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第八話 誰にも見えない手

 食卓に、四つの器が並んでいた。

 青はルカ。緑はミア。白はノア。

 そして、何の飾りもない黒い器がゼインのものだった。三人で勝手に決めたらしい。


「パパの、こっち」


 ノアが黒い器を両手で持ち、ゼインの前へ置いた。


「ああ」


 返事をすると、ノアが満足そうに笑う。

 白い服の裾から覗いた細い尾が、椅子の後ろでゆっくりと揺れていた。

 朝の食卓には、昨日リディアが置いていったパンと果物が並んでいる。ゼインが煮た肉もあったが、三人とも最初にパンへ手を伸ばした。おそらく偶然ではないのだろう。


「今日はどこに行くの?」


 ミアが果物を切り分けながら尋ねる。


「外壁区画だ。保護登録の証票を受け取る」


「私たちの?」


「ああ」


 仮のものだが、証票があれば街の配給所や医務院を利用できる。三人を人間の孤児として暮らさせるなら、必要だった。


「パパ、竜を倒す?」


 ノアが身を乗り出す。


「今日は倒さない」


「お仕事じゃないの?」


「書類を受け取るだけだ」


 ノアは少し考えたあと、椅子から降りた。


「私も行く」


「必要ない」


「お留守番?」


「そうだ」


 ノアは素直に頷いた。

 だが、ゼインが外套を手に取るとその裾を掴んだまま離そうとしない。白い服の下で細い尾が力なく垂れていた。


「書類を受け取るだけだ」


「うん」


「竜は出ない」


「うん」


 返事をしながらも、手は外套を掴んだままだった。

 ゼインはしばらく、その小さな指を見下ろした。


「……俺から離れるな」


 ノアが顔を上げる。


「行っていいの?」


「勝手なことはするな。何かあれば、俺の言う通りにしろ」


「分かった!」


 垂れていた尾が、一度だけ大きく揺れた。返事だけは素直だった。

 ゼインはルカを見る。


「留守を頼む」


「分かった、父さん」


 ルカは頷き、その隣でミアが頬を膨らませた。


「次は私も連れていってね、お父さん」


「必要があればな」


「それ、連れていかない時の言い方だよ」


 ゼインは答えず、外套を手に取った。


     ◇


 外壁区画は、商業区よりも幾分か人数がまばらだ。城壁の補修に使う石材や木材が積まれ、その間に兵舎と倉庫、工房が並んでいる。居住区もあるが、暮らしているのは兵士と職人、その家族がほとんどだった。


 ノアはゼインの隣を歩きながら、忙しなく周囲へ目を向けている。城壁の上を進む兵士。資材を持ち上げる魔道具。荷車を引く大きな獣。見るものすべてが珍しいらしい。

 道を行く兵士たちは、ゼインへ気づくたびに背筋を伸ばした。


「討竜官殿」


「お疲れさまです」


 短い挨拶だけを残し、道を空ける。その視線が、手を繋いだノアへ移る。

 昨日までなら、警戒や疑念が先に立っていただろう。市場でダリオと揉めた話は、すでに前線軍の中へ広がっているらしい。


「あの子が、例の孤児か」


「三人引き取ったって話だろ」


「本当に子供と歩いてるぞ……」


 声を潜めているつもりでも、ゼインには聞こえていた。

 ノアも気づいたらしい。


「みんな、パパのこと見てる」


「前を見ろ」


「有名だから?」


「仕事を知られているだけだ」


 ノアは繋いだ手を見たあと、どこか嬉しそうに前を向いた。

 証票を受け取る建物まで、残り一つの通りだった。


 その時、城壁上の結界塔が白く明滅した。

 低い振動が空気を伝い、直後に警鐘が鳴り響く。

 一度。

 間を置かず、三度。

 街の内側へ竜が侵入したことを知らせる鐘だった。通りを行き交っていた人々の表情が変わる。


 この都市を覆う結界は、接近する竜の感覚を乱し、街から遠ざける。その内側まで入り込まれることなど、以前は滅多になかった。

 だが、最近は違う。

 縄張りを捨て、結界を恐れず、人里へ近づく竜が増えている。

 東の空で、黒い影が白い光を突き破った。

 片翼から血を流した飛竜が、制御を失ったまま外壁区画へ落下してくる。


 竜だ。


 その姿を認識した瞬間、ゼインの胸の奥で、黒い感情が燃え上がった。

 炎に包まれた故郷。血に濡れた家族。あの夜、自分を見下ろしていた赤い瞳。

 目の前の飛竜は、あの黒い竜ではない。それでも、同じ姿を持つというだけで、殺意は刃のように研ぎ澄まされていく。

 竜は殺す。

 決して忘れられないほど深く、その憎しみは魂へ刻まれていた。

 ゼインはノアを抱き上げ、石造りの水槽の陰へ飛び込んだ。


 直後、飛竜が建物の屋根へ激突した。


「パパ……」


「ここにいろ」


 ノアを水槽の裏へ下ろす。


 近くにいた若い兵士を呼び止めた。


「この子を見ていろ」


「は、はい」


「何があっても、ここから出すな」


 兵士がノアの前へ立つ。

 ゼインは通りへ戻った。

 正規兵が十数人、すでに飛竜を取り囲んでいる。だが、誰も魔道具を撃てずにいた。

 崩れた住宅の二階から、子供の泣き声が聞こえる。


「中に何人いる」


 現場を指揮していた隊長が、ゼインへ振り返った。


「確認できているのは七人です。五人は一階、母親と子供が二階に取り残されています」


「砲撃は」


「無理です。飛竜の下に主柱があります。撃てば、建物ごと崩れます」


 飛竜が翼を広げた。離陸しようとしている。片翼が傷ついているため飛び上がることはできないが、暴れるたびに屋根が沈んだ。


「討竜官殿、内部の人間を出すまで押さえます」


「お前たちでは、その前に屋根が落ちる」


 隊長は反論しなかった。事実だった。

 魔道具を使えば建物が崩れる。剣で近づけば、飛竜の尾と炎に耐えられない。

 兵士が弱いのではない。普通の人間にできることが、もう残っていなかった。


「北側の通りを空けろ」


 ゼインは外套を脱いだ。


「水術具を二基、住宅へ向けろ。竜には当てるな」


「何をするおつもりですか」


「引きずり下ろす」


 剣を抜く。

 飛竜がゼインへ顔を向けた。傷ついた獣ほど、目の前の敵へ執着する。

 ゼインは屋根へ続く資材の山を駆け上がった。


「討竜官殿!」


 背後から声が上がる。

 積まれた木材を踏み台にして跳ぶ。

 飛竜の炎が放たれた。空中では避けられない。


 ゼインは剣を振り下ろした。炎の中心を刃で裂く。左右へ分かれた熱が肩を焼いたが、構わず飛竜の首元へ着地した。鱗の継ぎ目へ刃を突き込み、身体を固定する。

 飛竜が暴れた。翼が振り回され、瓦と木片が通りへ飛ぶ。

 ゼインは剣を抜かず、首の上を走った。角を掴み、傷ついていない翼の根元へ短剣を差し込む。

 筋を断った。

 飛竜の身体が大きく傾く。屋根が軋んだ。

 崩れる前に、ゼインは竜の首へ腕を回し、足を屋根へ食い込ませる。

 巨体の重みが全身へ掛かる。人間の力で動かせる重さではない。

 左目の呪いが脈打った。昨日喰らった竜核の残滓を、身体の奥から引き出す。黒い熱が腕と背中へ走った。


「おおおおッ!」


 飛竜の身体が、屋根から浮いた。

 通りで見ていた兵士たちが声を失う。

 ゼインは竜の首を抱えたまま、北側へ身を投げた。飛竜の巨体が屋根から引き剥がされる。

 竜とともに通りへ落下する寸前、ゼインだけが背中を蹴って離れた。

 地面へ叩きつけられた飛竜が、苦しげに首を上げる。


 ゼインはその頭上へ降りた。剣を逆手に持ち、頭蓋の隙間へ突き下ろす。刃は脳を貫き、そのまま首の奥にある核まで届いた。硬い感触が砕ける。

 飛竜の身体が一度だけ大きく震え、それきり動かなくなった。


 竜を引きずり下ろしてから、数呼吸。兵士たちは、まだ魔道具を構えたままだった。


「消火を続けろ」


 ゼインの声で、ようやく全員が動き出す。


「救助班は一階へ。二階には俺が行く」


「崩落の危険があります!」


「だから俺が行く」


 燃える住宅へ入った。


     ◇


 中は煙に満ちていた。

 天井から炎が垂れ、床には砕けた梁が積み重なっている。普通の人間なら、数歩進むだけで呼吸を奪われる。

 ゼインは口元を布で覆い、泣き声の方角へ進んだ。

 一階の住民は、兵士たちが運び出している。二階へ上がる階段は途中で崩れていた。壁へ足を掛け、残った梁を伝って上へ登る。


「誰かいるか」


「ここです!」


 女の声。

 奥の部屋で、母親が幼い子供を抱きしめていた。倒れた棚に脚を挟まれている。

 ゼインは棚を持ち上げた。


「立てるか」


「足が……」


「子供を渡せ」


 母親から子供を受け取り、片腕で抱える。もう一方の腕を女の腰へ回し、立ち上がらせた。

 その時、頭上で大きな音がした。屋根が、炎に耐えきれず崩れ始めている。

 出口まで戻る時間はない。


「窓へ行け」


 女を押し出すしかない。二階の窓の下では、兵士たちが救助布を広げていた。


「飛び降りろ」


「でも、この子が――」


「後から連れていく」


 女が窓から飛ぶ。下で兵士たちに受け止められた。

 ゼインは子供を抱え直し、窓へ向かう。

 天井が落ちた。

 巨大な梁が出口を塞ぐ。炎と瓦礫が、前後から迫ってくる。

 自分一人なら抜けられる。だが、子供を抱えたままでは、炎から守るために片腕を使えない。梁を砕けば、その衝撃で残った天井まで落ちる。

 数瞬。

 それだけ足りなかった。

 ゼインは子供を胸元へ抱き込み、落下する天井を見上げた。

 その時だった。


 白い光が、瓦礫の隙間から差し込んだ。


 光は一瞬で薄い膜となり、落ちてきた梁と天井を包んだ。

 崩落が止まった。

 完全に支えたわけではない。落下する速度が、わずかに鈍っただけだった。

 だが、それで十分だった。


 ゼインは床を蹴る。子供を抱えたまま梁を飛び越え、窓へ向かって走った。

 背後で白い膜が砕ける。建物全体が崩れ始めた。

 窓枠を蹴り、外へ飛び出す。

 空中で子供を抱き直した。着地と同時に膝を曲げ、衝撃をすべて自分の身体へ逃がす。


 直後、背後の住宅が轟音とともに崩れ落ちた。

 粉塵が通りを覆い、兵士たちが駆け寄ってくる。

 抱えていた子供は泣いていた。

 生きている。


「ああ!」


 救出された母親が、足を引きずりながら走ってくる。

 ゼインは子供を差し出した。母親はその場へ膝をつき、何度も頭を下げた。


「ありがとうございます……ありがとうございます……!」


 周囲から、遅れて歓声が上がった。

 避難していた住民までもが、通りの両側からゼインを見ている。


「あれが、独立討竜官……」


 若い兵士が呟く。

 ゼインは答えなかった。

 歓声も、感謝も、自分には関係がない。子供を助ける必要があったから助けた。それだけだった。


 人垣の向こうへ視線を移す。

 倒れた荷車の陰から、白い頭が少しだけ覗いていた。

 目が合うと、ノアは慌てて顔を引っ込めた。

 ゼインは何も言わず、救助された子供へ視線を戻した。


     ◇


 騒ぎが収まるまでには、しばらく時間が掛かった。負傷者が医務院へ運ばれ、飛竜の死体には軍の封鎖布が掛けられる。

 ゼインは救助報告へ最低限の署名だけを残し、ノアを連れて外壁区画を離れた。

 その間、ノアはほとんど口を開かなかった。ゼインの隣を歩きながら、ときおり横目でこちらの様子を窺っている。勝手に行動したことを咎められると思っているのだろう。

 ゼインも、何も言わなかった。


 人通りが減り、二人の足音だけが城壁沿いの道へ響く。

 しばらく歩いたところで、ノアがゼインの外套を引いた。


「パパ」


「何だ」


「怪我してる」


 ノアが指したのは、ゼインの左腕だった。飛竜の炎を剣で裂いた際、袖の一部が焼け落ちている。その下の皮膚も赤く爛れていた。戦ううえでは支障のない傷だった。


「放っておけ」


「痛くないの?」


「痛いか痛くないかで言えば――まぁ痛くないわけでは、ない」


「じゃあ駄目」


 ノアは立ち止まり、ゼインの腕を両手で包んだ。

 振り払う間もなく、小さな指の隙間から白い光が滲み出す。


 ゼインは眉を寄せた。

 熱を持っていた皮膚が、急速に冷えていく。爛れていた傷口が縮まり、新しい皮膚に覆われていった。

 数秒後には、火傷の痕すら残っていなかった。

 ノアはゼインの腕を掴んだまま、目を丸くしている。


「……治った」


「……」


 ノア自身も、何が起きたのか理解していないようだった。


 人間の治癒魔術ならば、術式と魔道具を必要とする。傷を完全に消すほどの術となれば、専門の治癒術師でも短時間では不可能だ。

 だがノアは、触れただけで傷を元へ戻した。

 白い障壁。人間の身体を癒やす光。


 やはり、竜だ。


 幼い人間と同じ姿をしていても、その内側にあるものは明らかに違う。人には扱えない術を使い、人を襲う化け物。こいつもいつか、他の竜と同じく人間に牙を剥くかもしれない。黒い竜が、何らかの目的で残した罠である可能性も消えてはいない。

 そのはずなのに、傷へ触れる小さな手を、ゼインは振り払えなかった。


「もういい」


 そう告げると、ノアはようやく手を離した。

 二人は再び歩き始める。ノアは自分の手を眺めながら、何度も指を開いたり閉じたりしていた。


「さっきも、何かしたな」


 ノアの足が止まる。


「……何のこと?」


「建物が崩れる直前、白い膜が出た」


 ノアは黙り込んだ。


「あの洞窟で、お前たちを包んでいたものと同じだ」


 服の裾を握り、俯く。


「パパと、あの子が潰れそうだったから」


「それで、勝手に持ち場を離れたのか」


「ごめんなさい……」


「誰かに見られれば、どうなるか分かっているな」


「また連れていかれる」


「そうだ」


 あの場にいた者たちは、炎の中へ飛び込んだゼインと、助け出された子供に目を奪われていた。物陰にいたノアまで見ていた者は、おそらくいないだろう。

 だが、次も同じとは限らない。


「助けたら、駄目だった?」


 ノアが、おそるおそる顔を上げた。瞳に涙が滲んでいる。


「違う」


 ゼインは答えた。


「お前が天井を止めなければ、間に合わなかった」


 ノアが瞬きをする。

 白い膜が崩落を遅らせたのは、ほんの数秒だった。だが、あの数秒がなければ、子供を抱えたまま建物を脱出することはできなかった。

 ゼイン一人なら逃げられた。だがそれでは、何のために炎の中へ入ったのか分からない。


「じゃあ……私、役に立った?」


「ああ」


 ノアの表情が、少しずつ明るくなっていく。


「ただし、次に力を使う時は周囲を見ろ。誰に見られているかを確認しろ。一人で前へ出るな」


「次も手伝っていいの?」


「そうは言っていない」


「でも、使うなとも言ってない、よね?」


「緊急時だけだ」


 先ほどまで下がっていた尾が、服の裾から覗いた。嬉しそうに、左右へ揺れている。

 ゼインは何も答えず歩き出した。

 ノアが小走りで隣へ並び、その手を握る。


「パパ、すごかったね」


「そうか」


「飛竜を、どーんって落として、火の中からあの子を助けてた。みんな、パパのこと見てたよ」


 ノアは自分が褒められたように胸を張っている。

 ゼインは隣を歩く白い頭へ視線を落とした。


「俺を誰だと思っている」


 ノアは一瞬きょとんとしてから、満面の笑みを浮かべた。


「えへへ。私のパパ」

最後まで読んで下さり、ありがとうございます!


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