三
数日後、人見麻子から連絡があった。
遺体を保全する専門的な処置を施した上で、棺であれば対面ができるようになったらしい。また、「事件性なし」と結論づけられたのだという。
淡白な現状報告を聞き終え、こちらが詳細を尋ねる前に通話は終わってしまった。
たった数日で諸々の処理が終わるとは驚きであったが、法律上、検視せざるを得なかっただけなのかもしれない。
遺体は警察署に安置されているとのことで白石が赴くと、入口付近の長椅子に座っていた女性がこちらを窺うように目を合わせた。互いに顔を知らないが、警察署で待ち合わせをする人なぞ他にいるわけもないので、目で意思疎通をしたのだった。
息子を亡くした母というのは、少なからず憔悴してしまったり、窶れてしまったりするものであると思っていた。
しかし、立ち上がって歩いてくる彼女の姿には品があった。
眉間には化粧でも隠せない皺が刻まれている。それでも、怜悧な美人であった面影がある。
黒一色のワンピースから香水の匂いが立ち上り、ツンと鼻を刺激した。
「お忙しいところお時間いただきありがとうございます。お悔やみ申し上げます」
図らずも不快感が表情に現れてしまい、慌てて頭を下げて誤魔化したのだった。
「堅苦しくしなくても大丈夫ですよ。随分と礼儀正しいですね。まだ学生なのに」
麻子は業務連絡の口調で褒めた。
「ありがとうございます」
嫌味ではないのだろう。癇に障る言い方だったが、白石は素直に感謝を述べた。
挨拶もそこそこに、警察官の誘導に従って「関係者以外立入禁止」とプレートの貼られた扉の向こう、遺体安置室へと向かっていく。
灰色の廊下を歩いていると、前を歩く人見麻子から古い家の残滓が散らばった。使い古した服には見えない。衣装箪笥かクローゼットが黴びてしまっているのか、臭いがジメジメと染み付いているようであった。強い香水の匂いは、こびりついた異臭をどうにか掻き消すための手段なのかもしれない。
ふと、麻子の背負う黒いリュックが目に留まった。年相応の服装に加えて、高価そうなハンドバッグも持っていたので、男性用の黒いリュックは統一的なシルエットから浮いてしまっている。
そんなリュックのフロントは──。
白石は絶句した。
まさしく角柱の側面を押しつけたかのごとく、ボコリと盛り上がっていたのだ。
そう、見たことがあった。あのようなフォルムを。
あれは……人形だ。
凹凸に見覚えがある。陽太の家にあったアクリルケースとそっくりの大きさなのだ。
黒いリュックの中には、きっと日本人形が入っている……。
遺体安置室の中央には布の敷かれた銀色の台があり、その上に桐の棺が安置されていた。上蓋は閉じられている。通常であれば上蓋は開かれ、打ち覆いが外されて遺体と対面するのだろう。
しかし、棺が開かれることはなかった。やはり顔を見ることはできないようだ。
一方で、腐敗臭はしない。エンバーミングが施されているのだろうか。もしくは臭気を漏らさぬために遺体用の特別な袋にでも包まれているのかもしれない。
麻子も警察官も喋らない。ただ無機質な棺だけが冷たい蛍光灯の光を浴びて存在感を放っている。
その中に友人がいる。中を見なくとも、中を見ていないからこそ、妙に実感が湧いてくる。
友人は死んだのだ。そう思いながら、ちらりと麻子を見た。息子を失った母親の様子を知りたかった。
白石は彼女を見て……息を呑んだ。
白石は元々、「自分を傍観しているもう一人の自分」が頭を冷静にさせてしまうパーソナリティではあった。涙を流すようなことは、あまりない。
ただし──今回に限っては性格の如何によるものではなかった。そもそも陽太の死を悼む心持ちではいられなかった。
その原因は棺を挟んで対面にいる麻子にあった。
彼女が……いったいどういうわけなのだろう。どうも、こちらをジッと見ているみたいなのだ。手を合わせ終わったときも、なんとなく棺を撫でたときも、一切視線を外さず、黒い瞳でこちらを見続けている気がする。
目の前に息子の棺があるというのに、そっちのけなのだ。
探るという感じではない。ただ視線を一点だけに集中させて、像のように固まっている印象だった。
もう一度、ちらりと麻子の顔を見て、すぐさま右上に視線を逸らした。
言い知れぬ気持ち悪さだった。その目に感情が宿っていない。そう見受けられたのだ。見られているのは確かである。しかし、彼女が何を思っているのか全く分からない。
どうにもそわそわとしてしまい、陽太との思い出に浸る余裕など全くなかった。
「ええと……本日はお時間をいただきありがとうございました」
「いえ、陽太のためにありがとうございました」
「あの……この後、時間はありますか? 陽太との思い出についてお話しできたらと思うんですが」
「分かりました」
麻子はそう承諾すると、扉の側に立っていた職員に「もう大丈夫です」と声を掛ける。
早く帰りたいのか、彼女は立ち上がってから足早に出口へと向かった。部屋を出る直前に振り返り、陽太の遺体を一瞥、そして周囲をぐるりと見回すと、再び逃げるように去っていった。
何なのだろうか。
陽太の言うとおり淑やかな母に見える。しかし、垣間見える麻子の表情はうまく理解できなかった。そしてそれが、とても重要な……見通せていない何かである気がしてならなかった。
結局のところ、最も怖いのは人間だ。どれだけリアリティがあろうともオカルトとはエンターテインメントの一つであり、作り話に分類される虚構なのだ。
その反面、人間という生物に絶対はない。経験則から誰に対しても一定以上の警戒心を抱くというのは必然であった。
麻子の後ろ姿を眺める。とはいえ、彼女に何をされたわけでもなく、受け答えは冷静で知的だ。話をするくらいなら何の問題もない。
好奇心が勝った。
たとえ最悪を想定しても、相手はたかが女。男の力なら負けない……なんてな。
くだらない妄想をしながら遺体安置室を後にした。
喫茶店に入り、白石と麻子は向かい合って座った。食事を楽しみにきたわけではなかったので、二人はなんとなく目についたアイスコーヒーを注文した。
「あなたは陽太とどこで知り合ったのですか?」
「たまたま初日の授業で席が近くて、それから一緒にいる時間が自然と多くなったんです。二人で課題をやったり、飲みに行ったり……」
麻子がウンウンと相槌を打つ。
「白石君はどうですか? 大学生活は」
「楽しいですよ。陽太からは『真面目すぎる』なんて言われていましたが、授業も面白くて……」
彼女はアイスコーヒーを飲みながら耳を傾けている。
「スポーツをしているのですか? 日焼けしていますね」
「そうですね、自分はサッカーが好きで……」
彼女は「すごいですね」と感心する。
「私も大学生活は楽しい思い出しかありません。白石君は、どうですか?」
「もちろん、今が一番ですよ。ありきたりですけど、陽太と飲みに行ってベロベロに酔っ払ったときとか、もう、わけが分からないくらい楽しくて。こんな話をしても良いのかな……」
彼女は興味深そうに質問してくる。
色々と話をするうちに、麻子に対する警戒心は解けていった。
なんてことはなかった。彼女は立派な母だった。大学に入ってから一回も帰省していない陽太を、実家で心配していたみたいだった。
彼女は東京出身だと陽太は話していた。話し方に訛りはなく、丁寧で年相応の奥ゆかしさを身につけた女性であると思った。
感情に振り回されている実母と違い、理知的な性格が好ましく、ついには、こんな女性が母だったらもっと幸せだったんだろうな──とまで評価していた。
陽太を羨みつつ、麻子のためを思って熱心に話をしていると、自身の心の整理も終わっていた。
飲み終えたアイスコーヒーの氷が溶けて水がたまっている。
「すみません、ちょっとお手洗いに……」
「ええ」
白石は席を立ち、WCの表示板を見つけて歩いていく。
「話が弾んで良かった」なんて上機嫌で手を洗っていると、またも……妙なことに気がついてしまった。
麻子は陽太自身を主眼に置いて質問しなかった。たとえば、趣味、人間関係、サークル活動……彼女の知らない大学時代の陽太について知りたいと思うのが当然ではないのか。
白石は陽太について話をするために、彼との大学生活に焦点を当てて喋っていた。しかし、麻子から振られる話は基本的に『白石の大学生活』についての質問だった。考えすぎなのかもしれないが、彼女は別に陽太のことを知りたいとは思っていないのではないだろうか。
一度、そう認識してしまうと、麻子の振る舞いに違和感を覚えてしまう。
とはいえ、それは今回訊きたい本題である鳥敷のこととは無関係だ。温まった場もそろそろ冷めてしまう。
白石は戻りながら麻子に目を遣った。
彼女は目を開いたまま、姿勢良く待っていた。
──え?
白石の足が止まった。そんな麻子の居住まいの奇妙さに。
やはり、この女はどこかがおかしい。
ジーッ……。
その姿を見た人はそのような擬音を使うのではないか。
彼女は、誰も座っていない座席をジーッと見ているのだ。もちろん、物思いに耽っているという様子ではない。
待っている間に新着メールを確認する、外の景色を見る、店内の絵や小物を楽しむなど色々と暇を潰せるはず。それなのに、彼女はただジーッと……。
そう思っている間もなお、目の焦点は何の変哲もないシートにしっかりと合ったまま。しばらく立ち止まっていたのだが、麻子は金縛りに遭っているかのように、ピクリとも動かぬまま座席を見続けている。
何の意味があって、座席を見つめているのか。いや、少し違う……彼女は座席を見つめているという様子ではない。
今の麻子は座席を見ていない。座席に焦点を合わせることで、別の何かを見ないようにしている……?
陽太の遺体を前にして、こちらを凝視していたと思ったのだが、もしかしたらそれは俺に向けられたものではなかったのかもしれない。
麻子の見つめる先に、偶然にも俺が立っていたに過ぎないとしたら……因果が逆だったのだ。
癖なのか分からないが、不気味である。彼女の浮世離れした側面に緩んでいた気持ちを引き締めつつ、自然な調子で声を掛けた。
「すみません、お待たせしました」
そう言うと、麻子は何事もない様子で返答する。
「では、そろそろ行きましょうか」
「最後に良いですか? 実は今期のレポートの題材に『鳥敷』を取り上げようと考えていまして」
「……どうしてですか? 何か陽太から聞きましたか?」
「あ、はい。人形を祀る集落であると」
「ええと、そうですか……」
麻子は急に顔を顰めると、考え込んだ。
「実は、私たちの集落には差別の歴史が残っています。だから、あまりそういったセンシティブな話題には踏み入ってほしくありません。申し訳ありませんが、そのテーマ……変えてもらえないでしょうか」
被差別部落の問題は白石も知っていた。身分制度などとうの昔に廃止されたというのに、二十一世紀に入っても出身や職業で差別を行う人間がいるという事実に驚き、その人間性を哀れんでいた。
麻子の言葉遣いは、物分かりの悪い子供に伝えるように優しく諭す言い方ではあったが、有無を言わせぬ語気であった。
さりとて、退くわけにはいかない。
「あ……そうでしたか。ただ、陽太と約束したんです。最後に会ったときに、陽太は『面白くない』と言いながらも話をしてくれました。私が興味を持っているなら、と。だからこそ、最後にしてくれた話を無為にはしたくないんです」
「それ以上はやめてください」
険しい声で麻子は遮った。
「私たちには私たちの事情がありますから」
「……分かりました。不躾な話をしてしまって申し訳ありませんでした」
「いえ、陽太を大切に思ってくれてありがとう。あなたが友達で良かったと……そう思います」
あまり進展のないまま、麻子と別れてしまった。白石は去っていく彼女と黒いリュックの凹凸を遠目に見ながら、諦めきれない思いを抱えていた。
陽太をダシにしたら鳥敷の歴史を教えてもらえるのではないかと思い喫茶店に誘ったのだが、当てが外れてしまった。
とはいえ、ある程度の情報は得られ、方針も決まったようなものだ。
先日、大学図書館で下調べしたときには、鳥敷に関する資料がほとんど探し出せなかった。それも、今では推測ができる。基本的に、被差別部落は差別や偏見の再生産を防ぐため、名前が伏せられている。「部落地名総鑑」がどれほど人々の心を傷つけたか。資料を公に残すはずがないのだ。
幸い、手がかりはある。
鳥敷の部落会や委員会が郷土史を編纂し、積極的に残しているわけではなさそうだ。ただ、鳥敷が北桶市内に存在するということは既に知識として持っている。周辺地域に赴けば、大学図書館が保管していない郷土資料を見つけられるかもしれない。
差別という根深い問題を前にしても、白石は湧き起こる知的好奇心を抑えられなかった。
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