五
日本人形は一般的に雛祭りの印象があると思う。明るい場所で見かければ、可愛らしさと美しさが同居している素晴らしい意匠なのだ。しかし、暗い場所で目が合ったら、黒い瞳に吸い込まれそうな、今にも動き出しそうな不安が襲ってくる。
これは偏に私の問題なのだ。けれど……どうしようもないことでもあった。
ちょうど世間はオカルトブームなのか、ホラー小説や都市伝説などの特集が盛んに報じられていた。恐怖を煽るタイトルと奇怪な表紙絵は、殊更に心証が悪かった。
そして、千代さんからいただいた数々の品の中の一つに、夫婦人形があった。それは絶えず床の間に飾られており、私たち家族の生活を暗闇から覗いていた。意識的に仏間の襖は閉めていたが、だからといって忘れられるはずもない。日々のお祈り、部屋の掃除と換気……仏間に入らないなんてことはできなかった。
これがただの人形なら、理由をでっち上げて納屋にしまったり、捨ててしまったりできるのに、よりにもよって嫁入りの際にいただいた品物だ。加えて、千代さんは夫婦人形に特別な思い入れを抱いているみたいだった。
仕事も家庭も順風満帆の私にとって、暗闇から見つめてくる夫婦人形が、やはり唯一のストレスだったのだ。
結婚してから数年後、私は身籠った。男の子だった。私たちは名前の候補を並べて悩んだが、周りの人を明るく照らす、太陽のような人に育ってほしいと願い、『陽太』と決めた。
産前休暇を取得し、千代さんに生活を助けてもらいながらの妊娠数か月目。
隆人は喜色を浮かべて帰ってきた。
「しばらく自治大研修に行かなきゃならなくなった」
冬の始まりを告げる寒風が、僅かな隙間から吹き込んでいた。
ストーブと炬燵で暖まりながら、みかんを食べてのんびりしていた私は、思わぬ朗報に小躍りしたくなった。
なにせこの研修は数時間、数日で終わるような浅薄なものではない。
地方公務員の育成を目的とする中央研修機関、いわゆる自治大学校へ赴くのだ。大人が寮に入り、大学教授や研究機関から招聘された講師のもとで学ぶというのだから、彼の政策立案能力や地方行財政への理解は深まり、十分に陶冶されて帰ってくることに疑いの余地はない。
自治大研修の受講者に抜擢される、それすなわち、幹部職として第一線での活躍を期待されているということに他ならないのだ。彼が真面目に、勤勉に働いていた姿を上長は見届けていたのだろう。実は人事課に彼の評価を高く報告してくれていたのかもしれない。
私の喜びも一入だった。
だって、彼が自力で差別を乗り越えた証だったから。嬉しくて嬉しくて、東京でも邪魔にならないものをプレゼントしたいと思った。
私は青と赤でペアになっているマフラーを編んで、青いマフラーを彼に渡した。嬉しい気持ちが胸いっぱいに広がる一方で、しばらく会えないというのは、妊娠期の私にとっては心細く、不安に思っていた。
──ああ、思い返してみても、当時は精神が不安定だった。
出張前日、彼は朝早くの出発に備えて荷造りを終えると、「おやすみ」と言って寝室のある二階に上がっていった。
私は相変わらず温かい炬燵でのんびりとしていた。
そのとき、彼の荷物が目に入った。
使い慣れたスーツが鴨居に掛けられており、新調したスーツケースとリュックは部屋の隅に寄せられている。スーツケースの上には、私の編んだ青いマフラーが丁寧に置かれていた。
そしてなぜか、妙に見覚えのある凹凸がリュックの中から浮き出ていた。
瞬間、嫌悪感が背中を駆け抜けた。
その正体は、うんざりするほど毎日目にしているアレだ。ファスナーを引くと、やはり出てきた。リュック内部の八割を占領している、四角いアクリルケース入りの日本人形は、そこにいるのが当然だと主張しているように映った。
なぜ私のマフラーが剥き出しで、この人形がしまわれているのか。なぜこんなものが私よりも優先されているのか。そう思ってしまったのだ。
当日、マフラーを巻いて出発するためだと、ほんの少し頭を働かせれば見当がついたというのに。
私は怒りに任せて日本人形を庭の納屋に片付けた。納屋にはガラクタしかないため、千代さんも滅多に立ち入らない。折を見て、彼が忘れてしまったことにすれば良い。
アクリルケースの中には床下収納から取り出した保存食を詰めておいた。
次の日、彼は「行ってくるね」と手を振りながら、青いマフラーを巻いて鳥敷を出ていった。
──彼は死体で返ってきた。
予定どおり、自治大学校のある東京の寮で過ごしていたそうだが、一週間ほどで様子がおかしくなった。他市の課長がそう述べた。
様子がおかしいと思われたのは、ブツブツと独り言を呟いたり、しきりに辺りを見回したりという行動が散見されたためらしい。
彼は、不意に実家と真逆の東北地方に向かった。寮に大半の荷物を置きっぱなしにし、僅かな手荷物だけ持って出かけると、電車を降りるときにはそれすら捨て去り、そのままどんどんと突き進んで……死んだ。
知らない土地の知らない場所で、コンクリートブロックに頭を打ちつけて自殺した。通りかかった住民は、その鬼気迫る叫び声と血塗れで頭をぶつけ続ける異常な行動に恐怖しながらも通報をしたのだという。
もちろん、救急車が駆けつけたときには、事切れていた。
千代さんは死体に縋って泣き崩れていた。
「どうして守り神様を忘れたんじゃあ」
私は涙を流せなかった。
悲しいという感情よりも先に、胸の内から湧き出る不安と頭を埋め尽くす保身で……私はもう、いっぱいいっぱいだった。
ただ心臓がドクドクとやけにうるさく、冬だというのに下着が肌に張り付いていた。
千代さんがおいおいと棺にしがみついている中、裸足のまま縁側を飛び出し、茶色い枯れ草を踏ん付けながら庭の納屋を開けた。
日本人形はそのまま立っていた。
何これ……。
顔が真っ黒だった。墨で塗りつぶしたかのように表情すら読み取れないほどだった。
この花婿人形が何を思っているのか分からない。表情を消失し、どこまでも無機質であるのに、感情を爆発させているようにも見える。
私は急に恐ろしくなって、思わず人形を蹴ってしまった。
その顔は、まるでただ胴の上に置いてあっただけかのように、あっさりと転がっていった。
ありがとう ありがとう ありがとう
幻聴が納屋に反響する。夫だと思っていた人形から無数の人間が湧き出したみたいだった。
冬の寒風が、開け放たれた部屋に強く強く吹き込んでいる。
私は仏間に置かれた棺の前に立ち尽くし、焦点の合わない瞳でどこかを見ている。
私は取り返しのつかない過ちを犯した。
身体の震えは、寒さから来るものなのか分からなかった。
人見隆人は私が殺した。
私は「鳥敷での暮らし方」を知っていたのに。
産子が櫛陀川を下ることを禁ず。然れども守り神様の随身に限り、外境へ赴くことを許さるるなり。
それは、私のような移住者でさえも知っている鳥敷での常識なのだ。
私は何も持たずに北桶市の職場で働いていた。もちろん、その掟を軽んじていたからだ。鳥敷の出身を理由とした理不尽な人事異動を差別であると、さも当然のように常識を語っていた私が……鳥敷の常識を破って彼を殺したのだ。
なんて愚かなのだろう。しきたりなど古き慣習に過ぎないという身勝手な思い込み。
最も差別していたのは、己の差別的思想すら自認していない──この私だったのだ。
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