第九話 生贄の洞窟 その一
白い場所に立っていた。
足元も空も、どこにも境目がない。ただ果てのない白の中に、誰かが立っている。
女のようだった。
顔を見ようと目を凝らす。
だが見えない。
距離のせいではなかった。
近づいても、そこだけがどうしても像を結ばない。
女が何かを言った。
水の底から届くような、ひどく歪んだ声だった。
「……の…子……たち……」
そこで、目が覚めた。
見慣れた自室の天井がある。窓の外はまだ暗く、夜明けには少し早い。
ゼインはしばらく天井を見つめていた。
呪いの見せる悪夢なら、もう慣れている。
だが、今の夢には――殺気がなかった。
◇
国境山脈の奥に、地図へ載らない村がある。
その話をゼインが聞いたのは、前線都市の東門へ一人の少年が辿り着いた翌朝だった。
少年は裸足で、両手首に縄の痕が残っていた。二日間も山中を歩き続けたらしい。門兵に保護された時には、妹の名を繰り返すことしかできなかったという。
「村と呼べるのかも分かりません」
前線司令部の一室で、五十を越えた司令官が地図を指した。
その指が示したのは、国境大山脈の中央付近。
討竜国――正式にはヴァルグレイス王国。その版図は山脈の西麓までで、反対側へ下れば竜を崇める東の国、アマツ聖国へ入る。
もっとも、国境線が山の隅々まで管理されているわけではない。巨大な洞窟網や、人の手がほとんど入らない峡谷にはどちらの国にも属さない集落が今も残っている。
「西の坑道から討竜国へ出ることもあれば、東の古道で崇竜国の商人と取引することもあるそうです。税も兵役も免れている」
「信仰は」
「独自のものです。数年に一度、山の主へ子供を差し出す」
司令官が証言書を差し出した。
選ばれたのは少年と、その幼い妹。二人は洞窟の奥へ運ばれ、少年だけが縄をほどいて逃げたという。
「妹は、まだ生きていると思うか」
「少年が逃げてから三日です」
「聞き方を変える。洞窟に竜はいるのか」
「過去の観測記録では、この一帯に大型個体の縄張りがありました。ただ、二十年以上は姿を確認されていません」
いなくなったのではない。眠っているのだ。村人はその個体を山の主と呼び、目覚めるたびに子供を与えてきた。
「俺が行く」
「正規隊をつけることもできます」
「洞窟内では邪魔になる」
司令官は止めなかった。
一頭の竜を討つために、観測兵、魔道具兵、討竜士を編成する。それが本来のやり方だ。だが、人質のいる狭い洞窟へ大人数を入れれば、村人にも竜にも気づかれる。
何より。
子供が生きているのなら、時間がない。
「討竜官」
部屋を出ようとしたゼインへ、司令官が声を掛けた。
「集落は形式上どちらの国にも属していません。東側の人間が入り込んでいる可能性もあります」
「敵なら斬る」
「……せめて相手の身分くらいは確かめてからにしてください」
返事をせず、ゼインは扉を閉めた。
◇
国境山脈へ続く東門では、ノアが待っていた。
正確には、門の横に積まれた木箱の陰から白い頭だけを出していた。
ゼインと目が合うとすぐに引っ込んだ。隠れたつもりらしい。
「何をしている」
木箱の前で立ち止まると、しばらくしてノアが諦めたように姿を現した。
「お見送り」
「家にいろと言った」
「お見送りしたら帰るよ」
今日は人間の姿を保っている。角も尾も見えない。だが、不安そうな表情までは隠せていなかった。
「竜を倒しに行くの?」
「ああ」
「この前みたいに、人も助ける?」
「生きていればな」
ノアは少しだけ俯いた。外壁区画で助けた子供と、自分を重ねているのかもしれない。
「帰ってくる?」
「帰る」
答えると、ノアは小さく頷いた。
「うん」
以前までなら、その言葉に何も感じなかっただろう。
だが今は、この門の向こうに自分の帰りを待つ者がいる。それを意識してしまったことが、妙に煩わしい。
ゼインはノアの頭へ手を置いた。 自分でも、なぜそうしたのか分からない。柔らかな白い髪を一度だけ撫で、手を離す。
「すぐに戻る」
「……うん!」
ノアは一瞬驚いた顔をしてから、今度は大きく手を振った。
◇
村へ通じる西側の坑道は、前線都市から半日の場所にあった。
岩壁の亀裂を板で覆い、その上から蔦を絡ませてある。少年の証言がなければ入口だとは気づかなかっただろう。
板を外すと、湿った風が流れてきた。
風は洞窟の奥へ向かっている。どうやら坑道は山脈を貫き、反対側まで続いているらしい。
ゼインは魔道灯を使わなかった。
光は遠くからでも目立つ。
左目を覆う痣の奥へ意識を集中すると、暗闇に熱の輪郭が浮かんだ。
壁を這う小動物。落ちた松明の燃え残り。そしてその先に、大人が複数人で重い物を運んだ痕跡。
洞窟は明らかに人の手で整備されている。
岩壁には古い階段が刻まれ、端には水を逃がすための溝まで掘られていた。ところどころに崇竜国で使われる祈りの紋様があり、そのすぐ隣には討竜国の古い採掘記号が残っている。
どちらの国にも属さない。
正確には、両方を利用しながら、両方から逃れてきた村なのだろう。
しばらく進むと、前方から人の声が聞こえてきた。
小さな空洞に、三人の男が立っている。山で暮らす者らしい粗末な服装だった。
「西の入口は見たか」
「誰も来ていない。逃げた子供も、もう死んでいるだろう」
「それならいい。今夜の儀式が終われば、主はまた眠りにつかれる」
子供はまだ生きている。
ゼインは剣を抜かなかった。
足元の小石を拾い、空洞の反対側へ投げる。
乾いた音が響く。
三人の視線が揃って動いた。
その瞬間には、ゼインはもう懐へ入っていた。
最初の男の口を塞ぎ、後頭部を岩壁へ叩きつける。
崩れ落ちる身体を支えながら、二人目の膝を蹴り抜いた。
悲鳴が出るより先に喉へ手刀を入れる。
最後の一人が慌てて短槍を構えた。
半歩。
穂先をかわし、柄を掴む。引き寄せた顔面へ肘を叩き込んだ。
三人が倒れるまで、数呼吸も掛からなかった。
ゼインは一人の胸倉を掴み、そのまま持ち上げる。
「子供はどこだ」
男の目が恐怖に揺れた。
「主の間……」
「道は」
「真っ直ぐだ。大空洞へ出たら、祭壇がある」
「竜は目覚めているのか」
「もうすぐ……血の臭いで、目を覚ます」
ゼインは男を地面へ落とした。
殺す必要はない。
今は子供が先だった。
◇
洞窟の奥から、歌が聞こえてきた。
男とも女ともつかない低い声が、同じ音を何度も繰り返している。
竜へ捧げる祈り。
通路の先から、赤い光が漏れていた。
壁際へ身を寄せ、主の間を覗く。
そこは、山の内部とは思えないほど巨大な空洞だった。
天井は闇に沈み、底も見えない。その中央を天然の石橋が横切り、橋の下には深い縦穴が口を開けている。
底から熱い風が吹き上がっていた。何かが、穴の奥で呼吸している。
息を吐くたび、赤い光が脈打った。
石橋の中央には祭壇。
白い衣を着せられた少女が、両手を縛られ、石柱へ繋がれている。
十歳にも届いていない。
その足元には、乾いた血の跡が幾重にも残っていた。
祭壇を囲む村人は十数人。
だが誰一人、少女のことを見ていない。全員が縦穴へ頭を垂れ、祈りを続けていた。
やがて年老いた祭司が、刃の曲がった短刀を両手で捧げ持つ。
「御方は、三日もお待ちくださった」
短刀の切っ先が、ゆっくりと少女へ向けられた。
「これより、供物をお返しいたします」
返す。
差し出すのではなく、返す。
この村では、子供の命は初めから竜のものなのだ。
少女の肩が震えていた。泣き声すら出ていない。もう泣く力も残っていないのかもしれない。
ゼインは村人の配置を確認する。
祭壇まで四十歩ほど。石橋は狭く、左右に逃げ場はない。
祭司が少女を傷つけるより先に間合いへ入ることはできる。
だが、同時に穴の底の竜が動けば、少女を抱えたまま戦うことになる。
先に竜を殺すか。
子供を助けるか。
考えるまでもなかった。
ゼインが岩陰から出ようとした、その時。
石橋の反対側で、銀色の光が揺れた。
東側へ続く通路。
そこに、一人の女が立っていた。
長い髪は、洞窟を満たす赤い光の中でも色を失わないほど淡い銀色。黒を基調とした軽装の上へ、白い外套を重ねている。
腰には細身の長剣。前線軍の装備ではない。留め具や剣の装飾にも、ゼインの見慣れない意匠が施されていた。
女が現れたのは、山脈の東側へ続く道。
竜を崇める国の者が、なぜここにいる。
穴の底の竜を守るためか。
それとも、儀式を執り行う側の人間か。
女も、こちらに気づいていた。
青い瞳が、岩陰のゼインを真っ直ぐ捉えている。
互いに動かない。
女の正体も、目的も分からない。
それでも、言葉を交わさずとも自然と伝わった。
ゼインが剣の柄へ手を掛ける。
女の指も、鞘へ触れた。
その時、祭司が短刀を振り上げた。その動きに、怒りも狂気もない。畑の実りを刈り取るのと同じ。あまりにも当たり前の手つきだった。
ゼインと女が、同時に動いた。ゼインは地面を蹴り、石橋へ飛び出す。
間にいた村人が振り返るが、構う必要はない。
最初の一人の肩を踏み台にし、頭上を越える。二人目が鉈を振り上げるより早く、鞘で顎を打ち抜いた。同時に、反対側から銀色の女が石橋へ駆け込んでいる。
長い白の外套が、翼のように翻った。
銀の軌跡が走り、祭壇と少女を繋いでいた鎖が、一息に断ち切られた。
支えを失った少女の身体が、石橋の縁へ倒れる。祭司の短刀は空を切った。
「貴様――!」
老人が怒声を上げ、少女の背を蹴った。小さな身体が石橋から投げ出された。
縦穴へ落ちる。
女が迷わず後を追った。 崖際を蹴り、自らも宙へ身を投げる。
空中で少女の腕を掴んだ。
だが。
二人の身体を支えるものはない。ゼインは石橋の縁へ滑り込み、女の手首を掴んだ。
一気に、片腕へ二人分の重みが掛かる。
その直下で、赤い光が、大きく膨らんだ。
縦穴の奥。
暗闇から、巨大な顎が迫ってくる。
供物が落ちてきたことに、竜が気づいた。
「引き上げろ!」
「分かっている」
ゼインは二人を片腕で引き上げながら、空いた手で剣を抜く。
暗闇から現れた牙へ、刃を叩きつけた。
火花が散る。
――硬い。
牙を断つことはできない。だが軌道は逸れた。巨大な顎が、石橋の側面へ噛みつく。
岩盤が砕け、足元が大きく傾いた。
女が少女を抱えたまま石橋へ転がり上がった。
ゼインも立ち上がった。
村人たちは、突然現れた二人へ武器を向けることすら忘れている。
自分たちが崇めてきた竜が、石橋を食い破ろうとしていた。
「主を怒らせたな!」
祭司が喚く。
「その子を戻せ! 血を捧げなければ、村が滅びるぞ!」
ゼインは老人を見た。
「ならば勝手に滅びろ」
短い一言に、老人の顔が凍りつく。
銀髪の女が、少女を抱えたままゼインを見上げた。
値踏みをする視線だった。
西から来た武装した男が、竜へ斬りかかるより先に、自分と少女を引き上げた。
その事実を、測っているのだろう。
ゼインもまた、女を測っていた。隣国の人間だとすれば、本来なら警戒すべき相手だ。
だが女は、穴の底にいる竜ではなく、落ちていく人間の子供を真っ先に追った。
先に視線を外したのは女だった。少女の縄を切り、赤く擦れた手首を確かめる。
「怖かったね。立てる?」
少女は首を横へ振った。
女は急かさなかった。
震える身体を抱き寄せ、呼吸が落ち着くのを待つ。
その間に、ゼインは祭司の胸倉を掴んだ。
「この竜は、いつからこうだった」
「こう、とは……」
「昔から人を喰っていたのかと聞いている」
祭司の目が泳いだ。
「……いや。御方は山を守っておられた。人を襲うようになったのは、先代が祭司だった頃からだ」
守り神が、ある時から捕食者に変わった。
それでも村は、捧げることをやめなかった。
「何人食わせた」
祭司は答えない。答える必要もなかった。
石橋に染みついた血が、代わりに答えている。
足元で、再び岩が砕けた。
縦穴から黒い爪が現れ、石橋の縁へ掛かる。
竜が這い上がろうとしている。
「東側に出口がある」
女が言った。その声は静かだった。
「この子を連れて、先に外へ出ることもできる」
ゼインは少女を見る。
顔は青ざめ、身体はまだ震えている。
安全な場所へ運ぶ。救助としては、それが正しい。
だが。
それだけでは、この少女の中で何も終わらない。
自分を縛った村人。
生贄として投げ込まれた縦穴。
闇の中から迫った牙。
逃げることも、抗うことも選べず、誰かに運ばれて洞窟を出る。
その記憶は、この先も少女を追い続ける。
ゼインが口を開こうとした矢先、先に女が少女の目線まで膝を下ろした。
「ここから出たいのなら、私が安全な場所まで連れていく」
少女の震える手を、両手で包む。
「けれど、自分を食べようとしたものが倒れるところを見届けたいのなら――私が、それを見せてあげる」
少女が小さく息を呑む。
「逃げてもいい。見届けてもいい。どちらも間違いじゃない」
女の声は穏やかだった。
「だから――あなたが選びなさい」
ゼインは女を見た。
同じことを言おうとしていた。
竜を倒す姿を見れば、恐怖が消えるとは限らない。傷が癒える保証もない。
それでも、恐怖の中で奪われたままだった選択を、最後に本人へ返すことはできる。
――なぜ、この女がそれを知っている。
自分と同じように、竜にすべてを奪われた過去があるのか。
少女は縦穴を見た。
石橋へ掛かった爪が、ゆっくりと岩を削っている。
顔は恐怖に歪んでいる。
それでも、目を逸らさなかった。
「……見たい」
掠れた声。
「あれが、いなくなるところを……見たい」
女は静かに頷いた。
「うん」
ゼインは少女の前へ背を向け、腰を落とす。
「乗れ」
少女が戸惑ったように女を見る。
女はゼインを一度見たあと、少女の背を支えた。細い腕が、ゼインの首へ回される。
軽い。
胸の奥に、人間とは異なる脈動はない。
角も、翼もない。
人間の子供だ。
その事実に安堵した自分を、ゼインは理解できなかった。
――三人で十分だ。
何が十分なのかは、考えないことにした。
外套の帯を外し、少女の身体を自分の背へ固定する。
「目を閉じてもいい」
立ち上がりながら告げる。
「だが、見たいと言ったことまで忘れるな」
少女の腕へ、わずかに力が入った。
女も立ち上がり、鞘から抜かれた剣を静かに構えた。
華奢に見える腕。
だが、その構えには迷いも隙もない。
先ほど、落下する少女を追って縦穴へ飛び込んだ動きも、ただの一介の兵士にできるものではなかった。
この女は強い。
どれほどかはまだ分からないし、名前も知らない。所属も、目的も、信用できるかどうかも分からない。
それでも。
次に何をするかを相談する必要はなかった。
石橋が大きく隆起した。下から突き上げられ、岩盤が中央から割れる。
暗闇の底から、巨大な竜の頭部が姿を現した。
煤けたような黒褐色の鱗。左右で形の異なる角。口元には、過去に捧げられた者たちの骨が絡みついている。濁った瞳に、理性は残っていなかった。
竜だ。
殺すべきもの。
その姿を前に、ゼインの憎悪が静かに燃え上がる。女は竜を見上げ、ほんの一瞬だけ悲しげに目を細めた。
竜が咆哮した。
石橋が震え、村人たちが逃げ惑う。
ゼインと女は一度だけ視線を交わした。
言葉はいらなかった。
二人は同時に地面を蹴った。
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