二
聞き覚えのある声に振り向くと、人見麻子が立っていた。彼女はビニール袋を提げている。黒いボードがちらりと見えた。回覧板か何かだろう。
「私、言いましたよね」
「はは、言われましたね」
言い訳は無駄だろう。冷ややかな目を受け流すように、白石は肩をすくめる。
「はぁ……どうしてですか?」
「どうしてって? 僕は人見さんに……それこそ陽太に会いに来たわけじゃありませんよ。ただこの場所に興味があって、訪問しただけです」
「…………」
そう嘯く白石に、白々しいにもほどがあると麻子の表情が物語っていた。
「では、お忙しいかと思いますので、これで失礼します」
「ちょっと待っていてください」
余計な問答を避けるために別れの挨拶をするも、麻子が引き留めた。彼女は道を挟んで向かい側の家へ向かうと、ビニール袋を置いて戻ってくる。
「どこに宿泊するつもりですか? 鳥敷には民宿なんて便利な施設はありませんが」
「あ……」
そういえば、駅近くのビジネスホテルに泊まればいいと考えていたのだった。予定を変えて鳥敷に強行したのはまずかったか。
「いまさらだから、私の家に泊まっていきなさい」
「え、大丈夫ですか?」
「大丈夫って……」
麻子は最後まで言わなかった。
「ここです」と通り過ぎたばかりの家に案内される。風雨で摩耗した表札には、薄く人見と彫られていた。喪家を表す看板が見当たらなかったので気がつかなかった。
仰ぎ見ると、鳥敷の中でもかなりの年月が経っている日本家屋だ。桟瓦も軒瓦も幾枚か剥がれているし、石垣に蔓植物が茂っているし、どうにも管理が行き届いていない。
軒下には細い麻縄で吊り下げられた瓢箪がプラプラと揺れている。数個の踏み石の上を歩き、磨りガラスの玄関に辿り着いた。存外、田舎でも施錠はされているらしい。麻子が鍵をガチャリと開け、白石は先んじて中に入った。
そしてすぐに顔を歪めてしまった。
人見家の臭いは独特だった。何の臭いか分からない。湿気、黴、木材の腐敗、ダニや埃……色々な臭いが混ざり合っているというのが実態に近そうだ。
しかし、この不快感を安直に否定するのも違うだろう。
今までの生活環境と異なるから拒否反応が生じているだけではないか。田舎暮らしを知らずに鳥敷へ来たのだ。日本人同士でさえ価値観が異なっているなんて、方言や服装を見れば一目瞭然なのだ。郷に入っては郷に従えと受け入れる努力をすべきだろう。
「この家には、私と義母の二人です。片付いていない部屋もありますし、たまに木片が逆立って手足に刺さるときがありますので、不用意に出歩かないようにしてください。それと、義母は認知症ですので御挨拶は控えさせてくださいね」
玄関の正面には、壺、花瓶、達磨が飾られている。右手方向は二階へ続く階段があるものの、他には小さな収納扉しか見受けられない。
左方を見れば北と西に向かって廊下が伸びている。その廊下に囲まれるようにして居間があった。
キョロキョロとしていると麻子が隣をすり抜けて、西へ歩いていく。玄関横の炊事場を横目に、廊下の突き当たりにある御不浄の前まで来ると、右手に折れ、そこで廊下は縁側へと姿を変える。
頭の中で平面図を描いてみると、居間は玄関から北へ伸びる廊下、西へ伸びる廊下、縁側と三方が通路らしい。
さらに縁側を進み、麻子は居間の奥の部屋に誘導する。
「おお……」
歴史を感じさせる木製の家具類に目を奪われた。重厚な和箪笥には、金属の取手を掴んで開けてしまいたくなる魔力があった。
客間への案内を終えた麻子は「お待ちください」と一言残して席を外し、冷えたお茶と菓子を持って戻ってきた。
「あ、座っていただいて大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
綿の潰れた薄い座布団の上に白石は座ろうと中腰になるも、思い直して立ち上がった。その前にやるべきことがあったのだ。
「……陽太は?」
麻子はカタリと茶菓子を置いて、「そちらです」と白石の背後を指差した。
振り向くと、閉められた襖。
「開けても?」
「はい」
仏間だった。警察署で向かい合った棺がそのまま安置されている。
そういえば、陽太は居間、客間、仏間の三部屋が隣り合っていると話していた。
一歩、敷居を跨いだ先の空間は空気がひやりとしている。日陰のまま空気が入れ替わりにくいから、客間よりも室温が低いのだろう。
もしかしたら棺の中にドライアイスでも入っていて、それが影響しているかもしれない。
左奥の床の間には二体の日本人形が座していた。正確には、いかにも日本人形の入っていそうな四角い物体が本紫色の布に覆われていた。
またか……。
分かっていることではあるが、そろそろ嫌気がしてきた。仏間は気が滅入る雰囲気を醸しているので、なおさら良くない。
左側の人形はもう何年も手入れされていないのか、布の上に埃が積もっている。右側にはそのような痕跡がないので、アレを麻子が持ち歩いたのだろう。
焼香用の香炉は見当たらなかった。祈りの所作を終え、客間に戻って麻子と向かい合ったものの、背後を意識してむずむずしてしまうので、襖は後ろ手で閉めておいた。
「それで……こんなところまでやってきて、白石君は鳥敷の何を知りたいのですか?」
「何を、って決めているわけではないんですが、この村には『曰く』がありそうだったので、その根本というか……伝承を知りたくて来ました」
白石は本音を隠すことなく伝えた。
「どうして知りたいのですか?」
「純粋に好奇心と研究のためです」
そう答えると、麻子は案の定とでも言いたげに小さく息を吐いた。
「たとえば、一九六〇年代でしたか。洞窟事故が起こりました」
「え?」
随分と唐突な切り出し方だ。
「六人が帰らぬ人となった、後世に残るほど有名で痛ましい事故です」
白石は麻子を見つめ、その真意を測ろうとした。
「彼らは未探索のエリアへ向かっている途中でした。『人類未踏の領域』という謳い文句にでも惹かれたのでしょう」
麻子はそう話しながら、はっきりと白石を見つめ返した。
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