第二話 「何もなかった」
前線都市へ戻った頃には、日が山脈の向こうへ沈みかけていた。
巨竜を載せた大型荷車が西門を通ると城壁の内側から歓声が上がった。切り落とされた翼は別の荷車へ積まれ、巨大な首には何重もの鎖が巻かれている。
死体だと分かっていても、道の両側に集まった住民は距離を取っていた。
死んでいても、竜は竜だ。
男は荷車の後ろを歩いていた。
巨竜の血を浴びた外套は乾き始め、肩の傷には衛生兵が巻いた布がある。応急処置だけ受け、縫合は断った。
腕は動く。なら、問題ない。
「討竜官殿」
門を通過したところで、記録板を抱えた軍人が駆け寄ってきた。
「確認したいことがあります。戦闘中、巨竜の巣付近で正体不明の魔力波形が観測されました」
男は足を止めた。
「今も出ているのか」
「いえ。ごく短い反応が三度です。現在は完全に消失しています」
三度。
白い膜の中にいた子供も、三人だった。
「洞窟内に卵や幼体は?」
「いない」
「ですが、観測記録では――」
「巨竜の魔力が乱れただけだろう」
軍人が記録板へ視線を落とす。異論はあるらしい。
だが、今日あの洞窟へ入り、巨竜を殺した本人の言うことだ。記録の数値より現場の判断が優先される。
「承知しました。正式な報告書は明朝までにお願いします」
「ああ」
書くつもりのない返事を残し、男は人混みを離れた。
背後では、すでに討伐隊の兵士たちが祝杯の話を始めている。
巨竜を仕留めた日には軍から酒が振る舞われるが、男が参加したことは一度もなかった。
外壁沿いを歩き、軍区画から離れた古い建物へ向かう。石造りの小さな家だった。正確には、かつて外壁の監視兵が使っていた詰所を、住居として与えられたものだ。
扉を開けると、血と薬品と乾いた獣脂の臭いがした。
部屋の中央には傷だらけの作業台。
その上には、角を片方だけ切り取られた小型竜の頭部が置かれている。
壁際の棚には、噛み割られて透明になった竜核の殻。
解体用の刃物、乾燥させた鱗、書きかけの討伐記録。
椅子は一脚。食器も一人分。寝台の上には洗っていない外套が積まれていた。
男は室内を見回した。
三人を連れてきたとして、どこへ置く。
寝台は一つしかない。ならば床でいい。
毛布は――二枚。三人なら足りるだろう。
棚から保存食と水筒を取り出し、袋へ詰める。
服も必要だ。あの白い布のままでは外へ出せない。予備のシャツでは大きすぎるが、裸よりはましだ。
寝台の下から、竜素材を運ぶ時に使う厚手の麻袋を引きずり出し――手が止まった。
「……」
三人をこれへ入れて運ぶつもりなのか。
竜ではあるが、少なくとも死体ではない。
そう思い麻袋を床へ落とす。代わりに古い軍用毛布を探し出した。
なぜそんなことを気にしたのかは考えなかった。
家の裏には小型竜の素材運搬用に使っている荷車がある。幌を掛ければ中は見えない。角と翼を毛布で隠し、負傷した孤児だと言えば、軍用の搬入口は通せるかもしれない。
問題は、三人が目を覚ました後だ。
叫ぶかもしれない。
逃げるかもしれない。
襲ってくる可能性もある。
白髪の少女は、なぜか自分をパパと呼んだ。意味は分からない。罠だとすれば、あまりにも稚拙だった。
だからこそ、警戒すべきなのかもしれない。
男は荷車へ毛布と食料を載せた。血に濡れた外套を脱ぎ、予備の軍服へ着替える。
動かした拍子に肩の傷が開き、白い布へじわりと血が滲んだ。
子供たちを助けたいわけではない。
正体を確認する必要があるだけだ。
軍へ渡せば、情報を隠される。黒い竜へつながる手掛かりを、他人に奪われるわけにはいかない。
――それだけだ。
◇
山道へ戻る頃には、空は完全に暗くなっていた。
討伐現場の回収作業は日没とともに中断されている。巨竜との戦闘で洞窟内部の岩盤が緩んだため、夜間作業は禁止された。兵士たちも麓の野営地まで下がっているはずだった。
男は荷車を森の中へ隠し、そこからは歩いて山を登った。
洞窟の入口には、立入禁止を示す赤い縄と軍の封鎖札が張られている。見張りの姿はない。
封鎖には触れず、昼間の戦闘で巨竜の尾が削った山肌へ回り込む。そこには人一人がどうにか通れる亀裂が残っていた。
身体を横にして潜り込む。
巣の中は静まり返っていた。腐肉と血の臭いだけが残っている。
灯りは使わない。昼間に通った道だ。足場は覚えている。
横穴へ差しかかったところで、男の足が止まった。
岩壁の前に、新しい土が落ちている。
自分が動かした時よりも明らかに多い。目を凝らせば、複数の軍靴の跡。その隣には、細い車輪を持つ台車の轍まで残っていた。
――誰かが入っている。
男は剣を抜いた。
岩壁の隙間から、低い声が漏れてくる。
「翼を固定しろ。傷つけても構わん」
「鎮静剤が効きません」
「量を増やせ。核が無事なら問題ない」
剣を握る手に力が入った。
男は音を立てず、岩壁を押し開けた。
中にいたのは五人。
全員が灰色の外套をまとっている。前線都市の部隊章はなく、腰には軍用剣。
装備だけを見れば兵士に近い。だが、部屋の中央に並んでいるものは、討竜用の武器ではなかった。
金属製の拘束台。太い革帯。先端に針のついた細長い器具。そして、竜核を輸送するための封印箱。
少年は床へ押さえつけられ、両腕を背中で縛られている。
茶髪の少女は銀色の網に包まれ、苦しそうに身体を丸めていた。
白髪の少女は、拘束台の上。
胸元の布を切られ、細い尾が台の横から力なく垂れている。
「妹に触るな!」
少年が叫んだ。唇から血が流れている。
押さえつけていた男が、その背中を軍靴で踏みつけた。
「黙らせろ」
別の一人が、白髪の少女の胸へ針を近づける。
「その手を離せ」
五人が一斉に振り返った。
白髪の少女の瞼が開く。焦点の合わない瞳が、それでも男の姿を捉えた。
「……パパ」
か細い声だった。それでも、その場にいた全員へ届いた。
「パパじゃない」
灰色の外套をまとった四人が、わずかにざわつく。
その中で一人だけ、動かなかった男がいた。
四十を過ぎた頃だろうか。首元に階級章はない。ただ、外套を留める金具にだけ、見覚えのない銀色の紋章が刻まれている。
他の四人の視線が、その男へ集まった。
「討竜官殿」
中年の男は穏やかな声で言った。
「戻られると思っていました」
どうやら、こいつが仕切っているらしい。
「誰の命令だ」
「機密事項です」
「そいつらを放せ」
「できません。この三体は、国家管理下の希少生物として回収します」
三体。
その呼び方だけが、妙に耳へ残った。
「発見者であるあなたの功績は、正しく評価されます。ただ――虚偽の報告は感心しませんね」
「報告どおりだ」
「何もいなかった、と伺いましたが」
「ああ」
中年の男が、拘束台の少女へ視線を落とす。
「では、これは?」
「知らん」
「あなたを父親と呼んでいますが」
「人違いだ」
「……なるほど」
男が片手を上げた。
それだけで、残る四人が一斉に剣を抜いた。
「腰の袋を地面へ置いてください」
今日回収した巨竜の竜核が、男の腰に下がっている。厚い封布の隙間から、濁った橙色の光が漏れていた。
「あなたの能力については把握しています。竜核へ接触させるなと命令を受けておりますので」
一人が白髪の少女の首へ刃を添える。
「抵抗すれば、順に処分します」
男は竜核の袋へ手を伸ばした。四人の身体が強張る。
「ゆっくりと」
袋を外し、床へ落とす。
ごとり、と硬い音が響いた。
続いて、腰の剣も鞘ごと外す。
それも床へ置いた。
ほんのわずかに。
五人の緊張が緩む。
「賢明です」
中年の男が息を吐いた。
「両手を頭の後ろへ」
男は動かなかった。
「聞こえなかったのですか」
「聞こえた」
「では――」
男は床の松明を蹴り上げた。
炎が舞った。
反射的に、五人の視線がそちらへ流れる。それだけで十分だった。
男は最も近い一人の懐へ潜り込み、剣を持つ手首を掴む。捻り上げると骨が鳴り、指から剣がこぼれ落ちた。
それを奪い、刃を返す。
喉を引き裂いた。
「殺せ!」
中年男の声が飛ぶ。
左右から二本の剣。
一方を身体の外へ受け流し、そのまま踏み込んで、もう一人の腹へ奪った剣を突き込んだ。
低い天井。
狭い足場。
多人数で囲むには、ここは狭すぎる。
男は刺した身体を蹴り飛ばした。その陰から踏み込み、よろめいた一人の顎へ拳を叩き込む。
骨が砕ける感触。倒れかけた胸を踏み抜き、そのまま床へ叩きつけた。
残るのは二人。
白髪の少女へ刃を当てている男と、中年の男。
「動くな!」
少女を押さえる男の声が裏返っていた。
男が一瞬静止した。
「剣を捨てろ! 次は本当に――」
言われた通り、剣から手を離す。
だが。
床へ落ちる直前、爪先で柄を蹴った。
「ぐあっ!」
悲鳴と同時に、少女の首から刃が離れた。
一息で距離を詰め、拳を顔面へ叩き込んだ。
背後で風が鳴る。
身を沈めると、中年の男が振るった短剣が頭上を通過した。
その手首を掴み、捻り、折る。
「がっ――!」
落ちた短剣を奪う。
中年の男が、折れた腕を押さえながら後退った。
「お前は……竜を殺す側だろう」
男の視線が、拘束された三人へ向き、やがて短剣を構えた。
「ならばなぜ、そいつらを守る!」
分からなかった。
自分でも、答えを持っていない。
だから何も言わず、短剣を胸へ突き立てた。
中年の男の身体から力が抜ける。そしてそのまま、床へ崩れ落ちた。
遠くで岩盤が軋む音が聴こえ、男は顔を上げた。
壁面に細い亀裂が走っていた。戦闘で何度も身体を叩きつけたせいか、天井から砂がぱらぱらと落ち始めている。
長居はできない。
少年を押さえていた死体を退かし、縄を切る。茶髪の少女を包んでいた銀色の網も、留め具を壊して引き剥がした。
最後に、拘束台の革帯を外す。
白髪の少女は起き上がれなかった。
鎮静剤を入れられたのだろう。
男はその身体を抱き上げる。
軽い。
あまりにも軽い。
腕に収まる重さは、人間の子供と何も変わらなかった。
「パパ……」
「違う」
少女は目を閉じたまま、男の軍服を掴んだ。
部屋の奥へ目を向ける。
白い膜の向こう、岩壁に細い裂け目があった。最初に感じた風は、そこから流れ込んでいたらしい。
大人が通るには狭い。だが、子供なら抜けられる。
部屋の端には回収班が持ち込んだ台車。積まれた荷物の中に赤い筒が二本あった。工兵用の破砕具だ。
「歩けるか」
少年が立ち上がった。足元はふらついていたが、頷く。
「そいつを連れて奥の裂け目へ入れ。俺は後から行く」
少年は怪訝そうに見たあと、茶髪の少女へ肩を貸した。
二人が裂け目の奥へ消えていく。
男は白髪の少女を片腕で抱いたまま、破砕具を掴んだ。五人の死体と拘束器具の間へ置く。導火紐を引き、赤い光が走る。
床へ転がしていた巨竜の竜核を拾い、腰へ戻した。
少女を抱いたまま、裂け目へ身体を押し込む。
――やはり狭い。
肩が岩へ擦れ、さっき塞ぎかけた傷が開いた。温かい血が軍服の下を流れていくが構わず進んだ。
背後で破砕具が爆ぜる音が響いた。
轟音とともに岩盤が崩れる。熱風と土埃が裂け目の中まで追ってきた。
男は腕の中の少女を胸へ庇い、そのまま前へ進む。
数歩先に、月明かりが見えた。山の裏側へ通じる小さな穴だった。
先に出た少年が、茶髪の少女を抱えて待っている。
男が外へ出た直後、背後の裂け目が崩れた岩で完全に塞がった。
山腹が低く唸る。
あの空間も、五人の死体も、拘束器具も、すべて岩盤の下へ沈んだ。
胸元で、白髪の少女が胸元で身じろぎする。
「みんなで、帰る?」
男は三人を見る。
少年は傷だらけの身体で、茶髪の少女を支えている。二人とも血と土に汚れ、まともに立っているのもやっとだった。
「みんなだ」
「……うん」
それを聞くと、白髪の少女の指から力が抜けた。安心したように眠っている。
男は崩れた山肌を一度だけ振り返った。
あの五人が何者だったのか。誰の命令で来たのか。前線都市へ戻れば、いずれ失踪が知られる。夜間の崩落事故として処理されたところで、完全に痕跡を消せるわけでもない。
それでも後悔はなかった。
これまで、竜を殺すために人を守ってきた。
そして今夜。
初めて。
竜を守るために、人を殺してしまった。
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