第五話 扉を叩く女 そのニ
ゼインは息を止めた。
リディアも動かない。
白髪の少女の服の裾から、細い尾がするりと現れる。少年の髪の間からも、二本の角が伸びた。
一秒。
二秒。
リディアの右手が腰へ動く。
軍用の呼笛。
ゼインは考えるより先に、その手首を掴んでいた。
「――っ!」
身体を捻り、壁へ押しつける。反対の手で剣を抜いた。
刃がリディアの喉元で止まる。
三人の顔から笑顔が消えた。
「声を出すな」
「……」
「出せば殺す」
自分でも驚くほど静かな声だった。
リディアは抵抗しなかった。ただ、三人を見ている。
角。翼。尾。
「……竜人?」
「ああ」
「そんなものが、本当に……」
「俺も昨日初めて見た」
リディアの瞳が揺れる。
「まさか……だから外郭管理局が――」
そこで、扉が叩かれた。
「リディア調査官!」
二人とも動きを止めた。若い男の声だった。
「おられますか? 昨夜の保護児童について、詰所から確認が!」
最悪のタイミングだった。剣はまだ、リディアの喉元にある。
再び扉が叩かれた。
「調査官?」
リディアが息を吸う。
ゼインは彼女を見た。
それから。
剣を下ろした。手首を掴んでいた手も離す。
「……ゼイン?」
止めるものは、もう何もない。
叫ぶことも。
扉を開けることも。
それはリディア自身の選択だ。
ゼインは一歩退き、ただ一言、小声でこう言った。
「――頼む」
リディアの目が、わずかに見開かれる。
しばらく考え、扉へ向き直ったリディアが答えた。
「三人とも山中で違法な拘束を受けていた子供よ。これから私の方で一時保護の手続きをする」
「健康状態に問題があるのですか?」
「目立ったものはないけれど、呪いを受けている可能性がある。危険だから細かい確認はこちらで済ませるわ」
「了解しました。では、そのように報告を」
「ええ、お願い」
足音が遠ざかっていく。やがて、完全に聞こえなくなった。
静寂。
リディアは扉を見つめたまましばらく動かなかった。
そして。
「…………あぁぁぁぁぁ……」
ずるずると、その場にしゃがみ込んだ。
三人の子供が目を丸くする。
「やっちゃった……」
両手で顔を覆う。
「やっちゃったわ、私……」
そう言って頭を抱えた。
「変だとは思ったのよ……あなたが子供を三人も連れ帰るなんて……しかも医務院にも渡さないし、回収班は五人まとめて消えてるし! あぁぁ~……」
リディアはしゃがんだまま、力なくゼインを見上げる。
「竜人の存在を隠して、軍へ虚偽報告。しかも外郭管理局まで絡んでるのよ?」
「……そうだな」
「今期、勤務評定よかったのになぁ……」
ぽつりと呟いた。
「次の人事で、中央への推薦もあるかもしれないって言われてたの」
「知らなかった」
「でしょうね」
リディアが苦笑する。
「あなた、自分の昇進にすら興味なさそうだもの。他人のなんて知るわけないわよね」
「……悪かった」
その言葉に、リディアが顔を上げる。
「おまえを、巻き込んだ」
そして、わずかに視線を逸らす。
「だが、助かった」
リディアは口元を押さえた。
「まさか、あなたからちゃんとお礼を言われる日が来るとはね」
「言わなければよかった」
「もう遅いわ」
少しだけ笑う。
「その一言が聞けたなら、中央推薦ひとつくらいは――」
そこで言葉を切り、リディアは立ち上がった。軍服の埃を払い、改めて三人を見る。
先ほどまで困り果てていた目が、少しずつ調査官のものへ戻っていった。
「……本当に、竜なのね」
三人が身を寄せる。
「怖がらなくていいわ。さっきはごめんね」
茶髪の少女の翼へ、視線を落とす。
「少しだけ、見てもいい?」
少女はゼインを見る。ゼインが何も言わないのを確認してから、おそるおそる翼を広げた。
「うわ……」
リディアの顔が近づいた。
「翼膜がある。骨も通ってる……飾りじゃないのね。角も、牙も――」
リディアの目が少し輝いた。
ゼインが呆れたように見る。
「さっきまで頭を抱えていただろう」
「仕方ないでしょう。こんなの見たことないもの」
今度は少年の角。白髪の少女の尾。順番に眺めていく。
「軍の資料にも、東方の伝承にも、こんな存在について具体的な記録はなかったはず」
「俺も知らない」
「あなたでも?」
「ああ」
リディアの表情から、笑みが消えた。
誰よりも竜を殺し、誰よりも竜を追い続けてきた男。
そのゼインすら知らない存在。
「……じゃあ、この子たちは本当に何なの?」
「分からない」
「分からないまま匿って、昨日会ったばかりなのにパパと呼ばれてるの?」
「そうなる」
リディアが額へ手を当てた。
「思ってた以上に何も分かってないのね……」
「だから調べる」
三人を見る。
白髪の少女は、またゼインの脚へ抱きついている。
茶髪の少女も、そのすぐ隣。
少年だけは妹たちの少し前に立ち、まだリディアを警戒していた。
「……私がどうして庇ったか、分かる?」
「いや」
「この子たちが何なのかは分からない。危険かもしれない。外郭管理局が何をしようとしていたのかも分からない」
白髪の少女の胸元。そこに残る、小さな針の傷を見る。
「でも、軍へ渡したらどうなるかだけは分かる」
ゼインは黙った。
「拘束されて、血を採られて、薬を入れられて、魔術をかけられる」
リディアの視線が、ゼインの左目へ向く。
「何をされても『研究のため』で済まされる」
黒い痣が、鈍く疼いた。
「あなたと同じように」
「昔の話だ」
「この子たちには、これから起きる話よ」
短く言い切った。
「それに、こんなにあなたを慕ってる子供を引き剥がして研究施設へ送ったら、たぶん私、一生寝覚めが悪いわ」
リディアは机へ戻り、先ほどの書類を引き寄せた。
「あなたは、この子たちの正体を調べて」
「言われなくても」
「私は特殊回収班を追う。誰の命令で動いたのか。どうしてこの子たちの存在を知っていたのか」
「正式な照会は使うな」
「分かってる。記録が残るもの」
「危険だぞ」
「ええ」
リディアは筆を持ったままゼインを見た。
「だから、一人で勝手なことをしないで」
ゼインが黙る。
「今度は私にも話して。少なくとも、あなたが一人で抱えて軍人を五人消すよりはましでしょう?」
「……分かった」
「本当に?」
「ああ」
リディアが少し驚いた顔をした。
「今日はずいぶん素直ね」
「お前を巻き込んだのは俺だ」
「……そういうところは、昔から変に真面目なのよね」
小さく笑い、書類へ視線を戻す。
種族欄。リディアの筆が、一瞬だけ止まった。
書類と三人を交互に見て、そして。
――人間。
迷いなく、そう書いた。
「これでよし」
「……本当にいいのか」
「よくはないわ」
即答した。
「発覚したら、減俸だけじゃ済まないかもしれないもの」
「なら――」
「でも、もう決めたから」
リディアは穏やかに笑った。
「途中で逃げる方が、私らしくないでしょう?」
ゼインはしばらく彼女を見ていた。
「……借りは返す」
「ええ」
リディアは満足そうに頷く。
「忘れないでね。一生分くらいあるから」
「高いな」
「命を張ったんだから当然でしょう?」
ようやく二人の間に、わずかな笑いが戻った。
リディアは次の欄を見る。
「それじゃあ――名前は?」
三人が顔を見合わせる。少年が答えた。
「覚えてない」
「そう……」
リディアの声が少し柔らかくなる。
「でも、この書類には必要なの」
白髪の少女がゼインの服を引いた。
「パパが決めて」
「自分で決めろ」
「わかんないから」
茶髪の少女も頷く。
「私もお父さんにつけてほしい」
少年は何も言わなかった。だが、拒みもしなかった。
名前など、人間を区別するための音にすぎない。
そう思っていた。
それなのに。
三人を見ていると、昨夜から頭の奥に残っている音があった。どこで知ったのかは分からない。
ゼインは少年を見る。
「ルカ」
「……ルカ?」
「嫌なら別にしろ」
少年は胸元へ手を置いた。
「ルカ」
自分へ言い聞かせるように繰り返し、小さく頷く。
「それがいい」
次に茶髪の少女。
「ミア」
「ミア……」
少女は何度か口にして、笑った。
「うん。好き」
最後に、白髪の少女。
期待を隠そうともせず、ゼインを見上げている。
「ノア」
「ノア?」
「お前だ」
少女の瞳が輝く。
「うん!」
ノアが嬉しそうに脚へ抱きついた。
リディアの筆が動く。
ルカ。
ミア。
ノア。
三つの名前が、紙の上に並んだ。
「最後。保護責任者ね」
ゼインが書類を見る。
「俺でいいのか」
「むしろ、他に誰がいるの?」
「……そうだな」
今度は拒まなかった。
リディアはゼインの名前を書く。
四つ目の、名前。
ゼイン。
「これで少なくとも、三人は街の一時保護児童。あなたは保護責任者よ」
書類を持ち上げてみせる。
「もう軍に連れていかれない?」
ミアが尋ねた。
「絶対とは言えないわ」
リディアは誤魔化さなかった。
「でも、昨日みたいに誰かが勝手に連れていくことはできない」
「ほんと?」
「ええ」
紙を指先で軽く叩く。
「この子たちはもう、正体不明の回収物じゃないもの」
そして、三人を順番に見た。
「名前があって、保護責任者がいて、この街で暮らしている子供よ」
三人はまだ、完全には意味を理解していないようだった。
それでも。
「……ここにいていいの?」
ミアが恐る恐る聞く。
「ああ」
答えたのはゼインだった。自分でも意外なほど、迷いはなかった。
「ここにいろ」
ミアの顔が綻ぶ。ノアが、さらに強く脚へ抱きつく。ルカも、ほんの少しだけ肩から力を抜いた。
リディアはその光景を見て、微笑んだ。
「それなら決まりね」
書類を折り畳み、軍服の内側へしまう。立ち上がり、扉へ向かう途中で、三人を振り返った。
「ただし、角と翼と尾。人前では絶対に出さないこと」
三人が揃って頷く。
「特にあなた」
ミアを指す。
「わ、私?」
「嬉しくなって翼を広げるのは禁止よ。学園でやったら大騒ぎになるから」
ミアの顔が上がった。
「……学園、行けるの?」
「何も問題が無ければ。そのうちね」
リディアは即答した。
「その日までに、隠す練習をしておくこと」
「うん!」
今度は、翼を出さずに笑った。
「上出来」
それからゼインを見る。
「あなたも。三人分の服、靴、寝具。器も足りないでしょう」
「……ああ」
「今日中に揃えなさい」
扉を開く。朝の光が、薄暗い家の中へ差し込んだ。
外へ出る寸前、リディアが足を止めた。
「ゼイン」
「何だ」
「さっき、なんて言ったか覚えてる?」
ゼインは答えない。
「聞こえなかったふりをしてあげてもいいけれど」
「……言った」
「そう」
リディアは振り返らなかった。束ねた金髪が、朝の光の中でわずかに揺れる。
「十年よ」
「何がだ」
「あなたが誰かに頼むまで、十年かかったの」
声が、少しだけ笑っていた。
「一生分の貸しって言ったけど、あれは取り消すわ」
そのまま、外へ一歩踏み出す。
「今のところは、釣り合ってる」
扉が閉じた。足音が遠ざかっていく。
ようやく家の中に、朝の静けさが戻った。
ノアの尾が、安心したように左右へ揺れる
。
昨日まで、三人には名前すらなかった。軍に見つかれば、何をされるかも分からない存在だった。
けれど今日。
ルカ。
ミア。
ノア。
そして、その名前を書いた紙の一番下に、ゼインの名がある。
種族――人間。
嘘から始まった書類だった。
それでも。
――ここにいていい。
そのことだけは、少なくとも今は嘘ではなかった。
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