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第十三話 家族のいる街

 イアと別れて、数日後。


 非番の午後、ゼインは駐屯地の資料室にいた。

 窓は小さく、昼間でも室内は薄暗い。壁一面に並ぶ棚から、乾いた紙と埃の臭いが漂っている。

 目的の本は、最奥の棚に埋もれていた。

 建国よりも前、山麓の村々で語られていた話を集めた民話集。

 表紙は色褪せ、題名を記した金文字も半分ほど剝がれている。


 ゼインは本を卓へ置き、目次を開いた。

 探していた名前は、すぐに見つかった。

 ――白き竜ミュトス。

 街の老婆が口にした、古い誓いの言葉。

 そして、イアが死んだ竜を弔う時にも、同じ名を呼んでいた。


 西と東。

 竜を殺す国と、竜を崇める国。

 その両方に残っているなら、ただの地方の言い回しではない。

 記されていた頁を開く。


『世界を最初に照らした白き竜、ミュトス。竜たちは皆、この御方より名を与えられ――』


 文章は、そこで途切れていた。

 次の頁がない。

 破れたのではなかった。

 章の始まりから終わりまで、綴じ糸の際でまとめて切り取られている。


 偶然抜け落ちたような跡ではない。

 誰かが、刃物を使って外したのだ。

 ゼインは前後の頁も確かめた。

 検閲を示す印はない。

 閲覧を禁じた記録も、訂正の書き込みもなかった。

 初めから、そんな章など存在しなかったように処理されている。


 ゼインは、切断された頁の跡へ指を滑らせた。

 龍素。

 そして、白き竜ミュトス。

 どちらも古い言葉や人の記憶には残っている。

 それなのに、公の記録からはきれいに抜け落ちていた。

 二つの空白が、同じ手で穿たれた穴のように見えた。

 偶然にしては、整いすぎている。

 資料室の奥で、紙を擦るような音がした。


 ゼインは顔を上げた。

 誰もいない。

 閉め切った窓も動いていなかった。

 もう一度、本へ視線を落とす。

 切り取られた章の向こうから、何者かに見返されているような気がした。


 ゼインは本を閉じた。

 貸出票には何も書かず、元の棚へ戻す。

 このことを、司令官にもリディアにも話さなかった。

 誰が章を消したのか分からない。

 ならば、誰がその名前を知っているのかも分からない。

 三人の正体へ繋がるかもしれない手掛かりを、軽々しく他人へ渡すことはできなかった。

 三人が何者なのかは知りたかった。

 誰が洞窟へ置いたのか。

 なぜ人の姿で生まれ、胸の奥に竜核を持っているのか。

 だが、一つだけ、調べることを避けている疑問があった。

 ノアは、目を覚ました瞬間からゼインを父と呼んだ。

 その理由だけは、それ以上確かめられずにいた。

 誰かに与えられた認識なのだとすれば、あの家で交わした言葉まで、すべて作られたものになる気がした。

 答えがないことより、答えがあることの方が怖かった。

 ゼインは外套の内側から、黒革の手帳を取り出した。


 《白き竜ミュトス。東西双方に名が残る》

 《関連する章は、綴じ糸の際から切除》

 《検閲印なし。存在そのものを消した形跡》


 三行を書き留め、手帳を閉じた。


     ◇


 それから、季節が一つ巡った。

 答えへは届かないまま、四人の暮らしだけが日常になっていた。


「ルカ。剣は食卓へ持ってくるな」


「置いてくる」


「ミア。今日の帰宅は夕刻までだ」


「分かってるよ、お父さん」


「ノア」


 ゼインは椅子の下へ視線を落とした。

 白い尾が、床をゆっくりと掃いている。


「出ている」


「あ」


 ノアが慌てて尾を服の中へ引っ込めた。

 頭の小さな角も、白い髪の中へ溶けるように消えていく。


「今日は人が多い。家を出る前に確認しろ」


「はーい」


 返事だけは素直だった。

 食卓には、四人分の朝食が並んでいる。

 ルカの皿には肉を多めに。

 ミアには果物を一つ追加し、食の細いノアのパンは半分に切ってある。

 誰が何を好み、どのくらい食べるのか。

 いつの間にか、考えずとも手が動くようになっていた。


「父さん」


 剣を部屋へ置いてきたルカが、ゼインの向かいへ座る。


「本当に、そのまま行くの?」


「何がだ」


「髪」


 ゼインは自分の前髪へ触れた。

 視界を塞ぐほどではない。戦闘にも支障はなかった。


「問題ない」


「あるよ」


 ミアが即座に否定した。


「今日は前線軍と街の交流会なんだよ。お父さんも壇上に上がるんでしょう?」


「司令官が勝手に決めた」


「でも上がるんでしょう?」


「命令だからな」


「その髪で?」


「髪は関係ない」


 ミアがルカを見る。

 ルカも静かに首を横へ振った。

 最後にノアが、ゼインの長い前髪を両手で左右へ分ける。

 隠れていた顔をしばらく観察したあと、真剣な表情で頷いた。


「切った方がいい」


「なぜだ」


「パパの顔が見えないから」


 三対一だった。

 ゼインは食事を続けた。


「時間がない」


「そのために早く起こしたのよ」


 背後から声がした。

 いつの間にか玄関の扉が開き、リディアが立っている。

 片手には前線軍の正式な黒い礼装。もう片方には、理髪店の名が記された予約票を持っていた。


「鍵を掛けたはずだ」


「ミアに合鍵をもらったわ」


 ゼインはミアを見る。


「緊急時のためだよ」


「今日が緊急なのか」


「お父さんが、その姿で街の中央へ出るのは緊急事態」


 リディアが答えた。


「食べ終わったら行くわよ」


「必要ない」


「公的な命令よ」


「嘘をつくな」


「子供たちの総意でもあるわ」


 ゼインは三人を見る。

 全員が頷いた。

 九か月前まで、竜を喰らうことしか考えていなかった男が。

 今は、子供三人と幼馴染に散髪を強制されていた。


     ◇


「……本当に、討竜官殿ですか?」


 理髪店を出たゼインを見て、若い兵士が足を止めた。

 長く伸びていた髪は短く整えられ、頬を覆っていた無精髭もなくなっている。

 隠れていた目元は鋭い。

 左目の黒い痣は残っているが、整った顔立ちの中では、以前ほど不気味には見えなかった。

 鍛えられた長身には、リディアが用意した黒い礼装が似合っている。

 ゼイン本人は、首元が窮屈だとしか思っていなかった。


「すごい……」


 ミアが呟いた。


「お父さん、格好いい」


「前と変わらない」


「全然違うよ」


 ルカもゼインを見上げる。


「父さんって、こんな顔だったんだ」


「ずっと一緒にいただろう」


「ほとんど髪で隠れてたから」


 ノアは何も言わなかった。

 ゼインの周りを一周してから、その右腕へ抱きつく。


「どうした」


「パパだから」


「意味が分からない」


 通りを歩く人間が、次々にゼインへ視線を向けている。

 以前も注目されていた。

 だが、その頃とは目の種類が違った。


「あれが竜喰らい?」


「外壁区画で子供を助けた人でしょう」


「もっと年上だと思ってた」


「顔、初めて見た……」


 若い女性たちの声が聞こえる。

 兵士たちも、ゼインだと気づくたびに驚いた顔で敬礼した。

 ノアの腕へ、さらに力が入る。


「苦しい」


「離さない」


「なぜだ」


「みんなパパを見てるから」


「見られるために呼ばれた」


「そういうことじゃないの」


 ミアが楽しそうに笑っている。

 ゼインには何が違うのか分からなかった。


     ◇


 前線都市中央の広場には、軍と住民の天幕が並んでいた。

 兵士たちが使う魔道具の展示。

 子供向けの模擬剣術。

 職人たちの食事と、山で採れた果実を売る露店。

 普段は軍人の往来が多い広場も、今日は家族連れで埋め尽くされている。


 以前であれば、ゼインが近づくだけで人垣が割れただろう。

 今も道は空く。

 だが、逃げているのではない。


「討竜官さん」


「この前はありがとうございました」


「子供たちも元気そうだね」


 声を掛けられるたび、ミアが先に応じる。

 ルカは少し緊張しながら頭を下げた。

 ノアはゼインの腕から離れない。

 商店の女主人がミアへ果物を渡す。

 顔見知りの兵士が、ルカの腰へ下げた木剣を見て構えを褒める。

 以前、ノアを見るたびに距離を取っていた老女が、小さな焼き菓子を差し出した。


「お父さんと分けなさい」


「ありがとう」


 ノアは菓子を受け取り、すぐに半分へ割った。

 大きい方をゼインへ差し出す。


「いらない」


「一緒に食べるの」


 断ると長くなる。

 ゼインは受け取った。


 その様子を見ていた老女が、目尻を下げた。

 広場の奥から、一組の親子が近づいてくる。

 外壁区画で、崩れた住宅から救い出した母親と子供だった。

 子供は母親の手を離し、ゼインの前まで走ってきた。

 以前は炎と煙の中で泣いていた。

 今は自分の足で立ち、両手に小さな木彫りを持っている。


「討竜官のお兄ちゃん」


 差し出されたのは、不格好な鳥だった。

 翼の長さも左右で違う。


「これ、ぼくが作った」


「なぜ鳥だ」


「竜より速く飛んで、また帰ってこられるように」


 ゼインは木彫りを見下ろした。

 受け取る理由はない。

 そう考えている間に、ノアが外套の裾を引く。


「パパ」


「ああ」


 ゼインは木彫りを受け取った。


「もらっておく」


 子供の顔が明るくなる。

 母親が深く頭を下げた。


「あの日、あなたが来てくださらなければ、この子も私も生きていませんでした」


「仕事をしただけだ」


「それでもです」


 周囲の住民たちが、その会話を聞いていた。

 竜核を噛み砕く異形の討竜官。

 近寄れば呪いが移るとまで噂された男。

 今、彼を見る目の中にあるのは、恐怖だけではない。

 

 感謝。

 羨望。


 そして、この街を守る者への信頼だった。

 やがて広場の中央で、前線司令官が壇上へ上がった。

 短い挨拶のあと、司令官の視線がゼインへ向けられる。


「独立討竜官。前へ」


「断る」


「命令だ」


 周囲から笑いが漏れた。

 ゼインは仕方なく壇上へ上がる。

 三人もそのすぐ下までついてきた。

 司令官は集まった住民を見渡した。


「この男は、愛想がない。協調性もない。こちらの命令を無視することも多い」


「紹介する気があるのか」


「黙って立っていろ」


 また笑いが起こる。

 ゼインには、何が面白いのか分からない。


「だが、竜が現れれば必ず先頭へ立つ。そして人を救うと決めた時、誰一人置いて戻らない」


 広場が静かになった。


「我々が今もこの街で暮らせているのは、彼が竜を殺し続けてきたからだ」


 最初は、誰か一人が手を叩いた。

 それに別の音が重なる。

 やがて拍手は広場全体へ広がった。

 兵士。

 職人。

 商人。

 ゼインが名前すら知らない住民たち。

 皆がこちらを見ている。


 以前ならば、居心地が悪いとしか思わなかっただろう。

 今も、称賛が必要だとは思わない。

 それでも壇上の下では、三人が誰よりも嬉しそうな顔をしていた。

 ルカは誇らしげに背筋を伸ばしている。

 ミアは周りへ聞こえるように、


「私たちのお父さんだから」


 そう言っていた。

 ノアは両手を合わせ、痛くなるほど強く拍手をしている。

 その光景だけは、悪くなかった。


     ◇


 夜。


 交流会を終えて家へ戻ると、四つの器が食卓へ並んだ。

 ミアが作ったスープは、やはり少し焦げていた。

 ルカとミアが言い合ういつもの声を聞きながら、ゼインは椅子へ座る。

 ノアが隣の席へよじ登った。

 ゼインが匙を取ろうとすると、小さな手が袖を引く。


「パパ」


「何だ」


 ノアは三人の顔を見回してから、両手を合わせた。


「いただきます!」


 ルカとミアも続く。

 ゼインは三人を見た。


「……いただきます」


 いつもの日常。いつもの風景。

 まるでこの生活が当たり前だと思い込んでしまうくらいに。

 ミアのスープは、前よりも少しだけ焦げていなかった


     ◇


 白い場所は、前より狭くなっていた。

 縁を、黒い霧が囲んでいる。

 女は、前より近くにいた。


「あの子たちが、笑うておるのう」


 初めて、言葉がまともに聞こえた。

 老婆のような話し方をする、若い声だった。


「……何が見えている」


「そなたの傍の、白い子らじゃ。ようやっと、笑うようになった」


「お前は誰だ」


「わしは――」


 女が、止まった。


「……のう。わしは今、何の話をしておった?」


「子供たちの話だ」


「おお、そうじゃった、そうじゃった」


 女は笑った。

 笑いながら、少しだけ、怯えているように見えた。


「わしは、なぜこんなにも、そなたらが心配なのじゃろうなあ」


 独り言のような呟きだった。

 答えを持たない者の、声だった。

 目が覚めても、その怯えだけが胸に残った。

最後まで読んで下さり、ありがとうございます!


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