四
あれはまだ、私が二十代の頃。私は人見隆人という人物に興味があった。
七つ年上の彼は、新規採用である私が配属された文化財課の先輩だった。
行政に携わる人間は、官民の癒着を防ぐために数年で全く別の部署に異動するというのが通例だ。大抵の職員は入庁して十年で三か所を経験するという。
彼も例に漏れず、上下水道課、森林管理課の現業事務所勤務を経て、私と同じ博物館の文化財課に配属されていた。
彼には入庁一年目職員の指導員役として、仕事のいろはを叩き込んでもらった。
彼は身体が大きく熊を思わせる体型だった。一方、顔は気弱そうで、実際、自分の意見よりも人の意見を尊重するような人間だった。細やかな気配りが上手だったし、仕事もできる方だった。
しかし、一度も本庁勤務にはなっていなかった。それを尋ねたら、「どうしてだろうね」なんて朗らかに笑っていた。
後に、彼が鳥敷という地域の出身であるがゆえだと知った。当然、出身地で配属先が決められるなどあってはならない。常識以前の問題だと憤りを覚えた。正しい人が正しく評価されないのだから許せるわけがない。
とはいえ、鳥敷の出身であるだけでなぜ本庁で勤務ができないのか、ただ出身が違うだけでなぜそこまで厄介者として特別な措置をしなければならないのか気になった。
文化財課に勤務していたので造作もなく史料を読み漁れた。そして私は、北塚と鳥敷の因縁がじっとりと絡み合っていることを知った。
予備知識を持ち、注意深く過ごしていれば北塚に住む者たちの肌感覚も分かるというものだ。
「北塚と鳥敷の衝突騒動は根深くてね──」
暑気払いの場で耳にした話だった。
今や、水桶町側から北塚に向けられる差別はほとんどない。若い世代は水桶町と北塚が合併したことすら知らず、元から北桶市の一部だったと思っている人もいる。合併によって融和が成されたと断言してしまって良いだろう。
しかし、北塚内の各地区から向けられる鳥敷への視線は──そうではない。
北塚の高齢者は、脛に傷のある者たちが鳥敷に住んでいると本気で考えているのだ。ややもすると、蛙の子は蛙、罪人の子は罪人というわけで、鳥敷の子とは付き合わないようにと指導する家庭すら存在するという。
彼らに北塚の賤民としての歴史を口にしようものなら喚いて拒絶する。その一方で、鳥敷は罪人の集落であると何かにつけて引き合いに出す。当然ながら、鳥敷の住人は「非人」ではなかったのに。
葬制を火葬へ切り替えた我々は、もう穢れとは無縁なのだ──という自尊心が見え隠れしていた。
北塚図書館で話をしたとき、ある老人はもっと侮蔑的に言い切った。捨てられて死んだはずの者たちの集落……死人の集落であると。
馬鹿げているが、大真面目な顔でそう語るのだ。
私にはまるで理解できない。人は人だ。そんな考え方には絶対に迎合できないし、してはならない。
私は差別を否定するための文献を探し回った。そして、講の家でその成果となる資料を見つけ出していた。鳥敷は昔から存在する集落であり、北塚で行われていた櫛陀川へ人を捨てる野蛮な風習とは、何ら関係がないことまで突き止めた。
死人の集落という言葉を、仮にも市から業務を受託しているコミュニティバスの運転手が発したときには思わず我を忘れてしまった。彼は北塚へ田舎帰りした若い運転手だった。詰問すると、老人に唆されたわけではないが、「鳥敷と北塚を往復するうちに、なぜかそんな感情を自然と抱いてしまった」と言い訳じみた謝罪を口にした。
もちろん、すべての人がそう思っているわけではないだろう。しかし、北塚に住む者は知識として留めているのだ。
大っぴらに北塚と鳥敷の関係を口にする者は少ないが、片隅にこびりついている過去の現実があった。
誰も隆人を責めることはしない。だが、人は万が一を考える。それが無謬性の強いられる行政ならば、事を荒立てないために彼一人を離れた場所に配属するという対応は「配慮」であり、とりわけ有効な予防策だったのだ。
彼もそれを理解していた。異動希望先は出先機関にしているとも言っていた。
ならば私ができることは何もない。人事課は彼の要望を叶えているに過ぎないのだ。
知らなかったとはいえ無神経に訊いてしまった。ただ、罪人だの死人だの揶揄されているからこそ、彼の誠実で謙虚な為人が引き立ち、より一層支えたくなった。彼も腫れ物扱いをしない私に惹かれているみたいだった。
二十一世紀となり、若者の間では同棲し、互いの考え方や生活スタイルを擦り合わせてから結婚するということがスタンダードになっているらしい。
しかし、私の世代は同棲を経て結婚という時代ではなかった。結婚とは両家の結びつきであり、単に二人だけの問題ではないのだ。
私と両親は折り合いが悪い。なので、大学卒業後は東京の実家に戻るという約束を破って半ば家出をする形で北桶市役所に勤めていた。だから結婚して身を落ち着けるという選択は、両親への面目を保てて都合が良かった。
田舎に住むということについて一悶着はあれど、最終的に両親も隆人の爽やかな印象に納得してくれたし、住めば都という諺もある。
隆人とは何度も二人で会っていたが、一度も喧嘩はなく順調だった。それもトントン拍子に話が進んだ理由の一つだ。
私が結納返しの品を納めに鳥敷を訪れたとき──両親を交えての御挨拶は丁寧に遠慮された──には、千代さんは腕によりをかけて料理を作ってくださった。そればかりでなく、姑に余計な気を遣わないようにと井戸端会議のために外出する配慮もしてくれていたのだ。
嫁入りに際して、花嫁道具を揃えられなかったことは今でも申し訳ないと思っている。
だから、千代さんが立派な木製の鏡台を私に譲ってくださったときには心から感謝した。嫁と姑の確執なんてまるでなかったので、私は人見家に嫁いだことに後悔なんて一切なかった。
あえて述べるとしたら、たった一つ……本当にただ一つだけ不満があった。些細なことで、否定するつもりもないのだけれど……鳥敷には、不気味な日本人形が多かったのだ。
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