1945年8月5日 樺太防衛戦 その5 煙突上の狙撃者
この作品はフィクションです、実在の人物や団体などとは関係ありません
◇◇◇
煙突の上の監視者
◇◇◇
午後3時00分。現代/浩平の自室。
メッセージを送信し終えた浩平は、デスクの前で腕を組み、三十秒間だけ思考の海に沈んだ。
(第二次世界大戦のレシプロ戦闘機とはいえ、最高速度は時速六百キロ近く出る。俺がここで名好の空を掃除した今……その南にある恵須取町の上空には、すでに海を迂回したソ連機が到達し、爆弾を落とし始めているんじゃないか……?)
名好町全域のマップは解放された。
バギーを町の一番南側の境界に再配置して南下することは可能だ。
しかし、名好から次の「塔路町」までは約39キロ。さらに目的地の「恵須取町」までは55キロもある。
時速100キロで不整地を爆走しても、到着まで三十分以上かかる計算だった。
「……三十分じゃ遅すぎる。街が灰になる! まずはここから、40キロから50キロ先の空にいるソ連機を直接手動迎撃できるか、試してみるしかない!」
浩平はVRコントローラーのシステムボタンを長押しし、一旦VRモードを抜けた。
HMDを脱ぎ、PCモニターで名好町中心部の立体地形図を血眼でスキャンする。
その視線が、海沿いにそびえ立つ一本の建造物に止まった。
操業を停止した製紙工場の、高さ約五十メートルの大煙突。
煙突の頂上には手すりも安全柵もない。生身の人間なら強風に煽られて一瞬で転落死する狂気の高所であった。
だが、浩平のアバターにとって高さただの視覚情報に過ぎない。万が一落下してアバターが粉砕されても、ショップで百万ゼニ払えば新品が即座に手に入るのだ(※将官服は別)。
浩平はマウスカーソルを煙突の縁の狭いコンクリートのスペースに合わせ、左クリックした。
シュンッ。
次の瞬間、現実の浩平が自室のOAチェアに深く腰掛けると同時に、アバターは地上五十メートルの煙突の縁に、両足を虚空へ投げ出すような姿勢で再出現した。
吹き抜ける間宮海峡の冷涼な海風。
見下ろした名好の町並みは、木造の平屋とトタン屋根が密集し、先ほどまでの機銃掃射で製紙工場の倉庫と街道沿いの民家二、三軒から細い黒煙が立ち上っていた。しかし、浩平が急行したおかげで空襲の時間はわずか数分で断ち切られ、街全体の壊滅は奇跡的に免れていた。
浩平はHMD越しに、南の空――塔路・恵須取方面の水平線を睨みつけた。
遥か遠く、入道雲の切れ間に、肉眼ではゴミ粒のようにしか見えない微かな黒点が蠢いている。
「見えにくいな……。ショップ、検索!」
浩平はゲーム内ショップを即座に開き、『光学・観測機器』カテゴリから「ズーム式100倍軍用双眼鏡(6,000ゼニ)」を購入。インベントリからアバターの左手へ転送させた。
接眼レンズを覗き込んだ瞬間、四十キロ彼方の空が網膜の前に引き寄せられた。
「……いた! 間違いなくソ連軍機だ! 双発の爆撃機に、護衛の戦闘機……全部で六機!」
獲物を捉えた浩平は、左手で双眼鏡を固定したまま、右手を前方へ突き出した。
呼び出したのは、誠一郎やちひろに授けたのと同じ『手銃レールガン』の攻撃スクリプト。
ただし浩平のアバターが使うシステムは、発射レートも弾丸の初速も、コンソールからリアルタイムで直接リミッターを解除できるチート仕様であった。
弾種リスト:
・パチンコ玉(11mm鋼球)
・1キロの鉄球
・1リットルの氷塊
・500リットルの巨大氷塊
(パチンコ玉は空気抵抗で論外だ。まずは……「1キロの鉄球」から試す!)
浩平は中指でトリガーのジェスチャーを切り、40キロ彼方の黒点に向けて単発試射を行った。
バシュッッッ!!!!
浩平の指先から、秒速八千メートルで撃ち出された1キロの鉄球。
しかし――超音速で大気と激突した鉄球は、猛烈な空気摩擦によって一瞬で真っ赤な火の玉へと変貌し、白煙の尾を引いたものの、わずか3キロほど飛んだ地点で急激に運動エネルギーを失い、失速して海へと落ちていった。
「くそっ……! 1キロの鉄球でも大気の壁に阻まれるか! 摩擦を見くびってた……! 表面積のデカい500リットルの氷塊じゃもっと早く溶けるぞ。何かないのか……40キロの大気を突き抜ける『弾』は……!」
浩平はスマホのマイクに向かい、現実世界の生成AIへ早口で問いかけた。
『40キロ先の大気圏内標的を水平射出で直撃させるために必要な弾丸の質量と形状を算出せよ!』
AIの合成音声が、五秒で回答を弾き出した。
『――着弾速度をマッハ2以上を維持して40キロ先へ到達させるには、飛翔体の断面積あたりの質量(断面荷重)を極限まで高める必要があります。最低でも三百キログラム以上の砲弾、あるいは細長い槍状の高密度金属構造物が必要です』
「三百キロ以上の砲弾……!? 造兵廠から奪った戦車砲弾じゃ全然足りない! 槍状の金属……金属構造物……!?」
『推奨資材:建築用圧延鋼材。JIS規格 H形鋼(広幅系列:300×300×10/15mm、長さ10メートル)。単重約九十三キログラム毎メートル、総重量約九百三十キログラム。縦向き姿勢を維持して射出すれば、理想的な運動エネルギー弾頭として機能します』
「H鋼……! ビルの骨組みに使う、あの巨大な鉄骨かッ!!」
浩平はショップの『産業・土木・建築資材』カテゴリを検索した。
卸売相場はトンあたり約十一万六千ゼニ。一本九百三十キロのH鋼なら、一発あたり約十一万ゼニ。
「十一万ゼニの弾丸……! だが、こんな1トン近い鉄骨を野放しに撃ち出したら、外れて地上に落ちた時に絨毯爆撃と同じ惨事になっちまう!」
浩平の指がコンソールを猛烈にPythonコードを叩いた。
アイテムの固有識別番号(UUID)を保持していれば、マップエリア外へ飛んでいった資材であっても、インベントリへの強制回収は可能(ただし、エリア外への転送は不可)。
浩平は落下高度が二百メートルを切った瞬間に自動回収されるフェイルセーフを瞬時に構築した。
「秒速一万メートル……マッハ29! 腕と指の指すベクトルに縦向き固定、飛翔時間約8秒……! 落ちてくる前に仕留めるッ!」
浩平は右手を40キロ先の編隊の未来位置へ向け、指先をピンと伸ばした。
「撃てぇッ!!」
ドォォォォォォォォォンッッッ!!!!
◇◇◇
天を裂く朱き槍
◇◇◇
午後3時05分。名好町市街地。
地上に身を潜めていた名好町の住民たちや防空監視員は、突如として天を揺るがした轟音に、一斉に悲鳴を上げて耳を塞いだ。
工場の高い煙突の天辺から――。
まるで巨大な神が放った雷光のように、目も眩むような朱色の閃光が、轟音とともに南の空へ向けて一直線に突き抜けていったのだ。
大気が断熱圧縮され、白熱化した十メートルの巨大なH鋼が、空気の壁を切り裂いて灼熱のプラズマの尾を引く。
まるで空に巨大な赤い線が引かれたかのような壮絶な光景に、人々は口をあんぐりと開けて立ち尽くした。
◇◇◇
同時刻。40キロ南方・塔路町沖合上空。
高度二千メートルを編隊飛行していたソ連軍第9空軍の爆撃隊は、突如として自機たちの数百メートル脇をかすめ去った「異物」に、度肝を抜かれた。
ギィィィィィィィンッッ!!
爆風と衝撃波で、双発爆撃機の巨体が木の葉のように大きく揺らされた。
パイロットが目撃したのは、炎を吹き上げながら超音速で飛び去り、雲を丸ごと消し飛ばしていった巨大な四角い鉄の棒であった。
『な……何だ今の火の玉はッ!? 隕石か!?』
『いや、北の名好方面から水平に飛んできたぞ!』
浩平の放った第一射は、敵機のわずかな変針により、惜しくも数百メートル逸れていた。
しかし、恐怖に駆られたソ連機の編隊は、とっさに操縦桿を引き絞り、高度三千、四千メートルへと急上昇を始めた。
その様子を、煙突の上の浩平は双眼鏡で見逃さなかった。
「高度を取ったな……! 上空の方が空気が薄い! 摩擦が減って、こっち中には好都合なんだよ!!」
浩平は初撃で得られた勘で照準を上方へ補正した。
一発十一万ゼニ。数十発でも現代の日本の高級車が一瞬で消し飛ぶ金額。
だが、名好と恵須取の市民の命に比べれば、端た金にも等しかった。
「第二射、三射、四射……第五射ッ!!」
ドガァン! ドガァン! ドガァン! ドガガガガァンッッ!!
煙突の先端から、四本の朱色の光条が連射された。
夜空の花火など比較にならない、大気を焼き焦がす極超音速の鉄骨の乱舞。
そして――五発目のH鋼が、編隊の中央を飛んでいたPe-2爆撃機の左主翼の付け根へ、寸分の狂いもなく直撃した。
ズバァァァッッ!!!!
九百三十キロの鋼鉄が、マッハ2の運動エネルギーをもって叩きつけられたのだ。
爆発など生ぬるい。
衝突した瞬間、Pe-2のジュラルミンの機体は、巨大な万力で押し潰された空き缶のように一瞬でペチャンコに圧壊し、無数の破片となって四散した。
『一番機が……一番機が一撃で消滅したッ!!』
『見えない! 敵が見えないぞ!!』
僚機のパイロットたちが無線で狂乱の悲鳴を上げた。
40キロも離れた場所から、肉眼では見えもしない超長距離から、一本1トンの鉄骨が機体を叩き潰しにくるのだ。第二次大戦の航空常識を完全に破壊されたソ連兵たちに、もはや戦意など残されていなかった。
煙突の上で、浩平は双眼鏡を握りしめて吠えた。
「いけた……! 当たったぞッ!!」
エンジニアの頭脳が、偏差射撃の時間さとベクトルの感覚を完全に学習していた。
浩平は逃げ惑う残る五機へ向けて、迷うことなく右手のトリガーを連射した。
八発目、九発目――そして十発目のH鋼が、逃走を図ったYak-9戦闘機の胴体を縦に真っ二つに両断し、爆炎とともに二機目を空の藻屑へと変えた。
「ヒッ……! 散開しろ! 海へ逃げろッ! 海上へ脱出するんだ!!」
残る四機のソ連機は、編隊をかなぐり捨て、激しい回避運動を繰り返しながら、間宮海峡の洋上へ向けて全力で遁走を始めた。
だが――浩平の瞳に宿った怒りの炎は、それを許さなかった。
「無辜の市民を空から撃ち殺しに来ておいて……逃げられると思うなよッ!」
浩平はわずかに体の向きを変え右手を洋上へ向けた。
海の上。地上に民間人も友軍もいない絶対の安全地帯。
フェイルセーフを気にする必要すらなくなった空間で、浩平はコンソールの安全リミッターを完全に開放した。
「連射速度、最大――秒間十発ッッ!!」
ドババババババババババババババッッ!!!!
一秒間に十本。
一秒ごとに百十万ゼニのキャッシュが音を立てて消滅していく超絶乱射。
画面のクレジット残高の数字が、毎秒百万ゼニの勢いで猛烈に減少していく。
激しい回避機動を取るソ連機に対し、40キロ彼方からの狙撃の命中率は著しく低下していた。
しかし――浩平が繰り出したのは、狙撃の技量を凌駕する「圧倒的な数の暴力」であった。
空を埋め尽くす、数十本、数百本の超音速の火の槍。
それはもはや弾丸ではなく、空を覆い尽くす巨大な鋼鉄の散弾の嵐であった。
三百発目を数えた時、激しい旋回を試みていたYak-9の主翼をH鋼が粉砕し、三機目が海へと激突した。
五百発目、猛烈な回避の末に四機目の攻撃機が胴体を消し飛ばされて四散。
そして九百発目の鉄骨の豪雨が空を焦がした瞬間、五機目の爆撃機が木っ端微塵に爆砕された。
一億円を超えるゼニを湯水のように燃やし尽くした、文字通りの蹂躙。
空に残されたのは、ただ一機――。
その最後の一機を駆るソ連空軍の若きパイロットは、僚機たちが次々と超常の鉄骨によってミンチにされていく地獄を目の当たりにし、完全に正気を失っていた。
彼は学習した。
高度を取れば取るほど、あの朱色の魔槍に狙われる。
パイロットは操縦桿を限界まで押し込み、プロペラが海面を叩いて水飛沫を巻き上げるほどの超低空飛行へと逃げ込んだ。
波頭の影に身を隠し、水平線の彼方へと全速力で這いつくばるように逃げていく。
名好の煙突の上に立つ浩平の視界からも、海岸線の丘陵と波のうねりに遮られ、敵機の姿は完全にロストした。
「……チッ。海面スレスレに逃げ込んだか」
浩平は右手を下ろし、荒い息を吐きながら双眼鏡を降ろした。
弾薬消費数、九百数十発。消し飛んだ資金は一億ゼニを超えていた。
「……まあいい。これだけ見せつければ、二度とこの空へ飛んでくる気にはならないだろう」
浩平はシステムボタンを長押しし、アバターを煙突の縁からインベントリへと回収した。
名好の青空には、真夏の太陽の光と、灼熱の鉄骨が切り裂いた白い飛行機雲の無数の直線だけが、静かに漂っていた。
◇◇◇
悪魔を見た男
◇◇◇
同日、午後3時40分。沿海州・ソ連第9空軍基地。
キィィィィィィン……と、激しい異音を立てながら、滑走路に胴体着陸同然で滑り込んできたのは、ただ一機だけ生き延びたYak-9戦闘機であった。
プロペラの先端は海水を浴びて激しく歪み、風防は塩とパイロットの冷や汗で白く曇り果てていた。
駆け寄った整備兵たちがキャノピーをこじ開けた瞬間、中から転がり出てきたパイロットは、滑走路のアスファルトに四つん這いになり、激しく胃液を吐き出した。
「お、おい! しっかりしろ! 他の五機はどうした!? 恵須取は制圧できたのか!?」
駆けつけてきた連隊長がパイロットの肩を揺さぶる。
しかし、パイロットは白目を剥き、歯をガチガチと激しく鳴らしながら、虚空を指差して狂乱の叫びを上げるだけであった。
「悪魔だ……! あれは人間じゃない! 悪魔だッ!!」
「何を言っている! 敵の高射砲か!? 迎撃機が出たのか!?」
「違う! 違うんだ!!」
パイロットは連隊長の胸ぐらに縋り付き、涙と鼻水を流しながら絶叫した。
「空から……神の槍が飛んできたんだッ!!
燃え盛る巨大な鉄の柱が……何百本も、何千本も、空を埋め尽くして飛んできたんだ!
一番機も、二番機も、掠めただけで肉片一つ残さずに消し飛んだ!
あんな場所に行けるか! あそこは……あそこは人間が飛んでいい空じゃないんだああっ!!」
男の目は完全に光を失い、恐怖で魂を砕かれていた。
二度と操縦桿を握ることのできない廃人と化したパイロットの絶叫が、真夏の沿海州の基地に、不気味な敗北の影を落としていた。
◇◇◇
死の峡谷の囁き
◇◇◇
1945年8月5日、午後3時00分。敷香郡・幌内川峡谷。北緯五十度線より北へ10キロ地点。
樺太中央部を南北に貫く幌内川は、国境付近において切り立った原生林の断崖に挟まれた、険しい渓谷を形成していた。
その両岸の緑を舐めるような超低空――高度わずか百数十メートルの谷底を、耳をつんざく爆音とともに南下する異形の怪鳥の群れがあった。
ソ連空軍の誇る四発大型爆撃機を改造した重輸送機、ツポレフ TB-3。
全幅四十メートル近い波形ジュラルミンの巨大な主翼を広げた巨鳥が、実に三十機。
各機の機内には、サブマシンガンPPSh-41を抱え、胸にパラシュートを装着した第79狙撃師団所属の精鋭空挺兵が約三十五名――総勢千名を超える大侵攻部隊が詰め込まれていた。
その前後に配された護衛のYak-9戦闘機六機。
さらに編隊の先頭、一キロ先には、古屯で起きた未知の対空兵器を警戒し、索敵を行う単発の偵察機が一機、露払いを務めていた。
「高度百五十を維持せよ。内陸の高射砲陣地からは谷影で見えん。幌内川を抜け次第、敷香の市街地後方へ一気にパラシュート降下を展開するぞ」
先導するTB-3の一番機で、編隊長を務める少佐が喉マイク越しに指示を飛ばした、まさにその時であった。
ザザッ……ガガッ……!
コクピットの大型通信機から、激しい空電ノイズを突き破って、澄み切った電子音声のようなロシア語のアナウンスが響き渡った。
『――警告。北緯五十度へ接近中のソ連軍航空機へ告ぐ。直ちに北緯五十度の越境侵攻を中止せよ。繰り返す、越境を直ちに中止せよ』
「な……ッ!?」
通信士がヘッドセットを押さえ、目を丸くした。
無線機が受信していたのは、通常の軍用短波ではなかった。
船舶の国際海難救助や不時着機の遭難通信に用いられる「2182kHz中波帯」。
戦闘機や小型偵察機はモニターすらしていないチャンネルであったが、長距離飛行を行う大型機であるTB-3の受信機には、はっきりと捉えられていたのだ。
峡谷の岩肌に電波が多重反射し、10キロ先までクリアに反響して届く警告メッセージ。
それは浩平が第一波の古屯防空戦の直後、「無用な殺生を避けるため」に、国境南側の国境線の東西帯状へ五キロ置きに設置した、太陽光パネルと大型バッテリーを備えた現代の10W無線発信機から放たれた音声であった。
『……警告に従わず国境を越えた場合、機体は例外なく即時に粉砕・撃墜される。反転し、直ちに基地へ帰還せよ。帰還する者に対しては、安全を保障する――』
完璧な発音のロシア語と英語で繰り返される無機質な合成音声。
コクピットを凍りつかせるような悪寒が、編隊長の背筋を駆け抜けた。
「しょ、少佐! どうしますか!? 敵がこちらの侵入コースを完全に先読みしています!」
「くそっ、司令部に打電だ! 『敵より越境阻止の事前通告あり。待ち伏せの公算極めて大、攻撃の一時中断を具申す』と!」
通信士が電鍵を叩き、沿海州の基地へ電文を飛ばした。
しかし、わずか一分後に返ってきた命令は、唾棄すべき冷徹な一喝であった。
『――前進せよ! 帝国主義者の欺瞞工作に怯むな! 赤軍の空挺部隊に退却の文字はない! 敷香を制圧せよ!』
名好町の空で起きた惨劇を未だ把握していない基地司令部は、前線の警告を一顧だにせず一蹴したのだ。
「前進だ……! だが、全機に無線電文の内容を転送せよ! 最大の警戒を怠るな!」
警告の存在は、直ちに短波通信によって全編隊へ伝達された。
先頭を飛ぶ偵察機のパイロットは、恐怖に顔を引きつらせながら操縦桿を握り直した。
(対空砲だ……。待ち伏せしている高射砲の陣地があるに違いない。だが、この峡谷の底スレスレを這うように飛べば、山肌が盾になって高射砲の仰角は届かないはずだ……!)
パイロットはあえて高度をさらに下げ、幌内川の水面からわずか数十メートルの谷底を、弾丸のように突っ切っていった。
前方に現れる、両岸の山がわずかに途切れる境界――北緯五十度線。
「ここを抜ければ……!」
偵察機の機首が、北緯五十度の不可視の境界線を跨いだ――その直後であった。
◇◇◇
自滅する巨鳥たち
◇◇◇
カァッッッ!!!!
音も、煙も、前触れもなかった。
水面スレスレを飛んでいた偵察機の真下十メートル――幌内川の清流の真上に忽然と現れた五百リットルの氷塊が、秒速八千五百メートルの絶対的な質量となって垂直に機体を貫通した。
全幅十メートルの機体は、まるで巨大な油圧ハンマーで粉砕されたガラス瓶のように、一瞬で無数の銀色の破片となって四散・消滅した。
◇◇◇
現代/浩平のPCコンソール:
【1945-08-05 15:03:12 : KILL 偵察機 at [50°00'01"N, 142°52'18"E] | pilots=Morozov.S | altitude=180m】
「ひぃっ……!? 一番機が……一番機が一瞬で消えたッ!!」
後続していた二機の偵察機と三機の護衛戦闘機は、前方の空中で突如として僚機が「蒸発」した光景に、完全に正気を失った。
川幅はわずか数十メートル。両脇には切り立ったエゾマツの絶壁がそびえ立ち、左右に旋回して回避するスペースなどどこにもない。
生き延びる道は、ただ一つ――操縦桿を力任せに手前へ引き絞り、垂直に近い急ピッチ角で上空の雲へと駆け上がることだけであった。
戦闘機隊は過給器を悲鳴させながら、垂直に近い角度で峡谷の空へと機首を持ち上げ、北緯五十度線のわずか数百メートル手前で宙返りを打つように反転離脱に成功した。
しかし――。
その後方に連なっていた、総重量十数トン、翼幅四十メートルの巨大な鈍重機・TB-3輸送機の編隊には、そんな曲芸飛行など到底不可能であった。
「反転しろッ! 引き起こせ!!」
「ダメだ、舵が利かん! 重すぎるッ!!」
前方の消滅劇と戦闘機の狂乱の離脱を見た三十機のTB-3編隊は、大パニックに陥った。
時速二百キロで狭い谷底へ雪崩れ込んできた爆撃機の群れに、逃げ場はなかった。
回避行動は完全にバラバラとなり、統制は崩壊した。
ある機は無理やり右の崖を飛び越えようと機首を上げ、ある機は失速の恐怖に怯えながら急旋回を試み、狭隘な峡谷の空間の中で、巨大な主翼同士が蜘蛛の巣のように交錯した。
「右だ! 右へ避けろッ!!」
「前を見ろ! 貴様、ぶつか――」
ズドォォォォォォンッッ!!!!
旋回半径の足りない二機のTB-3が、引き起こし角を稼ぎきれず、時速二百キロの運動エネルギーのまま幌内川東岸の急峻な断崖絶壁へと真正面から激突した。
主翼の燃料タンクが炸裂し、巨大な火柱が渓谷の原生林を焼き焦がす。
さらにその直後――。
急激な機首上げによって揚力を失い、失速スピンに陥った一番機のTB-3の胴体に、後続の二番機が斜め上から猛スピードで覆いかぶさるように激突した。
絡み合った二機の巨体が、さらに左右から回避しようとしていた三番機と四番機の主翼を巻き込み、四機のTB-3が空中でスクラップの塊となって圧壊した。
バリバリバリッ! ドガガガガァンッッ!!
四散するプロペラ。千切れる主翼。
機内に満載されていた二百名以上の完全装備の空挺兵たちは、パラシュートを開く隙すら与えられないまま、火だるまとなった鋼鉄の棺桶とともに、百メートルの高さから幌内川の岩場へと真っ逆さまに叩きつけられた。
轟音と黒煙が、北緯五十度の北側の谷を埋め尽くした。
それは浩平の放った氷塊による自動撃墜ではなかった。
圧倒的な超常の恐怖に呑まれ、閉ざされた地形の中で引き起こされた、完全なる自滅の惨劇であった。
空に残された二十四機のTB-3と五機の護衛機は、炎上する谷底を見下ろし、もはや隊列を維持することすら忘れ、狼狽しながら北の空へと散り散りに逃げ去っていった。
◇◇◇
ソ連空軍基地の反乱
◇◇◇
午後3時30分。沿海州・ソ連第9空軍基地司令部。
「……何だと!? 幌内川で六機が失われ、二百名以上の空挺隊員が全滅しただと!?」
司令官のデスクに叩きつけられた報告書に、基地司令の顔は土気色を通り越して白蝋化していた。
そこへ、追い打ちをかけるようにハバロフスクの極東軍総司令部からの赤電話がけたたましく鳴り響いた。受話器の向こうから、軍参謀長の怒号が炸裂する。
『貴官は何をやっている! なぜ空挺降下が成功せん! 直ちに第二波のTB-3を再編し、出撃させろ!』
基地司令は受話器を握りしめ、かつてないほどの激昂で怒鳴り返した。
「参謀長同志! もはや狂気の沙汰です! 敵の防空網は渓谷の超低空まで完全にカバーされており、事前に2182キロヘルツで警告放送まで流されていました!
現場はパニックを起こし、我が軍の誇るTB-3輸送機六機が自滅衝突で失われたのです! これ以上の突入は、貴重な大型機と精鋭部隊をドブに捨てるだけの無駄死にです!!」
『貴様、抗命罪で銃殺されたいのかッ!?』
「銃殺なら受けて立つ! だが、飛ばす飛行機もパイロットもいなくなれば、サハリンどころか極東全体の防空が崩壊しますぞ!!」
現場指揮官の必死の抵抗と、損害のあまりの甚大さに、電話の向こうの参謀長も言葉を詰まらせた。
やがて、苦々しい溜息とともに冷酷な声が落ちた。
『……よかろう。空挺降下作戦および樺太への空襲は、一時的に見合わせる。……後日、貴官の責任は軍事法廷で追及するぞ』
電話が切れた作戦室に、重苦しい沈黙が落ちた。
だが、基地を揺るがす真の動揺は、その直後に訪れた。
先ほど間宮海峡の西海岸――塔路・恵須取方面から、ただ一機だけ海面スレスレを這うようにして生還したYak-9戦闘機のパイロット。
胃液を吐き散らし、「空から燃える鉄の槍が飛んできた」と狂乱して精神崩壊を起こしたあの男の証言が、瞬く間に基地の全搭乗員宿舎へと燃え広がっていたのだ。
「おい、聞いたか……? 西海岸へ向かった編隊は、遠く先から飛んできた巨大な鉄の槍に叩き潰されたそうだ……」
「幌内川でも、国境を跨いだ瞬間に飛行機が一瞬で消えたらしい……」
「神の怒りだ……。あんな空へ行ったら、撃ち落とされるんじゃない、消滅させられるんだ……!」
ブリーフィング室に集められた百名を超えるパイロットたちの目は、恐怖と反骨で血走っていた。
そこへ入ってきた飛行隊隊長が口を開く前に、先任飛行士の古参大尉が立ち上がり、拳を机に叩きつけた。
「隊長! 我らはファシストとの戦いなら、命を捨てる覚悟で飛んできた!
だが……空から鉄の槍が降ってきて、見えない何かで消し飛ばされるような化け物相手に、犬死にしに行く気は毛頭ない!
出撃命令が出るなら、我々全員をここで銃殺しろ! 俺たちは、二度とサハリンの空へは飛ばん!!」
「そうだ! 出撃拒否だッ!!」
怒号と悲鳴がブリーフィング室を揺るがした。
赤軍の鉄の規律すら瓦解させるほどの絶対的な恐怖が、極東の航空戦力を完全に麻痺させていた。
◇◇◇
観察者の静観
◇◇◇
午後3時15分。現代/浩平の自室。
名好町の煙突の上からアバターを回収し、自室のデスクに戻っていた浩平は、PCモニターのログ画面を凝視したまま、小さく眉をひそめていた。
【1945-08-05 15:03:12 : KILL 偵察機 at [50°00'01"N, 142°52'18"E] | pilots=Morozov.S | altitude=180m】
「……ん? 幌内川の峡谷で、偵察機が一機だけ落ちてるな」
浩平はマウスを操作し、古屯主陣地の望楼に設置した高倍率ネットワークカメラを北東方向へパンさせた。
国境線の彼方――幌内川の峡谷の奥、北緯五十度線より数キロ北のソ連側領内の上空から、数筋の不穏な黒煙が立ち上っているのが確認できた。
(偵察機を一機迎撃した直後、後続の機影が一気に消えた……。撃墜ログは一機分しか出てない。ってことは……)
浩平はコンソールの地形データと機影の消失軌跡を照らし合わせ、何が起きたのかを瞬時に理解した。
「……パニックを起こして、狭い谷の中で同士討ちか崖に激突したのか」
大型機の編隊が、逃げ場のない峡谷で急旋回を試みればどうなるか。
自滅した機体の中にいたであろうパイロットや兵士たちの凄惨な光景が、頭裏をよぎる。
一瞬、胸の奥にざらりとした後味の悪さが広がった。
だが、浩平の表情はすぐに元の冷徹なエンジニアのものへと戻った。
「……俺は事前に、2182キロヘルツの国際緊急チャンネルで警告放送を流した。引き返せば撃たないと、はっきり伝えたはずだ」
浩平は静かにコーヒーのマグカップを口元へ運んだ。
「それを無視して、爆弾と機関銃を抱えて越境しようとしたんだ。自業自得だ。それに……落ちた場所は北緯五十度の北側、完全にソ連の領内だ。俺がわざわざアバターで越境して敵国の兵士を救助してやる義理なんてどこにもない」
情けをかけて手心を加えれば、その隙を突かれて味方が死ぬ。
先ほど内恵道路でちひろが危険に晒された教訓は、浩平の魂に深く刻み込まれていた。
「これで……北からの空のルートも完全に塞がったはずだ」
モニターの中、オホーツクの青空へ立ち上る黒煙を見つめながら、浩平は次のフェーズ――西海岸の要衝、恵須取と真岡の防衛体制の確立へ向けて、迷うことなく思考を切り替えた。
【現在のクレジット残額:3,935,449,230ゼニ [new]H鋼弾薬消費で1億ゼニ使用】
【ゲーム内で関わった人数:約673,000人 [new]爆撃阻止で沿線町民の潜在的救助+2000人】
お待たせしました
この日(1945/8/5)の樺太防衛はこれで一応おしまいです、ソ連揚陸艦は来るまでもう少し時間がかかります
次回は本土の話に戻ります




