十
「うっ……」
心臓が跳ねて声が漏れた。
いつの間にか、背後に人見麻子が立っている……みたいだった。暗闇に紛れており、目を凝らしても黒いシルエットが僅かに揺れている程度しか認識できなかった。
「麻子さん……あなたは、千代さんを閉じ込めているんですか?」
「ええ、そうですよ」
麻子はあっさりと認めた。
「それは、どうしてですか?」
「頭が莫迦になってしまったからです。昼にもお伝えしたとおり」
「でもこれは、監禁というか、犯罪ですよね?」
白石は努めて冷静に尋ねた。強気には出られなかった。姿の見えない麻子が何を考えているか分からない。
その手にナイフが握られていたとしても、なんら不思議ではない気がしたのだ。
「ええ、そうかもしれません。しかし、必要な処置です。気が触れた人間に徘徊されても困るでしょう」
質問に答える麻子に攻撃的な意思はなさそうだった。その声色には徒労感だけが滲んでいた。
「もう義母は人じゃありません。起きて、聞いたこともない歌を歌い、御飯を撒き散らし、糞を漏らしたまま寝る。また起きて、掠れた声で歌い、御飯を撒き散らし、糞を漏らしたまま寝る、また起きて……人間の成れの果て、ですね」
「…………」
麻子の告白はとても静かだった。
「その木を退けて、扉を開けても良いですよ」
「え?」
白石はその意味が理解できていたものの、思わず聞き返していた。
「中を見たいのでしょう?」
「いや……それは」
「白石君も、いずれはこうなると覚悟をしておかなければなりませんよ」
麻子の姿はやはり見えない。
白石は扉へ向き直り、言われるがままゴトリと木を壁際に寄せた。
「老いというものは、とても──恐ろしいのです」
取っ手を掴み、ゆっくりと扉を開ける。
部屋の中は嫌な臭いが充満していた。人見家の玄関を跨いだときに感じた不快な臭いとは、種類が違う。
「左手に電灯のスイッチがあります」
白石は壁を探り、スイッチをパチリと押した。
ビィィィンという音と共にオレンジ色の電灯が不安定に明滅し、数秒後にパッと部屋を照らし出した。
「うぁぅぅ……ぅぁうぁぁ!」
掠れた絶叫が耳に響いた。
眩しさに目を細めながら、見えたその室内は──。
黄ばんで綿の潰れた布団。液体が溢れたような染み。散らばった髪の毛と埃。そして、中央には──乾いた老婆。
彼女は腕で目を隠し、モゾモゾと呻いている。斜めになった布団から覗くのは、骨と皮だけでガサガサの身体。
清掃されていない部屋の隅には納屋と同じように古い家具が積み上げられている。布団の周りにはゴミ袋とオムツセット、食器を置くためのお盆がそのまま床に置いてあった。
どこもかしこも不潔だった。この部屋に不潔でないものはなかった。
最低限の介護用品が置いてあるので、介護を放棄したわけではないと察せるが、酷い環境だった。
「喋れないんですか?」
「ええ。何か思い出したように歌うときだけは、発音ができるみたいですが。元々足が悪かったので、今はもう、立ち上がることすらできません」
「なら、こんな木で塞いでおく必要もないはずだ」
白石は義憤に駆られて鋭く問い詰めた。
「……ああ、たしかに、そのとおりですね、矛盾していました。数年前までは徘徊癖がありましたから、木で塞いでいたのです。でも、白石君の言うとおり明日からは退かしておきます」
──ふぅ。
倦みを孕んだ吐息だった。
今すぐに、この木を捨てろ──と喉まで出かかった激情は、霧散していた。
彼女にとっては、木で塞ぐという一手間が、いつの間にか気苦労からの解放と安寧を得られる手段となっていたのだろう。
白石は未だに無為な蠢動を続ける老婆を見下ろし、何とかしてあげなければという義務感を抱きながらも──。
──あれ……今、何てことを考えた?
「そのうち死ぬと思います。この村の人は最期には何も分からなくなるみたいなので。そしてその生涯を自殺して終えるのです」
「……どういうことですか?」
余生を楽しむだけの老人が、なぜ自殺しなければならないのだ。
「死に方は様々ですが、大抵その辺りの道具を使って死ぬみたいですね。何も分からない子供のようになってしまうので、自殺というよりも事故かもしれません。文字どおり、童心に返ってしまうというわけです」
どうして、麻子はこんなにも淡々と話せるのだろう。
「たとえば、喃語に似た意味不明な言葉しか話せなくなった老人が、包丁で自らの喉を切り裂いて死んだり」
「たとえば、壁に糞を塗りたくる趣味をお持ちの老人が、己の排泄物を口に詰め込んで窒息死したり」
白石はその状況に嘔気を催し、舌を出してえずいた。
「それを村の老いぼれはなんと表現すると思いますか?」
返事ができない。
無言の間が生まれていた。
老婆はまだもがいている。彼女が何をしたいのか、まるで分からない。それなのに目が離せない。
「……彼らは『守り神様のお迎えが来た』と言うのです。げに悍ましき思想だと思いませんか」
麻子は唾棄するように語気を強めた。そして、間髪を入れず、ポツリと「私もすぐにそうなってしまう」と小さな声で呟いた。
それは、どういう意味ですか──。
空隙を挟んでから白石が尋ねた。尋ねたつもりだったのだが、カラカラに口が乾いて声が出ていなかったのかもしれない。
「鳥敷に来て二十数年が経ちました。私があの日、過ちを犯してから、少しずつ、本当に少しずつ、あの人の迎えが近づいて来ているのです」
「あの人の迎え……?」
ペタリ──。
足音がした。反射的に振り返っていた。
「どうしてでしょうね、私は人形を持って行っているはずなのに。私の勤め先が鳥敷の外だからでしょうか」
「…………」
「鳥敷に来てはいけなかったのでしょうか」
その問いかけは、回答を求めているわけではないのだろう。
ペタリ……ペタリ……。
ああ、この表情は──。
白石の目に映った麻子はジーッとこちらを見ているのだが、その焦点は白石に合っていなかった。
あのときと同じだ。警察署で向かい合っていたとき、喫茶店で誰も座っていない座席を見ていたときと同じ様子で──。
「あの日、過ちを犯した私は、鳥敷から離れられないのでしょうか」
「外の世界へ出ていったら、私は陽太のようになってしまうのでしょうか」
「何度も何度も視界の端から、あの人は私を覗いてくるのです」
一歩、また一歩、裸足の麻子が歩いてくる。彼女は虚空に向かって独白している。ゆらりゆらりと身体が揺れている。
「カウンセリングを受けても、治療薬を飲んでも、気分転換をしても、お祓いを受けても……何も変わらない。膿んだ吹き出物は潰しても、潰しても、潰しても……」
今にも倒れてしまいそうだ。
明かりに慣れたのか、老婆は再び歌い出した。
「何度も、何度も……」
諳んじられる掠れた歌声が麻酔のように広がっていく。
「ずっと、ずっと……」
これは夢の中なのだろうか──。
逃げ出さなければ、闇に呑まれてしまう。心に反して、体はピクリとも動かない。
麻子の瞳がフッと戻り、白石を捉えた。
「もう、嫌になりました。視界の端で這いつくばる夫……いや、かつて夫だった何かがいるのです。あれは怨嗟です。影からこちらを覗いて、私を待っているのです。あの過ちのせいで、私はもうすぐ死ぬ。そういう運命なのです。脳みそが理屈で否定しても、私は既に膏肓まで侵されて──」
麻子は早口で捲し立て、「ほら、そこに」と振り返る。
白石がつられて奥を覗き込むも、廊下の先は光を呑み込む暗闇が広がっているだけだった。
「倒れる──」
どたん
なんだ……何かが落ちた?
先の見えないトンネルじみた廊下の奥で、何かが──。
「ああ……また、倒れる──」
どたん
まさか、そんな……まさか!
「見えませんよね。この幻覚から逃げ出したいのに、どこにも逃げられない。あの人は私に取り憑いている。名古屋に出向いたときだって、あの人だけは憑いてくる。もう……とてもとても、死にたくなってくる」
これは……俺はいったい何を見せられているんだ──。
麻子が両肩をパシッと掴んだ。情けなくも身身体がビクリと跳ね、立ち尽くす。
「白石君、私もとうに……」
──狂ってしまっているのです。
見開かれた麻子の瞳に白石自身が映り込む。
部屋に漂う不快な臭い。その正体を漠然と感じ取っていた。停滞した箱の中で、ただ終末の時を待つ……死の臭いであると。
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