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第十話 生贄の洞窟 その二

 竜が石橋へ前脚を叩きつけた。

 爪が岩盤を砕く。飛び散る破片を、ゼインは剣の腹で弾いた。


 背中の少女が、小さく息を呑む。


「離すな」


「……うん」


 細い腕が、首へ強く回された。

 竜を認識しただけで、胸の奥に黒いものが燃え上がる。


 炎に沈んだ故郷。

 倒れた家族。

 自分を見下ろしていた赤い瞳。


 目の前にいるのは、あの黒い竜ではない。

 それでも竜であることに違いはなかった。

 竜は殺す。

 その憎しみは、もはや魂へ刻まれている。


 竜が大きく口を開いた。

 喉の奥に、黒みを帯びた炎が集まる。

 ゼインは少女を庇うように半身を引いた。

 その前へ、銀髪の女が滑り込む。


「その子を守っていなさい」


「言われるまでもない」


 女が細身の剣を両手で構えた。

 噴き出した炎が石橋を覆う。

 女の振り上げた刃が炎の中心へ入った瞬間、赤い光が弾けた。

 竜の炎が、左右へ割れる。


 熱風が銀色の髪と白い外套を激しく揺らした。

 だが女は止まらない。

 分かれた炎の中央を、そのまま走り抜ける。

 竜が女へ爪を振り下ろした。


「左だ!」


 ゼインが告げる。

 女は迷わず左へ踏み込んだ。

 巨大な爪が、その右側を通過する。

 振り下ろされた前脚へ、女が飛び乗った。

 鱗を足場に、肩まで駆け上がる。

 竜が首を捻り、女を噛み砕こうとした。


 ゼインは石橋を蹴る。


 竜の下顎へ着地し、剣を突き立てた。

 刃を支点にして、首を強引に横へ逸らす。

 牙が女の外套だけを掠めた。


「助かったわ」


「なら止まるな」


「そのつもりよ」


 女は笑っていた。

 死地に立つ者の顔ではない。それはまるで心から楽しんでいるかのような。


 竜が頭を振り回す。

 ゼインは剣を抜き、落下する勢いを利用して首筋を斬った。

 黒い血が噴き出す。その傷へ、女の剣が正確に重なった。


 刃から炎が溢れ、鱗の内側へ入り込む。

 傷口が内側から爆ぜた。

 竜が咆哮する。

 女は振り返らない。ゼインが次の攻撃を止めることを、初めから知っていたかのように奥へ踏み込んでいる。


 ゼインもまた、女がどこを斬るか分かっていた。

 女が右へ回れば、竜の視線を左へ引く。

 ゼインが脚を止めれば、女は胸元へ入る。

 言葉にする前に、次の手が重なる。


 長く同じ部隊で戦ってきた者とも、これほど呼吸が合ったことはない。

 竜が尾を振るう。

 女は身を屈め、ゼインは跳んだ。

 頭上を通過したゼインの足を、女が片手で押し上げる。

 その力を借り、さらに高く飛ぶ。

 竜の背へ着地。


 剣を逆手に持ち、翼の付け根へ突き立てた。

 骨の接合部を断つ。

 片翼が力を失い、石橋へ落ちた。

 その隙にゼインは竜の正面へ走った。


「怖いか」


 背中の少女へ尋ねる。


「……怖い」


 そう答えながらも、必死に目を見開いていた。

 それでいい。

 おそらくこれからも恐怖が消えることはない。

 それでも自分で選んだことを、最後まで奪われなければいい。


 ゼインは腰の革袋へ手を入れた。

 取り出したのは、拳より小さい灰褐色の結晶。

 三月前に仕留めた岩竜の竜核。軍へ納めず、手元へ残した一つだった。

 袋の中には、あと二つ。


「あなた、それ――」


 女の声を待たず、結晶へ歯を立てる。

 ガリ、と硬い音が洞窟に響いた。

 噛み砕いた欠片を、そのまま飲み下す。

 熱が喉を焼き、胸の奥にある空白へ流れ込んだ。

 骨が軋む。

 筋肉が膨れ上がる。

 視界から、余分なものが消えていく。


 竜の呼吸。

 血の流れ。

 鱗の下で動く筋肉。

 すべてが手に取るように分かった。


 左目の痣が脈打ち、頬へ広がる。

 足元へ、色を失った欠片が零れ落ちた。

 力を抜かれた竜核は、ただの硝子屑に変わる。


 竜が黒い液体を吐き出した。

 ゼインは剣を振り抜く。

 液体そのものは斬れない。

 だが、吐き出す直前の下顎を横から打ち抜けば、方向は変えられる。


 黒い奔流が石橋の外へ逸れた。

 岩壁が白煙を上げて溶けていく。

 竜が前脚を振り下ろした。

 ゼインは片手で受け止める。

 衝撃で石橋が陥没した。


 少女が息を呑む。

 だが、ゼインの身体は一歩も下がらなかった。

 爪を掴む。

 腕を振り上げる。

 巨体が、石橋から浮いた。


 女が声を失う。

 ゼインは竜の前脚を捻り、そのまま石橋へ叩きつけた。

 岩盤が割れ、竜の頭部が沈む。

 女はすぐに我へ返った。

 驚きながらも、その顔に恐怖はない。


 むしろ笑っていた。

 ゼインの異常な力を目の当たりにして、喜びを隠せないように。


「こんな力を隠していたのね!」


「お前もだろう」


 ゼインは竜の両前脚を押さえ込み、剥き出しになった胸を正面へ向けた。

 竜が暴れる。

 今のゼインには、子供の抵抗と変わらない。


「少しだけ食い止めて頂戴」


「やってやるから、さっさと斬れ」


「あら、随分と私を信用しているのね」


「できないなら別の方法を使う」


 女の青い瞳が細くなった。


「できるわよ」


 女が竜の前脚を踏み台にし、肩へ飛び乗る。


 その首筋から鎖骨へ、黒紫の痣が浮かび上がった。


 ゼインの動きが、一瞬だけ止まりかける。

 黒紫。

 枝分かれした形。

 左目へ刻まれた自分の呪いと、酷似している。

 あの黒い竜が残した、唯一の手がかり。

 十年以上探し続けても、同じものを持つ人間など一人も見つからなかった。

 なぜ、この女に。


 剣へ炎が集まっていく。

 人間が直接扱える量ではない。

 赤い炎が刃を包み、数倍の長さへ伸びた。

 女が竜の肩から跳ぶ。銀色の髪が宙へ広がった。


「――炎剣!」


 赤い閃光が洞窟を染める。

 巨大な炎の刃が、竜の胸を縦に走った。

 重なった鱗が焼き切られる。

 胸郭が開き、黒い血が噴き出した。

 その奥で、一つの巨大な心臓が脈打っている。

 肉の中心には、赤黒い結晶が深く埋め込まれていた。


 ゼインは竜の顎を蹴り、胸元へ飛ぶ。

 開かれた胸郭へ、剣を根元まで突き立てた。

 心臓を貫き、その中心の結晶ごと断ち割る。

 硬い感触が、肉の奥で砕けた。

 炎が血管を走り、竜の内側から噴き上がる。


 巨体が大きく痙攣した。

 ゼインは女の腕を掴み、後方へ引く。

 二人が退いた直後、竜の身体が石橋へ崩れ落ちた。

 轟音が洞窟を揺らす。

 爪が一度だけ岩を引っ掻いた。

 それきり、竜は動かなくなった。


 静寂の中で、女が剣を振って血を払う。


「少しだけで、充分だったでしょう」


 ゼインは答えなかった。


 背中の少女が、見つめている。

 よっぽど驚いたのか、竜の死体と俺たちを交互に。

 最後まで、しっかりと見届けていた。

 女はというと、竜の角へ触れたまま目を伏せた。


「――その名と誇りが、神竜ミュトスの御許へ還らんことを」


 囁きとともに、指先から小さな火の粉がひとつ、静かに昇って消えた。

 ミュトス。

 店番の老婆が口にした、あの誓い文句と同じ名だった。

 西では誰も知らない名を、東の女は祈りに使っている。


     ◇


 村人たちは、石橋の端で棒立ちになっていた。

 祭司が、死体へ這い寄る。


「御方……お目覚めください……御方……」


 骨の絡んだ口元は、二度と開かない。

 神は死んだ。

 ただの、人を喰う獣として。

 祭司がゆっくりと振り返った。

 その目が、ゼインの背の少女を捉える。


「……お前だ」


 落ちていた鉈を拾い上げた。


「お前が逃げたから、御方は穢れたまま――」


 振り上げた腕が、そこで止まる。

 手首を、ゼインが掴んでいた。

 骨の軋む音がして、鉈が石橋へ落ちる。


「最後まで神のせいにもできんのか」


 祭司の首筋へ、横から銀の刃が添えられた。


「この村の罪は、私の国が裁くわ」


 女の声は、祈りのように静かだった。


「捧げた子供の数だけ、正確にね」


 祭司の膝が折れる。

 残った村人たちは、誰一人として逃げなかった。

 逃げる先がないことを、ようやく理解したのだろう。

 女は剣を鞘へ戻し、ゼインを見た。

 首筋には、まだ黒紫の痣が浮かんでいる。

 赤い瞳が、子供のように輝いていた。


「こんなに強い人がいたなんてね」


 竜核を喰らう姿を見た者は、皆ゼインから距離を取った。

 化け物を見る目を向けた。

 この女だけが違う。


 もっと見せろとでも言うように、まっすぐゼインを見つめていた。

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