八
鳥敷に関連する内容はこれくらいだろうか。水桶町と北塚村の差別被差別の関係に加え、北塚村内でも、北塚側と鳥敷側という差別被差別の関係があったのだ。麻子の話していた差別の歴史とは、これのことだろう。
白石が写真を撮り、必要な記述をメモしていると、いつの間にか正午を回ってしまっていた。
そろそろ行かなければならない。路線図を調べた限りでは、鳥敷に向かうには、日に三本しかないバスに乗る必要がある。
急いで資料を元の棚へ戻し、図書館を後にする。
ビジネスホテルに泊まり、都合の良いタイミングで鳥敷に向かえば良いと考えていた。事実、ここに来るまではそのスケジュールで良かった。
それがまさかの中止である。加えて、『北塚村誌』に記述されている北塚の形焚き祭と陽太の話した鳥敷の形焚き祭は明らかに異なっていた。
そもそも、日本人形の記述など一文たりとも存在しなかったのだ。
鳥敷の形焚き祭でなければ、何もわからないのではないだろうか。
鳥敷に向かう乗客はいない。乗り込んだバスはいわゆる観光バスではなかった。最大十人乗り程度のジャンボタクシーであり、行政によって運営されているコミュニティバスであった。
言うまでもなく、過疎地域である鳥敷を往来するバスに収益性などない。交通弱者のために路線を維持せざるを得ない大赤字覚悟の福祉政策だろう。
人のいない商店街を抜けて、どこかで見たような田園風景の中をコミュニティバスが走り抜けていく。
日差しが水田に降り注ぐと、白く乱反射して煌めいていた。景色を楽しんでいると、大きな人工物が視界を遮った。
清潔感のあるセレモニーホールだった。土地を存分に活用した駐車場には二十台ほど自動車が停まっており、高い煙突から白い煙が立ち昇っている。
空に溶けていく煙をぼんやりと眺めつつ、腹が減ったな……と考えていた白石は、母に連絡していなかったことを思い出した。
「すみません。電話してもいいですか?」
「大丈夫ですよ」
そう許可してくれた運転手とバックミラー越しに目が合ったので、礼を言いながら軽く会釈をする。
「ありがとうございます…………もしもし」
「もしもし、透?」
「うん。明日には帰る予定だったんだけど、ちょっと帰れなくなった」
「え! ちょっと、なんでよ!」
金切り声に携帯電話を耳から離しつつ、白石は努めて冷静に返答した。
「レポート用の現地調査があってさ。予定より遠くに行かなきゃならなくなったんだ。でも、今週中には帰れると思うから」
「嫌よ、そんなの! 今すぐ帰ってきて」
「だから無理だって言っているだろ。それじゃ、もう移動中だから、切るね」
「ちょっと!」
「また連絡するから」
白石はそう言い残して電話を切った。
ブブブとマナーモードの携帯電話が震え出す。表示を見なくても分かる。納得していない母が掛け直しているのだ。
冷たいようだが、どれだけ説明しても母は理解しない。何度も経験すれば、取扱要領も心得るというものだ。今回の場合もそう。単に心細さから構ってほしくて、迷惑を承知で掛けているだけ。取り合わないのが最善だ。
この手段を効果的に使うために、普段はこまめに電話応対しているのだ。
白石が電話に出ないまま放置すると、数分後に震えは止まった。
諦めの悪い。
バイブ音すら耳障りだった。鳥敷へのワクワク感に水を差されたという気持ちが拭えない。
いつの間にか田園は消え去り、高い木々の間を縫うようにうねうねと山道を登っていく。
左手にチラチラと見える川は、おそらく櫛陀川。かつて口減らしが行われ、血の流れた川だという。そう思っていると川は遠くなり、数分後には完全に森の中へ。どちらの方向を向いているかも分からなくなったとき、急に目の前にトンネルが現れた。
──鳥敷隧道だ。
あっという間に、暗いトンネルの中に入った。
トンネルに入るまでの一瞬、上の方に何か、ロープのようなものが見えた。おそらく注連縄を見たのだと思う。そして、こんな頭上に注連縄があったのならば、それは「道切り」だったのだろう。
集落の内外を分かち、外界の悪いものから村を守る結界としての役割を果たす道切りは、現在においても様々な地域に残っている。
だがしかし、決定的な違いがあったと思うのだ。奇妙な何かが付属していた……ような気がする。普通の注連縄ではあり得ない何か……という感覚はあるのだ。しかし、その最も印象に残るはずのものが、ストンと抜け落ちたかのように思い出せない。
いったい、あれは──。
考えているうちに、バスは照明すら整備されていない古いトンネルの中を進んでいく。
内外の気圧差で耳にズーンとした不快感が湧き起こった。雨が降っているわけでもないのに、バスの明かりで照らされている地面は水に濡れており、苔が生えている。トンネルの割れ目を伝って地下水が漏れ出しているのだろう。本当に管理されているのか疑わしい。
トンネルに入ってから数十秒のようにも、数分かかっているようにも思えてきた頃、突然トンネルを抜けた。
そこに雪国のような美しさはなく、灰色の雲と視界を覆う木々が生い茂るばかりの世界だった。
道を降り始めてまもなく、山と山の間にある窮屈なスペースを切り拓いた集落が顔を出した。
田舎の土地は田畑が九割、隣の家まで数百メートルの距離があるというイメージだろう。しかし、山間の地域においては地形の制限もあってかなり密集してコミュニティが形成されるみたいだ。家々が斜面に沿って立っており、高低差を繋ぐ間延びした坂道や急階段が張り巡らされている。
先ほど気持ちの良くない資料を閲覧したからか、何か澱んだ地域であるように錯覚してしまう。
ここがそう、とあえて指摘できる特徴はない。
ただ、山の窪みに溜まった鳥敷の空気は、もうずっと入れ替わらずに滞留を続け、すべてを腐らせてしまっているような──そんな直感だった。
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