第一話 「竜喰い」
巨竜の前脚が岩盤を叩き割った。
砕けた石が弾丸のように飛び散り、退避しきれなかった兵士たちが地面へ伏せる。山腹を揺らす咆哮とともに、巨竜の口腔の奥で赤い火が膨れ上がった。
「散れ! 火を吐くぞ!」
誰かの叫びに、討伐隊が左右へ割れる。
その流れに逆らうように、黒い外套をまとった男が巨竜の正面へ歩いていく。
「討竜官殿!」
制止の声には振り返らなかった。
腰の袋から取り出したのは、拳ほどの結晶だった。黒ずんだ赤色の殻。その内側では、液体にも似た光が脈打っている。
数日前に仕留めた火竜の竜核。
口元へ運び、ためらいなく噛み砕く。
がり、と。
硬質な音が鳴る。
亀裂からあふれた赤い竜髄が、唇を焼きながら口内へ流れ込んだ。喉を灼く熱が胸へ落ちた瞬間、左目の周囲に刻まれた紫色の痣が大きく脈打つ。
火が身体の内側を這った。
筋肉が軋み、骨が悲鳴を上げ、視界が一瞬だけ赤く染まる。
巨竜の喉から炎が放たれた。
地面を蹴った。踏み込んだ岩盤が陥没するほどの衝撃。次の瞬間には、横合いから炎の奔流を突き破り、巨竜の懐へ飛び込んでいた。
熱で肌が焼け、外套の裾が燃える。それでも構わず剣を振り上げ、その刃を巨竜の前脚へ食い込ませた。
一撃では断てない。
ならば、それでいい。
剣から手を離し、両腕で巨竜の爪を掴む。押し潰そうとする巨体の力が、真正面から全身へ圧し掛かった。
「う、嘘だろ……」
遠くで誰かが呟いた。
爪先が男の肩へ食い込み血が噴き出す。
「軽い」
巨竜の脚を押し返し、平衡を失った巨体が傾く。そこへ落とした剣を蹴り上げ、空中で柄を掴んだ。踏み込み、そのまま喉の鱗の隙間へ刃を突き立てた。
巨竜が絶叫する。剣を横へ走らせ、裂けた肉から熱い血が滝のように降り注いだ。
やがて、巨大な身体が地響きを立てて崩れ落ちる。
兵士たちが安堵したように武器を下ろしかけた。
「核の確認を!」
だが、まだ終わっていない。
すでに巨竜の胸元へ向かっていた。
心臓は止まっている。
それでも、巨体の奥からはまだ硬質な脈動が伝わってくる。
「竜は二度死ぬ」
剣を逆手に持ち、巨竜の胸へ突き立てる。
胸骨を割り、停止した心臓を切り開くと、その背面に太い血管と白い組織で癒着した結晶が埋まっていた。
竜核。
周囲の組織を切断し、両手に余るほど大きなそれを引き抜いた。
濁った橙色の光が、一度だけ強く脈打つ。
そして消えた。
そこでようやく、巨竜の四肢から完全に力が抜ける。
「討伐完了!」
遅れて歓声が上がった。
兵士たちが武器を掲げる中、男は振り返りもしなかった。回収した竜核を布へ包み、腰の袋へ収める。肩から流れる血も、焼け焦げた外套もそのままだった。
「治療を受けてください」
駆け寄ってきた衛生兵が、傷を見るなり眉をひそめた。
「後だ」
「かなり深いです」
「腕は動く」
「そういう問題じゃ――」
男が歩き出すと、衛生兵は諦めたように口をつぐんだ。
まだ、巨竜が巣にしていた洞窟の調査が残っている。
ここ数か月、国境大山脈では竜の動きがおかしかった。
本来なら縄張りから出ない個体が山を下り、同族を襲い、前線都市の結界付近にまで姿を現す。今日打ち取った巨竜も、本来なら更に北の高地を縄張りとする個体だった。
なぜここへ移動したのか。
男にとって、その理由に大した意味はなかった。
山を下りてきたなら殺す。
下りてこなくても、いずれ殺す。
竜である以上、違いはない。
洞窟の内部には生臭い熱気がこもっていた。松明を持った兵士たちが、巣の残骸や骨を調べている。男も壁面の傷、糞の量、食い残された獣の骨を順に確認していった。
幼体はいない。
卵もない。
巣に蓄えられた鉱石も少ない。
やはり、この巨竜が長くここに住んでいたとは考えにくかった。
「討竜官さん」
洞窟の奥から、若い兵士が戻ってきた。
二十歳を少し過ぎた程度の斥候兵だった。何度か同じ任務で顔を合わせている。恐れるより先に話しかけてくる、数少ない人間の一人だ。
「そっちは俺たちが見ましたよ。行き止まりっす」
兵士が指した先には、狭い横穴があった。
男はそちらを見た。
「奥まで見たのか」
「見ましたって。岩壁しかなかったです。鼠一匹いませんでした」
「そうか」
そう答えながら、男は横穴へ向かう。
「え、行くんすか?」
「一応な」
「俺たちの調査、信用してないんですか?」
「している」
「なら、何で」
「俺の勘は当たる」
若い兵士はしばらく黙ったあと、困ったように頭を掻いた。
「……尊敬はしてますけど、やっぱり変な人っすね」
返事をせず、横穴へ入った。
通路は、人一人がどうにか通れる程度の幅しかない。数十歩進むと、斥候兵が言った通り岩壁へ突き当たった。
松明を掲げる。
普通の岩だった。
竜が掘った爪痕も、人間が削った跡もない。
――何もない。
引き返そうとして、足を止めた。
松明の炎が、わずかに揺れている。
風もない洞窟の奥で、炎の先端だけが岩壁へ向かって細く引かれていた。
「……」
壁へ手を当てる。
冷たい岩肌。その一角だけ、わずかに温度が違った。
重い音に混じって、鈍い空洞音が返ってきた。
剣を抜き、岩の亀裂へ刃を差し込んだ。
身体に取り込んだ火竜の力は、すでに薄れ始めている。それでも、人間の腕力とは比べものにならない。
力を込めると岩が軋み、やがて壁の一部が前へ倒れた。
土埃の向こうに、暗い通路が現れる。
誰かが意図して隠した跡はない。
だが、単なる落盤にしては岩の重なり方が妙だった。
男は松明を持ち直し、更に奥へ進んだ。
少し進んだところで、空気が変わる。
巨竜の巣に満ちていた血と腐肉の臭いが消え、代わりに雨上がりの森を思わせる、湿った清浄な香りが鼻をくすぐった。
通路の先には、四角い空間があった。
天然の洞窟ではない。
壁は不自然なほど滑らかで、床も平らに均されている。片側の壁には暖炉の跡にも見える黒い窪みが残っていたが、家具も道具もなかった。
ただ、部屋の中央だけが、白く光っていた。
男が剣を構えた。
光の正体は、薄い膜だった。
半透明の白い膜が幾重にも重なり、巨大な繭のような形を作っている。大半はすでに裂け、光の粒となって床へ溶け始めていた。
そして、その中に。
三人の子供がいた。
思わず足が止まった。
少年が一人。
少女が二人。
少年は妹たちを守るように腕を回して横たわり、その胸元へ茶色い髪の少女が身を寄せている。さらにその隣で、白髪の小さな少女が丸くなって眠っていた。
三人とも、簡素な白い布を身にまとっている。
この場所に、人間の子供がいるはずがない。
剣を向けたまま、慎重に近づく。
胸がわずかに上下していた。
生きている。
そこで初めて、異様なものに気づいた。
少年の髪の間から覗く、二本の短い角。
茶髪の少女の背に折り畳まれた、小さな翼。
そして白髪の少女の腰元から伸びる、細い尾。
男の左目を覆う呪いが、鈍く疼いた。
「……人間に、竜が混ざっている?」
そんな生物は見たことがなかった。
人の姿を取る竜が存在する――そんな伝承なら、昔どこかで聞いた覚えがある。
だが、それはあくまで真偽不明の昔話だ。
竜が魔術で人間へ化け、街へ紛れ込む。傷つけば鱗が現れ、死ねば本来の巨体へ戻る。
目の前の三人は、それとは違う。
人間の身体に、最初から竜の特徴が混ざっている。
白髪の少女の前へ膝をつき、胸へ手を当てる。
薄い布越しに、柔らかな鼓動が伝わる。
その奥で、もう一つ。
とくん。
肉の脈動とは異なる、硬質な震えがあった。
反射的に手を引いた。
知っている。
何度も斬り裂き。
何度も抉り出し。
何度も喰らったものだ。
――竜核。
外見がどれほど人間に近くとも、間違いない。
こいつは竜だ。
剣の切っ先を、少女の胸へ向けた。
殺すべきだった。
まだ眠っている。
抵抗する力もない。
一突きすれば終わる。
次に少年。
茶髪の少女。
三度剣を振れば、それで済む。
「……」
なのに、切っ先は動かなかった。
子供の姿をしているからではない。
珍しいからでもない。
ただ、この三人が何なのか分からない。
左目の呪いが、再び疼いた。
黒い竜に呪われてから、学園と軍では数え切れないほどの検査を受けた。
手足を拘束され、血を抜かれた。呪印を焼かれ、薬を流し込まれ、竜核を近づけて反応を測られた。
『お前を助けるためだ』
何度も、そう言われた。
だが、結局何一つ分からなかった。呪いは消えず、傷と痛みだけが残った。
こいつらを軍へ渡せば、同じことをされるかもしれない。
――だから何だ。
竜だ。
構う必要などない。
軍へ報告すれば、正体を調べられる。黒い竜へつながる手掛かりになる可能性もある。
ならば、生かして持ち帰るべきだ。
違う。
それは自分が殺せない理由を探しているだけだ。
男は奥歯を噛んだ。剣を握る手へ力を込める。
その時だった。
白髪の少女の瞼が、かすかに動いた。
ゆっくりと目が開く。
赤みを帯びた淡い瞳が、男を映した。
男は剣を向けたまま動かなかった。
少女は逃げようとしない。
怯えた様子もない。
しばらく男の顔を見つめたあと、眠たげに唇を動かした。
「……ママ?」
剣先が止まった。
何を見て、そう呼んだ。自分は男だ。呼ぶとしても父親――いや、そういう問題ではない。
「……誰がだ」
少女が瞬きをする。
もう一度、確かめるように男の顔を見た。
「じゃあ……パパ?」
意味が分からなかった。
なぜ恐れない。なぜ初めて会った男を、親と呼ぶ。誰かに教えられたのか。何のために。
「俺は、お前の父親ではない」
少女は答えなかった。
安心したように、もう一度目を閉じる。
小さな手が持ち上がり、男の外套の裾を掴んだ。
「パパ……」
それきり、眠りへ落ちた。
男は剣を向けたまま、しばらく動けなかった。
洞窟の向こうから声が響く。
「討竜官さん! 何かありましたか!」
外套には、少女の指が掛かっている。
振り払おうと思えば、簡単にできた。
男は剣を鞘へ戻した。
少女の手を外套からそっと外し、三人を白い膜の奥へ寄せる。
入口に倒れた岩を引き戻し、完全には閉じず、人一人が通れる程度の隙間を残した。空気は通る。
すぐに戻れば問題ない。
食料と服が必要だ。
三人を運ぶ手段もいる。
この角と翼を晒したまま、前線都市の門を通ることはできない。
軍へ見つかれば、その時点で終わりだ。
荷車。
毛布。
顔を隠せる服。
そこまで考えて。
男は、自分がすでに三人を連れ帰る前提で動いていることに気づいた。
なぜ自分がそんなことを考えているのかは、考えなかった。
元の通路へ戻ると、若い斥候兵が待っていた。
「どうでした?」
男は一度だけ、背後の岩壁を振り返った。
「何もなかった」
「やっぱりそうでしょう?」
「ああ」
「さすがの"竜喰い"でも勘は外れることあるんすね」
「たまにはな」
斥候兵は笑いながら、仲間たちのところへ戻っていった。
男はその背中を見送る。
何もなかった。
自分で口にしたその言葉だけが、妙に喉の奥へ残った。
これまで軍へ虚偽の報告をしたことなど、一度もない。
ましてや。
竜を庇うために嘘をついたことなど。
あるはずもなかった。
それが。
竜を守るためについた、最初の嘘だった。
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