。終結したという確証がなければ、いつまでも安心を得られないのだ。
ややあって、身を潜めていた音たちが歌い始めた。掛け時計の時を刻む音、劣化したバラストから発せられるブーンという唸りが勝手気ままに耳朶を震わせる。
理解の及ばない出来事が理解の及ばないまま終わった、ということなのだろうか。化物共の断末魔に似た叫喚はいったい何だったのか。
そう思いながら、ぐるりと辺りを見回した。
彼らは楽しげに現実性を主張している。だから束の間、あらゆる偶然の連鎖……いたずら好きの妖精に誑かされたのではないかと淡い期待を抱いてしまいそうになって……俺はそれに気がついた──。
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