九
白石は、ふと目が覚めた。アパートとは違う木製の天井。
そうだ、ここは人見家だ。
携帯を開くと、午前二時六分。普段なら何も気にしないところなのだが、今日ばかりは嫌な時間に起きてしまった。
うつ伏せになったり、仰向けになったりしてみたものの、なかなか寝付けない。次第に頭が冴えてきて、輾転反側するばかりになると、そのうち尿意を催した。
普段は夜中に起きることなどないのだが、夕食をいただいたときに茶を飲みすぎたのかもしれない。
布団から這い出て、そろそろと引き戸を開ける。右手の急階段から一階に降りようとするも、暗闇に目が慣れてさえ階下が見えなかった。
最新式の携帯電話にはライト機能が搭載されているらしいが、残念ながら手持ちのものは対応していない。
げぇげぇげぇげぇげぇげぇげぇげぇ
蛙が鳴いている。
されど家の中は静かで、伝わるのは心拍数の上がった心臓のドクドクという感覚だけ。
手すりを掴みながら二歩、三歩と下っていく。忍び足なのだが、ギィと軋んでしまうのは仕方がない。
階段を降りると、僅かな明かりがあった。玄関の磨りガラス越しに月光が差し込んでいる。それは灰色の三和土をほんのりと照らしていた。
ああ、穏やかだ。
月光に照らされた三和土はとても滑らかで、そこには人間の頭じみた影が落ちている。
──頭?
衝撃と共に顔を上げると、それはやはり頭だけの化け物で──。
ゆらり──ゆらり──。
左右に揺れている。磨りガラス越しに、ただただ揺れている。
ゆらり──ゆらり──。
音もなく、右に、左に、プラプラと──あり得ない!
現実に幽霊なんて存在するわけがないんだ。それなのに、目の前に、頭が──!
ヒュォォと強い風が吹いた。風の音で勢いづき、それは人を見つけて喜んでいるかのように激しく揺れる。
ゆらり、ゆらりゆらり、ゆらり──。
ああ、ああああ──!
声は出なかった。目を見開いたまま息が止まっていた。恐怖の許容量を超えると身体が固まり、声すら上げられなくなるのだ。
見てはいけない、目を合わせてはいけない、気がついたことを悟られないようにするなどと、ありがちな霊に対する対処法なんて咄嗟には考えられるはずもない。
それでも数秒後には、縮こまった身体が弛緩していた。その正体を理解したからだ。こんなものを怖がっていたのかと、己が間抜けに思えてくる。
軒下の吊るし瓢箪が風に揺られているだけだったのだ。よく見たら人間の頭部よりも歪で、くびれている。
玄関に瓢箪を飾ると縁起が良くなるという。玄関から入って来ようとする悪い運気を瓢箪が吸い取ってくれるのだ。さらにくびれから先は末広がりでもあり、これまた吉祥を示す。
なんとも都合の良い考え方だ──と理屈っぽい思考で埋め尽くし、心を落ち着かせようとしている自分にも、改めて苦笑いしてしまった。
とにもかくにも、恐ろしい何かではなかったのだ。
落ち着いた後は、恐怖を既知の事象に落とし込めたことを自画自賛していた。不可思議で不気味な事実から目を逸らさなかったから、ただの物理現象として捩じ伏せられたのだ。
ひどく恐ろしかった。しかし、恐怖に屈しなかった。恐怖から目を逸らすからこそ己の中で肥大化するのだ。恐怖から目を背けず、その本質を理解すれば、それはもはや恐怖たり得ない。
玄関を通り過ぎ、廊下を歩いていく。左手には使い古された台所があり、小窓から月の光が差し込んできているため、歩行に支障はなかった。
突き当たりの御不浄へ辿り着き、和式の不便さを痛感しながらも手早く用を足す。ここも縁側沿いのため月明かりには困らない。
さっさと戻ろう──と廊下を引き返し、居間と台所の間あたりで気がついた。
「──……──」
居間の奥だ。半開きの襖の奥から何か聞こえてくる。
白石は躊躇わず顔を覗かせた。
客間に掛けられているカチカチと時を刻む振り子時計の音に混じって、ぼそぼそ、ぼそぼそと何かを呟き続けているような異音がしていた。
発生源の方へ向かうと、そこは仏間であった。
一瞬、今はほとんど廃れてしまった不寝番を千代がしているのかと思った。しかし、それはないはずだ。
昼間、麻子から義母は認知症との説明を聞いた。ならば不寝番なんて任せるはずがない。
白石はさらに進む。
先ほどの頭部がぶら下がっていた事件も正体は瓢箪だった。
同じように、陽太の自殺は何かしらの錯乱によるものだろうか。存外、隆人の自殺についても、他者が知り得ない心根に問題を抱えていたというのが真実なのかもしれない。
白石は忍び足で仏間の傍へ寄った。ほんの少しだけ隙間が空いている。明かりはついていない。
そして、人の気配もない。
「──……──」
ただでさえ嗄れた声が襖越しに聞こえるため、何を言っているのか聞き取れない。
その独特の節と掠れた声は壊れかけのオルゴールを彷彿とさせた。
片目で仏間を覗き込んでみる。
「──……──」
やはり、誰もいなかった。真っ暗で何も見えないが、誰もいないことは分かる。
だが、どこかから聞こえてくる声は明瞭になった。仏間には踏み込みたくなかったというのが正直な思いであるが、幸い仏間の右隣から声がする。
スッと襖を開けると、そこは玄関から見て北に伸びる廊下を歩いた先だった。右手を見ると、廊下の途中、ちょうど居間と客間の境目に扉があった。
やはり、位置に間違いはない。居間と客間は部屋同士が隣り合っているので、この廊下をわざわざ通らなかった。学校の教室同士が繋がっていたら、廊下を通って移動しないだろう。
視線を戻し、仏間の隣、つまり廊下の突き当たりには木製の扉があるのだが……。
白石は黙したまま扉を上から下まで眺めた。
取っ手の下には薪割りに使用するような玉切りの木材がピッタリと立てられており、取っ手が下がらないようになっている。
──誰かを閉じ込めている。
ここは死角だった。麻子が内廊下から客間へ案内せず、わざわざ遠回りして縁側から案内したのは、これが理由だったのだ。
「──……──」
白石は声に吸い寄せられ、板戸の前に立つ。
ギシリ──と床が軋んだ。
何者かの声が止まる。
「…………とーりゃんせ」
数秒の沈黙の後、何事もなかったかのように、もう一度ごろごろとした声で歌い始めた。
扉の側まで近づいて、耳を当てると内容は明瞭に聞き取れた。
こーこはどーこの細道じゃ
天神さまの細道じゃ
ちーっと通して下しゃんせ
御用のないもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めに参ります
この歌は神道だろうに。ぐちゃぐちゃだなぁ、お前たちは産土神を信仰しているんじゃないのか?
いや、こんな歌どうでもいい。この中には、誰かが閉じ込められている。そして、それはおそらく千代だ。
いくら介護が大変だからといっても、こんな乱暴をしていいわけがない。
「納屋はいいとしても……好奇心が旺盛すぎますね、白石君」
お読みいただきありがとうございます。
ぜひポイントを入れて作品の応援をお願いします!




