一
翌朝、既に麻子の姿はなかった。小窓から眩い光が差し込んでいる。もう日は高く昇っていた。
昨夜の彼女は介護疲れによる精神の不調に加え、人見隆人の自殺に対する自責の念が表面化したのではないだろうか。
彼女は北桶市役所で働いている。時短勤務でもしているのだろう。仕事を終えて帰宅したら、息をつく間もなく千代の世話をしているはずだ。
親の介護など想像だにしなかった。だから、軟禁という手段を取る麻子の行動に思わず拒否感を抱いた。
しかし、日を跨いで冷静になってみれば、日中どのような行動をとるか予想のできない人間を何時間も野放しにはできない。歩行能力がなくとも、染みついた飛沫の痕を思い返してなおさらそう思った。
要介護認定の度合いによっては、有料老人ホームや特別養護老人ホームに入所させる手段もあるのだろうが、鳥敷には介護施設がそもそも存在しないのかもしれない。無医地域の可能性すらある。
必然的にここを出なければならないが、彼女は夫を失った経験からしきたりに敏感である。鳥敷に霊的な力が宿っていると思っているために、離郷できないのだろう。仕方なく軟禁状態を保っているということは想像に難くない。
ならば外光を浴びて、他人と言葉を交わし、ストレスや感情のケアをすれば──。
白石はそこまで考えて頭を振った。
医療に対する知識なんてまるでないが、アレはもうダメだ。
そのような直感だった。あの部屋は最後の部屋だった。
「人間の成れの果て」という麻子の言葉が甦る。
だからといって、人間扱いしないのは間違っている……なんて今までならば否定していただろう。所詮、他人事だから。
麻子はとっくに現実を受容していた。人生、資産、環境、世間体……多方面から思慮を重ね、暗澹たる未来への諦念と共に、現状維持という結論を導き出したはずだ。
人間としての尊厳を失わせる「老い」という悪魔から逃れるために、安楽死すべきなのではないか。他人の人生の時間を根こそぎ奪い、奴隷じみた奉仕をさせてまで生きていく必要があるのか。心神喪失者は責任能力がなく罪に問われない。それは、不可逆な変性を遂げてしまった人間はもはや人間でないと逆説的に証明してしまっているのではないか。
莫迦げた極論はインスタントに浮かぶものの、「こんな考えが世間一般に通用するわけない」なんて自己否定して──母の姿を思い浮かべた。
陽太にだけは己の生い立ちを漏らしてしまった。
まるで「自分がこの世で最も不幸である」とでも言わんばかりの未熟な防衛機制を見せつけるものだから、思わず言い返してしまったのだ。
彼はショックを受けていたようだった。内心で冷や汗をかいたが、何でもない過去の話と流したのが良かったのか関係は崩れなかった。
今でさえ、父親に煙草の火を押し付けられた痕が鎖骨の下と臀部に残っている。数日間にわたる熱と衣類に水ぶくれが擦れるあの苦痛──思い出したくもない。
あの男は巧妙だった。癒えることのない痕が残ると分かれば、火を押し付ける場所を臀部へと変更したのだ。これで学校での着替えのときに虐待の痕は見つからない。
まぁ、見つかったところで告発するわけもないのだが。
学校側もただでさえ多い勤務時間に加えて、給特法のせいで定額働かせ放題なのだ。時間を割いてまで家庭の事情という面倒事には注力していられない、という本末転倒な構造的欠陥を抱えているわけで「何でも屋じゃない」というのが本音だろう。
他人の様子を窺い慣れていた自分だからこそ、実は先生たちが忙殺されていると子供ながらに理解していた。もちろん、見て見ぬふりをしているということも。
臀部は筋肉、脂肪ともに厚く鈍麻であることが幸いし、煙草を押し付けられても転げ回るほどの痛みで済んだ。
まだマシ──そのように思ったのは、初日だけであった。
授業と風呂がとんでもなく苦痛だった。椅子に座ったり、水に触れたりすると激痛が走るのだ。
あの男はいたく気に入って、しばらくは煙草で遊んでいた。
殴られた末にズボンを脱ぎ、自ら尻を差し出す行為がどれほどの屈辱か……理解できる人などそうはいないだろう。
そしてそれから……もう少し何かあったように思えるのだ。しかし、途中から記憶がない。
視界が半回転してそのまま捩じ切れると、もはやそこから先は何かが抜け落ちているというモヤモヤとしたしこりと身に覚えのない痛みだけが残っていた。
物の散乱した部屋の中、母はヒステリックに騒ぎ、髪を掻きむしる。猫を呼ぶような声を出しながら俺の頭を撫でたかと思いきや、次の瞬間にはゾッとするほど冷たい声で言い放った。
一緒に死んじゃおうよ──。
母は俺の首に手を添えた。
事実は小説よりも奇なりとはまさに真実で、語られる凄惨な事件なんかより、よほど非道な事件を起こすのが人間なのだ。
幸福度の相対化は無意味かもしれないが、少なくとも己の場合は「たかが虐待」という段階であるとも思っている。
海外サイトに大量アップロードされているスナッフビデオと見比べてみれば、拷問とも欠損とも無縁なのだから幸せだろう。
そう、トーチャーポルノだってスナッフビデオを合法化したようなものだ。大衆が求めるから創作される。人間の欲望を満たすための一種の脱法ドラッグで、脱法ドラッグよりもポピュラーな産物。
人間は残酷な好奇心を持っている。殺人だってそうだ。割に合わない行為の典型的な例であるがゆえに実行に移さないだけであり、潜在的殺人鬼はそこかしこにいるのだろう。
人間に比べれば何もかもが怖くない。
あるとき、事実を知った祖父母が介入した。一刻も早く離婚するため、彼らの貯金から多額の手切れ金を支払った。離婚した母は、そのまま実家に迎え入れられた。
父親に騙された母であるが、静養の日々を経て、落ち着きを取り戻した後は愛を分け与えるように育ててくれた。
荒んでいた反動か、むしろベッタリとくっつきたがる様はどちらが子供か分からない。
母の話では、自分は平静を装ったまま心を閉ざしていたみたいだった。
とはいえ、息子の首を絞める母なのだから、俺に心を閉ざされて然るべきだろう。一過性の過ちだと理解しているが、父親から逃げる判断を下せなかった母にも責任はある。
俺と傷を舐め合って、寄り添い合って暮らしたいのだろうが、母だってこちら側ではないのだ。元はといえば、その依存癖が悪いのだ。許せないものは許せない。
どうであろうとも時は流れ、いつの間にか暴力のない環境に慣れたのか、世間一般でいう普通の子供を学び、そう振る舞えるようになった。
祖父母は俺の境遇に同情したのだろう。孫にはとりわけ甘かった。
しかし、そういった愛の分配が無ければ、俺は父親の血に負けて不良になっていたかもしれない。
母から人間の弱さを学び、祖父母から人間の優しさを学び、父親から人間の邪悪さと残虐さを学んだ。
そんな経験はあれど、そんな経験があればこそ、ここまで成長できたのだ。
できそこないから立派な大人へ。たしかな歩みを実感している。怠惰な人間を横目に、ひたむきに努力してきたという自覚がある。
人間誰しも欠落はあるものだ。だからこそ、その欠落を努力で埋めて、「善く」生きなければならないのだ。
さもなくば、父親のような人の形をした獣に成り下がりかねない。
それでも、いつか母が言葉も発せない寝たきりになったとしたら──。
親という存在の衰え。それは決して避けられない世の理であり、受け入れがたく、遣る瀬ないはずなのだ。
愛別離苦とは、人間である限り逃れられない根源的な苦しみである。
仏教書にはそう書かれていた。
しかし、それほどまでに愛する者への執着があるという事実こそ、人間の愚かさであり、愛しさだとも思えるのだ。
ならば当然、肉親への情は最も強くて然るべき。
少なくとも俺の目指す人間像は、母の遺体の前で涙しながら、立派に葬儀をやり遂げている。
愛別離苦を抱いてしまうのが人間。人間ならば「善く」生きなければならない。
ああ……やってられないな。あんな母にも報いなければ、俺は真っ当に成れないというのか──。
二階のコートスタンドに黒いキャップを掛けていたので取りに戻り、再び一階に降りていくと、そこには麻子がいた。彼女は靴を脱ごうと上がり框に腰掛けており、ブラックフォーマルの格好で左手に数珠を持っている。
「ああ、ちょうど良かった」
昨夜の出来事がまるで夢だったかと思わせるほどに、彼女は平然と話しかけてきた。
「一緒に来ませんか?」
意味は分かった。しかし、白石は首を横に振った。
「喪服じゃないので……」
「別にいいと思いますけど」
スタンドカラーの白シャツに黒のスラックスというモノトーンのコーディネート。とはいえ、靴はスニーカーなので、目立ってしまうかもしれない。
「そういえば……棺は?」
「運び終わりましたよ。棺台車が講の家に置いてあるので、それを使って運び出しました」
「え、野辺送りをされていたんですか?」
「いえ、ただ運んだだけです」
だとしても物音で起きないとは、よほど熟睡していたみたいだ。思い返してみれば、喪家に居座っておいて碌な手伝いすらしていなかった。己の至らなさに顔が熱くなる。
「そうでしたか。でも、御香典すら持参していない自分が参列するのは……」
「金なんてどうでも。ちょっと気が変わりまして。白石君にも埋葬式に参加してほしいのです」
白石は目を丸くした。喫茶店ではあれほど強く拒絶していたというのに、どういった心変わりだろうか。
遠慮するつもりであったが、喪主に「参加してほしい」とまで言われて拒む理由もない。
「分かりました。玄関にキャップだけ置きっぱなしにしてもいいですか?」
「日焼けしてしまいますよ」
麻子が再び靴を履き、日傘を手に取りながら言った。本当に呼びに来ただけらしい。
「いえ、日差しを浴びると健康になれる気がするんです……道すがら、色々と教えてください」
「もちろんです。鳥敷寺まで御案内しましょう」
靴を履く前に、何となく北へ伸びる廊下を覗いた。
途中の扉は開け放たれていたが、その先の板戸は──相も変わらず太い木材で塞がれていた。
白石は無言のまま靴を履き、ちらりと上目で麻子の様子を窺った。
彼女は既に背を向けて、外へと歩き出していた。
胸のざわつきはゆっくりと凪いでいった。
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