第十一話 生贄の洞窟 その三
竜が倒れてもゼインの身体には力が残っていた。
血の流れる音、逃げ場を失った村人の呼吸。石橋の亀裂が広がっていく音まで聞こえる。
だが、長くは続かない。
取り込んだ力はすでに薄れ始めていた。
左目から頬へ広がった痣も、脈打つたびに色を失っていく。
「下ろすぞ」
安全な場所まで移動し、帯を解く。
少女の足が地面へ触れた。まだ一人では立てず、ゼインの外套を掴んだまま離さない。
ゼインは膝を折り、少女の目線まで屈んだ。
「一つ、言い忘れていた」
少女が顔を上げる。
「お前の兄は生きている」
小さな肩が、跳ねた。
「三日歩いて、西の街まで辿り着いた」
「……おにい、ちゃん?」
「今も、お前の名前を呼び続けている」
少女の顔が、ゆっくりと歪んだ。
声を上げて泣き出した少女を、女が何も言わず抱き寄せた。
◇
「もう一度、見せて」
女が近づいてくる。
首筋の黒紫の痣は、すでに外套の下へ消えかけていた。
「何をだ」
「さっき、喰べたもの」
女の赤い瞳には、恐怖も嫌悪もない。
好奇心を隠そうとさえしていなかった。
ゼインは足元から欠片を拾い、放って渡す。
女は光へ透かし、指でなぞった。
灰褐色だった結晶は、今はほとんど透明になっている。
「中身が、完全になくなっている」
「ああ」
「喰べたものはどこへ行ったの?」
「俺の中だ」
「ずっと?」
「数分だ」
女がゼインを見る。
「それだけ?」
「十分だ」
竜を殺すために必要な時間だけ力を得る。
終われば消える。
不便だと思ったことはない。
竜を殺せれば、それでいい。
「どんな力でも使えるの?」
「どんな力……とは?」
「怪力も、それに脚力も向上していたから」
「ああ。竜核の性質を削ぎ落とし、純粋な魔力だけに変換する。言わば身体能力向上だ」
女の目が、質問を重ねるたびに輝いていく。
「何が面白い」
「面白いに決まっているでしょう」
女は欠片を返した。
「倒した竜の力をその場で自分のものにする。しかも、使い方を誰かに教わる必要もない」
「竜を殺すための呪いだ」
「呪いでも、強さは強さよ」
あまりに当然のことのように言う。
これまで竜核を喰らう姿を見た者は、必ずゼインから距離を取った。
軍の人間でさえ利用価値を認めながら、その行為には目を逸らす。
この女だけが違う。
「それで終わり?」
「何がだ」
「力を使ったあと。その竜のものは、何も残らないの?」
「殻だけだ」
「記憶は?」
「ない」
「声は?」
「聞こえない」
「どんな生き方をした竜だったのかも?」
「興味がない」
女の笑みが、僅かに薄れた。
倒れた竜へ視線を向ける。
「私は嫌い」
「何がだ」
「強かった者が、何もなかったことになるのが」
女は竜のそばへ歩み寄った。
あの炎の件で断った角へ、そっと手を触れる。
「この竜は穢れていた。人間を喰い、生贄を求めるだけのものへ変わっていた」
「なら殺して終わりだ」
「今の罪が、過去まで消すわけではないわ」
女は竜の閉じた目を見た。
「以前はこの山を守っていた。祭司も、そう言っていたでしょう」
言われて、ゼインは思い出す。
守り神が、ある時から捕食者に変わった。
「名前を呼ぶ者もいたかもしれない」
「だから何だ」
「倒した者の強さを、なかったことにしたくないの」
女の指先から、小さな火の粉がひとつ静かに昇って消えた。
祈りのようにも、別れのようにも見えた。
ゼインは女の剣へ視線を落とす。
「あの炎は、剣のものか」
「神殿の聖具よ。祈りに応えて燃えるの」
「祈りで、竜の鱗が焼き切れるのか」
「信心が足りないのね」
軽く受け流された。
嘘だと断じる根拠はない。
だが、すべてを話していないことだけは分かった。
剣が力の源なら、構えた瞬間から燃えるはずだ。
女の炎は、あの黒紫の痣が浮かんだ後に生まれた。
「あなたの番よ」
女が言った。
「痣のことを聞きたかったのでしょう?」
「ああ」
「先ほどから、そこしか見ていないものね」
女は白い外套の襟を僅かに下げた。
首筋に、消えかけた黒紫の痣が残っている。
枝分かれした形、色、脈打ち方。
左目へ刻まれたものと、酷似していた。
十年以上探し続けた。
軍の記録、呪いを受けた生存者、竜に接触した人間。
同じ痣を持つ者は、一人もいなかった。
「誰につけられた」
女は少しだけ黙った。
少女が二人を見上げている。
女はその場へ膝をつき、自分の外套を少女の肩へ掛けた。
「少しだけ、話をしてもいい?」
少女が小さく頷く。
女は立ち上がり、ゼインへ向き直った。
「私は、子供の頃に生贄へ選ばれたことがある」
声に震えはなかった。
「この子と同じように?」
「ええ」
古い信仰を持つ集落だった。
同じような村がいくつもあるのだろう。
村が飢えれば、竜へ人間を捧げる。
災害が起きれば、誰かが信仰心を失ったせいだと責める。
「祭壇へ縛られて、竜を待っていたわ」
「その竜が痣をつけたのか」
「いいえ」
女の赤い瞳が、遠い場所を見る。
「私を食べるはずだった竜は、別の竜に殺された」
ゼインの左目が疼いた。
「どんな竜だ」
問いが、思っていたよりも強い声になった。
「黒い竜よ」
洞窟の空気が遠のく。
燃える村。
夜空を覆った翼。
倒れた家族。
赤い瞳。
「目は」
「赤かった」
「左の角が、途中で欠けていたか」
女の表情が変わった。
「知っているの?」
同じ個体だ。
偶然ではない。
黒い竜はゼインの村を焼き、家族を殺した。
そしてゼインだけを生かし、左目へ呪いを刻んだ。
その竜が、山脈の反対側では、生贄にされた少女を救っている。
「俺の家族を殺した竜だ」
女の目が見開かれる。
「あの竜が?」
「ああ」
「でも、あなたは生きている」
「わざと残された」
なぜかは分からない。
ただ、あの竜はゼインの名を知っていた。
殺せたはずなのに殺さず、竜核を喰らうための呪いを残した。
「お前も、あの竜に選ばれたのか」
「選ばれた……」
女はその言葉を、確かめるように繰り返した。
「私は救われたと思っている」
「救われた?」
「あの竜が来なければ、私は食べられていた」
「それを救いと呼ぶのか」
「少なくとも、私は生きている」
同じ竜に生かされた二人。
だが、見ているものは正反対だった。
ゼインにとっては、すべてを奪った仇。
女にとっては、祭壇から救い出した存在。
親近感に似たものが生まれかけ、その直後に消える。
「今、あの竜がどこにいるか知っているか」
女は答えなかった。
ほんの一瞬。
沈黙が長かった。
「知らないわ」
嘘かどうかは分からない。
だが、何も知らない者の間ではなかった。
「お前の名は」
女が瞬きをする。
「尋問は終わり?」
「名も知らない相手を追えない」
「私を追うつもりなのね」
「必要ならな」
女の口元に、楽しそうな笑みが戻った。
「イア」
白い外套の胸元へ手を当てる。
「あなたは?」
「ゼイン」
「ゼイン……か」
女――イアは、確かめるようにその名を呼んだ。
初めて聞いたはずの名だ。
それなのに、呼ばれることへ奇妙な懐かしさがあった。
先ほどの戦いもそうだった。
初めて剣を並べたとは思えないほど、互いの動きが分かった。
「妙ね」
イアが呟く。
「何がだ」
「あなたとは、以前にも会ったことがある気がする」
「俺もだ」
答えてから、ゼインは眉を寄せた。
誰かへそのようなことを話すつもりはなかった。
だが、イアは笑わなかった。
「なら、もっと前から知っていたのかも」
「覚えていない」
「私もよ」
まるで冗談を言っているようには見えなかった。
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