六
「そんなの、たまたまかもしれないじゃないですか! 隆人さんが実は人に言えない悩みを……すみません」
思わず捲し立て、慌てて口を噤んだ。無礼な発言だった。
「構いませんよ。もう過去の出来事として受け止めています」
「……」
「でも、あえて答えるのであれば、隆人が自殺を選ぶほどの悩みを抱えていたとは思えません。あの頃は私たちにとって幸せの絶頂期でした。授かった命を育てる期待と覚悟を抱いていたときだったのです」
麻子は懐かしそうに言葉を継ぐ。
「二人で子育てについて気をつけるべきポイントをノートに書き連ね、子供のためにどんな教育が必要か話し合っていました。私が『早いうちから習い事をさせるべき』と主張し、彼は『自分から何かに興味を持つまでは自由にしておけばいい』と初めての喧嘩もしました。それも、互いに熱心だったからです」
話のとおりであれば、望んだ子を迎える準備を進め、出世の道も開かれたようなもの。自殺する理由は思い浮かばない。
「彼が降りた駅には監視カメラが設置されていました。時折後ろを振り返りながら、逃げるように走り去る彼の姿が映っていたそうです」
「…………」
「そして、最後には頭を打ちつけながら『死にたくない、死にたくない』と……。矛盾した言動ですよね」
麻子の唇が微かに震えていた。年月を経ても、言葉にするのは苦しいのだろう。
「それは……でも、戻るって選択肢だってあったはずじゃ」
「それを説明しなければいけませんか?」
棘のある返答だった。
そして、自身の発言は浅はかだった。
彼は帰れなかったのだ。差別を乗り越えて、やっと開かれた扉だったのだ。家族を養っていくためにも、北塚と鳥敷の関係を変えるためにも、扉の先に進まねばならなかった。「しきたり」のせいで引き返そうものなら、思い描いていた未来は画餅に帰してしまう。
仕事に信仰を持ち込む男というレッテルを貼られて。
「もちろん、隆人の死と鳥敷の掟に何らかの因果関係があると、本気で思っているわけじゃありませんよ。でも、そういう概念は、やはり目に見えないものですから……頭の片隅から僅かな不安が顔を出してくるのです。鳥敷の人は皆、多かれ少なかれ神との縁を信じています」
麻子は空気を変えようと珍しく明るい声を出した。
「それはそれで悪いことだけじゃありませんよ。神が目を光らせているのですから、鳥敷内での諍いや揉め事はほとんど起こりません。そういう意味では法律よりも優秀です……ああ、話し込んでいたらこんな時間ですね」
麻子に釣られて掛け時計を見ると十七時半を回っていた。
「夕食の準備をしますね。何もないので退屈かもしれませんが、待っていてください」
麻子はエプロンを着けて料理支度を始めた。
一人残された白石は麻子の話を咀嚼していた。
ありふれた話だと思った。しきたりを破り、人が死ぬ……それ自体は平板だった。ただし、そのエピソードから類推してみることには価値がある。
「鳥敷から出てはいけない」というしきたりは、おそらく子供に言い聞かせるために考えられた迷信と一緒なのだ。それは、北塚と鳥敷の確執ゆえか。北塚に住む者に殺されてもおかしくない、なんて時代の産物なのだろう。
突拍子もない話は一蹴する。人とはそういうものだと思う。裏を返せば、「そうかもしれない」と思わせてしまうことで、それが何であっても信仰になる蓋然性を秘めているとも言えるわけだ。
つまり、信仰が常識として定着するまでの道筋があるはずだ。今回の場合は、「都合がいい」という共通認識からしきたりとして定めたのだろうか。背景の理解を要さずとも、「鳥敷から出てはいけない」と言うだけで子供を危険から遠ざけられる……合理的だ。
しかし……何だろうか、この妙な感覚は。
ほんの僅かな異物感。唾を飲んだときに少し喉が痛み、風邪の前兆を何となく察してしまったかのような引っかかり。
「どうして守り神様を忘れたんじゃあ」──千代はそう嘆いたという。
露わになった感情は、その認識をも明確にした。
死に至った原因は掟を破ったから──なのだ。自殺と聞いたら心労や病気を疑いそうなものなのに。
千代にとって、信仰は何かの方便でも、都合でもないのだろう。そこに合理的な理由などないのだ。
「掟を破れば死ぬ」なんて抑圧甚だしいし、あまりに論理の飛躍がある。それでも、千代にしてみれば過激でもなんでもないのだ。
神罰でも祟りでもいいが、超越的存在による断罪として人死の根本原因を排し、禁を破ったことに思考を集約する。科学的な視点を持たず、死の要因を本人の咎だとするそれは……歪んだ信仰とでも言うべきか。
もし、そのような考えが鳥敷にのさばっているとしたら。
二十一世紀になっても鳥敷をぐるりと取り囲む掟。のたうちながら育ち続ける手足のない生き物……ああ、なんて愚かで気持ち悪く、そして……面白い。
人間の手で作られた信仰が、その手で制御できなくなれば、もはやそれは盲信だというのに。
曖昧なまま生きるなんて、怖くないのだろうか。せっかく二本の足があるのだから、何かにしがみつくのではなく、自分の足で歩いていくべきじゃないか。
自分の人生は自分で乗り越えなければならないことを、いい大人がどうして分からないのだろう。
まぁ、すべては主観というノイズに塗れた話。あくまで、人形が「ありがとう」と話しかけてくるほど精神的に動揺をしていた麻子の話だ。
白石は顔を上げた。田舎の古民家で一泊をするという非日常的体験にワクワクしていた。
縁側に出てみると、まだ明るいものの、山の向こうに太陽が沈みかけている。山に囲まれているので、平地より少し沈むのが早いのだ。
風が吹き抜けると暑さを和らげてくれる。ヒグラシの鳴き声、風鈴の音に包丁で何かを切るトントントンという家庭の音が混じる。
陽太は幼少期をここで過ごしたんだ。この家は、きっと平和だったんだろうな。
ああ、穏やかな両親に囲まれて過ごせたら、どんなに幸せだったか。
もし俺がこの家に住んでいたら、どんな毎日を──と思いを馳せた。
しかし、何分か経ったら退屈になってしまった。
「あ……」
納屋がぽつりと建っている。あの納屋は、麻子が日本人形を隠した納屋なのだろうか。
振り向くと、麻子は台所にいた。足元には、雨風に晒されて土のこびりついたゴム製のサンダルがある。
靴下が汚れるのも構わず、サンダルを履いて納屋へと近づく。
剪定されないままの植物が石垣に巻きつき、一メートルほどの夏草すら生い茂っている。草を掻き分けながら納屋の前に辿り着いたときには、小さな冒険心がくすぐられていた。
引き戸はずっと開けられていないのか、砂が噛んで引っ掛かっているみたいに重い。両手で力を入れるとズズズズッと開いた。
麻子の話のとおり、入り口には人形を置ける程度のスペースがあった。奥には簾、薬籠、竹行李、油壺とおよそ都会では見慣れない物が雑多に置かれている。どうにも砂と埃で空気が悪い。
話半分であったが、壊れた日本人形の残骸でもあれば、その信憑性は上がるだろうと思っての行動だった。
ならば、仏間の二体は麻子と千代のための人形なのだろうか。陽太の思い出話では、花嫁人形と七五三人形が飾られていたはずだが、七五三人形はもう飾っていないだろうから。
「ん?」
よく見ると、入り口には砂まみれの筵が敷いてあった。
白石は迷わず筵を引っ張り上げた。
「何もないか」
期待した証跡はなかった。やはり、二十年前の出来事なんて当てにならない。
白石は筵を元に戻した。
今更だとは思うが、人の家をあれこれと物色するのは──。
ちらりと振り返ると、麻子は居間のテーブルを拭いていた。
慌てて納屋を出た。姿を見られてしまっただろうか。無作法な奴だと思われただろうか。呆れられただろうか。
いそいそと縁側から居間に戻り、座布団に座って大人しく待つことにした。文房具、電話、食器などが雑然と置かれ、生活の中心といった様相だ。
そこで、ふと、カレンダーと文書が目に入った。
「形焚き祭」と八月一五日に赤ペンで記載されていた。その下には、形焚き祭の文書が画鋲で留められている。
もしかしたら回覧板で回ってきた文書かもしれないが、これは──。
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