第十二話 生贄の洞窟 その四
洞窟を進む三人分の足音が、水音に混じって反響していた。
竜核から得た力は、すでに消えている。
残っているのは、剣を振るった疲労だけだった。
「一つ聞く」
ゼインは足を止めずに言った。
「何?」
「あの竜を、穢れていると言ったな」
「言ったわ」
「軍では暴走個体と呼ぶ」
「随分と即物的な名前ね」
「そちらの呼び方が正しいとでも言うのか」
「正しいかどうかは知らないわ」
イアは少女の歩調に合わせながら答えた。
「神殿の言葉では、神格の乱れ。私たちは短く、穢れと呼ぶ」
「呼び方が違うだけか」
「見ているものが違う」
その声が、少しだけ低くなる。
「あの竜は、ただ興奮していたわけではない。守っていた場所も、受け取っていた祈りも、名前も、すべて忘れていた。興奮ならいつか冷める。あれは戻らない」
「原因は」
短く尋ねる。
イアの足音が、僅かに変わった。
「教会は、西の冒涜のせいだと説くわ」
「西の?」
「神の心臓を灯りに変え、骨を武具に変える。その穢れが山を越えて、神々を蝕んでいるのだと」
「お前もそう思うのか」
沈黙があった。
水音だけが、しばらく二人の間を流れる。
「……分からない」
初めて聞く、曖昧な答えだった。
これまでのイアは、どの問いにも迷いなく答えてきた。
「穢れた竜は昔からいた。けれど、この数年は明らかに増えている。それが西の――討竜国せいだと言うのなら、なぜ西から最も遠い山の竜まで穢れるのか」
イアは前を見たまま続けた。
「誰も答えられない。教会も――たぶん、あなたたちの軍も」
「原因不明、ということか」
「ええ。同じものを見て、あなたたちは暴走と呼び、私たちは穢れと呼ぶ」
イアの声が、洞窟の壁に低く響いた。
「名前が二つあるのは、どちらも本当の名を知らないからよ」
ゼインは答えなかった。
軍学校では、暴走個体は異常な興奮状態にある竜だと教えられた。
原因は個体差。詳細は研究中。
それ以上を尋ねる兵士はいない。
殺せば済むからだ。
「私は、知りたい」
イアの声は静かだった。
「斬る前に、なぜ穢れたのかを。斬った後に、何を守っていた竜だったのかを」
その横顔に、戦いの時の笑みはなかった。
「知らないまま斬り続けるのは、目を閉じて祈るのと同じだもの」
知る必要はない。
竜は殺す。理由が何であれ、結論は変わらない。
そのはずだった。
だが、その言葉は水音と一緒に、しばらく耳へ残り続けた。
◇
洞窟を抜けると、山脈の東側には深い森が広がっていた。
空は夕暮れに染まり、遠くの山裾へ白い建物が見える。
西とは違う国。
竜を崇める者たちが暮らす土地。
「イア様!」
森の中から、灰色の法衣の男が駆けてきた。
「ご無事でしたか。洞窟の中で大きな龍素の乱れがあり――」
「私は平気よ。この子を先に」
男はイアの傷を確かめようとしていた手を止め、少女の前へ膝をついた。
「失礼します。痛くはしません」
少女がイアを見る。
「この人は信用していいわ」
その一言で、少女は小さく頷いた。
男が両手をかざす。
淡い光が縄の痕を包み、皮膚をゆっくりと癒やしていく。
だが、男は魔道具を使っていない。
東の聖具。杖のような形状のそれは昔、交易都市で見たものと同じだった。
「随分と治りが早いな」
「龍素の巡りが良い土地ですから」
男は当然のように答えた。
「……りゅうそ」
男が戸惑ったようにイアを見る。
彼女は小さく頷いた。
「あなたたちが魔素と呼ぶものを、私たちは龍素と呼ぶの」
「呼び方の話はもう聞いた」
「これは呼び方の話ではないわ」
イアがゼインを見る。
「竜から生じる力、という意味よ」
ゼインの足が止まった。
「竜から?」
「竜の身体や竜核から放たれた力が、大気や大地へ溶け込む。人間は薄まったものを取り込み、聖具を通して使っている」
「人間の魔術もか」
「ええ」
軍学校では、魔素は世界に満ちる力だと教えられた。
人間はそれを直接扱う器官を持たない。
だから竜核を素材とした魔道具で吸収し、圧縮し、魔術へ変える。
なぜ竜核でなければならないのか。
なぜ都市の結界も、兵士の武器も、竜の死体を必要とするのか。
利用しやすいからだと思っていた。
だが、力の源そのものが竜であるなら、意味が変わる。
「西では教えられていない」
「あなたが知らないだけではなくて?」
ゼインの左目が微かに疼いた。
軍の研究施設。
拘束台。
繰り返された採血と投薬。
痣を刺激し、竜核へ近づけた時の反応を測っていた研究員たち。
彼らが何も知らなかったとは考えにくい。
「なぜ隠す」
「私に聞かれても困るわ」
イアは森の奥を見た。
「竜を敵と定めた国にとって、文明を支える力が竜から生じているという事実は、都合が悪いのかもしれないわね」
治癒術師が立ち上がった。
少女の手首から、縄の痕は消えている。
「この子を保護院へ。私の名で身分を保証して」
「承知しました」
「山中の集落も調べなさい。過去に捧げられた子供の記録が残っているはずよ」
「すぐに手配します」
「あの竜についても」
イアは洞窟の奥を振り返った。
「名が残っているなら、拾い上げて。堕ちる前に何を守っていたのかも」
「はい」
治癒術師は一度も理由を尋ねなかった。
命令だから従っているだけではない。
イアが命じるなら、それが正しいと信じている目だった。
「今日のことは?」
「いつもの通りに」
男はそれだけで頷いた。
問い返しもしない。
穢れた竜が一頭消えたことは、おそらくどこの記録にも残らない。
初めてではないのだ。
この女の周りでは、何かがいつも、静かに処理されている。
「そちらの方は?」
治癒術師がゼインへ視線を向けた。
討竜国の軍装。
竜の血に濡れた剣。
警戒するのは当然だった。
「今日だけの共闘者よ」
イアが答える。
「この子を救った人でもある」
男の警戒が僅かに和らぎ、頭を下げた。
「感謝します」
「必要ない」
「必要かどうかは、こちらが決めます」
イアが言った。
少女が治癒術師に連れられ、森の奥へ向かう。
途中で何度も振り返った。
ゼインは、その姿が見えなくなるまで立っていた。
「優しいのね」
「どこを見てそう思った」
「最後まで見送っていた」
「生きて帰れるか確認しただけだ」
「そういうことにしておくわ」
◇
イアは洞窟の入口近くの岩へ腰を下ろした。
ゼインは立ったまま、森の西を見る。
このまま山脈を越えれば、日が沈む前には西側の坑道へ着ける。
「さっきから、お前の言う"強さ"は何だ」
イアが顔を上げた。
少しだけ驚いた顔をして、それから、初めて質問を喜ぶように目を細める。
「最後まで、自分で選び続けられること」
「……選ぶ?」
「力がなければ、選べないもの」
イアは、少女の消えた森を見た。
「逃げるか、捧げられるかしかなかった、あの子のように」
ゼインは黙って続きを待った。
「強ければ、選べる。誰を守るか。何を斬るか。どう生きて――どう死ぬか」
イアは自分の掌を見下ろす。
「私は、選べなかった。祭壇に縛られていた時、私に残っていたのは待つことだけだった」
だから強くなった。
そういうことなのだろう。
「強さを求める理由としては、随分と面倒な考え方だ」
「そう? あなたも同じだと思うけれど」
「俺は竜を殺すために強くなった」
「それを選んだのは、あなたでしょう」
言い返せなかった。
「もう一つだけ聞いてもいい?」
イアが立ち上がる。
「勝手にしろ」
「あの竜が穢れていなかったら、あなたは殺さなかった?」
その顔から、柔らかな笑みは消えていた。
「殺す」
返答に迷いはない。
「人間を襲っていなくても?」
「ああ」
「自分の縄張りで、誰にも危害を加えずに暮らしていても?」
「竜なら殺す」
その言葉と同時に、三人の姿が脳裏へ浮かんだ。
角を持つルカ。
翼を広げたミア。
白い尾を揺らし、ゼインをパパと呼ぶノア。
竜なら殺す。
ならば、あの三人は何だ。
答えは決まっている。
あれは例外だ。
黒い竜が残した罠かもしれない。
正体を確かめるまでは殺さないと決めただけだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
そう考えているはずなのに、胸の奥に小さな痛みが残った。
「言葉を話す竜でも?」
「命を乞っても同じだ」
「そう」
イアは表情を変えなかった。
剣へ手を掛けることもない。
ただ、ゼインをまっすぐ見ている。
「私は、穢れた竜だけを斬る」
「知っている」
「理性を持つ竜まで殺すあなたを、理解はできない」
「理解される必要はない」
「ええ」
イアは静かに頷いた。
それから、小さく笑う。
「……やっぱり"強い"わね」
「何がだ」
「あなたは、何も考えずに竜を憎んでいるわけではないもの」
イアが一歩近づいた。
「家族を奪われて、生かされて、呪いまで残された。それでも生きるために、竜を殺すことを選び続けた」
「それが何だ」
「でも、それがあなたの選んだ強さなのね」
竜を殺すゼインを褒めているわけではない。
その思想に賛同しているわけでもない。
ただ、ゼインが選び、その選択によってここまで立っていることを見ていた。
軍はゼインの力を利用した。
前線の者たちはゼインを恐れた。
救った住民は英雄として見た。
だが、ゼインが何を選び、どう生きてきたのかを認めた者はいない。
「おかしな女だ」
「よく言われるわ」
「褒めていない」
「私は褒められたつもりだけれど」
イアの目に、戦いの時と同じ光が戻る。
「次に会った時、同じ敵を見ているとは限らないわね」
「ああ」
「私が理性ある竜を守っていたら?」
「お前ごと斬る」
空気が静まった。
普通なら、脅しとして受け取る言葉だ。
イアは一瞬目を見開き、その後、心から嬉しそうに笑った。
「それでいいわ」
「何がだ」
「次も、今日と同じくらい本気で来てくれるのでしょう?」
「殺されたいのか」
「まさか」
腰の剣へ手を添える。
「勝ちたいのよ。あなたほど強い人に」
竜喰いを見ても怯えず、むしろ近づいてきた女。
同じ黒い竜に生かされ、同じ痣を持つ者。
戦えば、初対面とは思えないほど呼吸が合った。
竜に対する考え方だけは、決して交わらない。
それでも、不思議と不快ではなかった。
この女なら、何か知っているのではないか。
「人の姿を取る竜を、見たことはあるか」
気づけば、口にしていた。
イアが足を止める。
銀色の髪が揺れ、赤い瞳がゼインへ向けられた。
「……心当たりがあるの?」
「古い伝承で読んだだけだ」
イアはすぐには答えなかった。
ゼインの表情から、質問の理由を探っている。
「伝承なら、私も知っているわ」
「実際には?」
「見たことはない」
短い返答だった。
「人へ化けるのではなく――」
言葉が続く。
「初めから、人の姿で生まれる竜は」
イアの赤い瞳が、僅かに細くなった。
「随分と具体的ね」
ゼインは答えなかった。
イアはしばらく見つめたあと、小さく首を横へ振る。
「少なくとも、私は知らない。それにもし、そんなものが存在するなら――」
そこで言葉を切り、囁くように続けた。
「この世界では、生きてはいられないでしょうね」
三人の顔が、脳裏をよぎった。
「そうか」
イアは東の森へ身体を向ける。
「次に会うまで死なないで」
「お前こそな」
答えた瞬間、彼女の笑みが少しだけ柔らかくなった。
味方でも、仲間でもない。
敵かどうかさえ決まっていない。
それでも、もう一度会うことを当然のように約束していた。
「また会いましょう、ゼイン」
別々の国へ帰る。
次に剣を並べるのか。
互いへ向けるのか。
今はまだ分からない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
あれほど背中を預けやすい相手を、ゼインはこれまで一人も知らなかった。
◇
前線都市へ戻った頃には、夜が更けていた。
東門の警備兵へ帰還証を見せ、人気の少ない通りを歩く。
身体に残っているのは剣を振るった疲労と、炎に焼かれた外套の臭いだけだった。
それでも頭の中には、あの女の姿が残っていた。
炎をまとった剣。
首筋に浮かんだ黒い痣。
同じ黒い竜に生かされたという過去。
初めて会ったはずなのに、言葉を交わす前から次の動きが分かった。
イア。
次に会えば、剣を向け合うかもしれない。
そう考えているのに、不思議と足取りは重くなかった。
家の窓に、灯りが見えた。
この時間なら、三人とも眠っているはずだった。
扉を開ける。
「おかえり!」
最初に飛び出してきたのはミアだった。
廊下を走り、ゼインの胸元へ抱きつく。
隠していた翼が背中から広がり、外套を挟むように閉じた。
「遅いよ、お父さん!」
「離れろ。血がつく」
「怪我したの?」
「俺の血ではない」
「それならいい」
何がいいのか分からない。
ミアは抱きついたまま離れなかった。
「おかえり、父さん」
その後ろから、ルカが歩いてくる。
落ち着いた声だったが、寝間着の上から剣を提げている。
「何をしていた」
「二人を守ろうと思って」
「家の中で剣を抜くな」
「分かってる」
答えながらも、ルカの手は柄から離れない。
ゼインが帰るまで、起きたまま待っていたのだろう。
最後に、白い頭が扉の陰から覗いた。
ノアだった。
ミアのように走ってはこない。
ゼインと目が合うと、一度だけ姿を引っ込める。
「どうした」
声を掛けると、ノアはゆっくりと近づいてきた。
ゼインの前で立ち止まり、全身を見上げる。
「帰ってきた?」
「ああ」
「本当に?」
「ここにいる」
ノアは外套の袖を掴んだ。
小さな手が、確かめるように布を握る。
それから、額をゼインの腕へ押しつけた。
「おかえり、パパ」
服の下から白い尾が現れ、ゼインの脚へ巻きついた。
竜なら殺す。
数時間前、イアへそう答えた。
言葉を話しても。
命を乞っても。
人を襲っていなくても。
竜なら殺すと。
そのゼインの身体へ、角と翼と尾を持つ三人が触れている。
「ただいま」
口から出た言葉に、ゼイン自身が僅かに目を見開いた。
これまで一度も、帰還をそう呼んだことはなかった。
任務を終えた。
生き残った。
戻った。
それだけだった。
だが今は、帰ってきたのだと思った。
「ご飯、残してあるよ」
ミアが顔を上げる。
「冷めてるけど」
「温め直せばいい」
ルカが言った。
「俺がやる」
「父さん、料理できるの?」
「お前たちよりはできる」
「でも、今日のスープを作ったのは私だよ」
「だから鍋の底が焦げているのか」
「見てないのに、なんで分かったの?」
焦げた臭いが、入口まで届いている。
ゼインは答えず、三人を連れて食卓へ向かった。
四つの器が並んでいた。
青。
緑。
白。
そして、飾りのない黒。
ゼインの席だけが、空いたまま残されている。
「食べないで待ってたのか」
「私たちは食べたよ」
ミアが答える。
「パパの分だけ」
ノアが黒い器を両手で持ち、ゼインの前へ置いた。
冷めたスープから、少し焦げた匂いがした。
「ミアが作った」
「ちょっとだけ失敗したの」
「ちょっとじゃない」
「ルカは黙ってて」
二人の声を聞きながら、ゼインは椅子へ座った。
ノアが隣の席へよじ登る。
匙を取ろうとすると、小さな手が袖を引いた。
「パパ」
「何だ」
ノアは三人の顔を見回してから、両手を合わせた。
「いただきます!」
ルカとミアも、それに続く。
ゼインは三人を見た。
食事の前に何かを言う習慣など、これまで必要だと思ったことはない。
「……いただきます」
そう答え、匙を取る。
焦げたスープは、おそらく美味くない。
それでも、冷え切った身体へ温かさが広がっていくような気がした。
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