1945年8月5日 虚空の輜重
この作品はフィクションです、実在の人物や団体などとは関係ありません
◇◇◇
北海館の朝
◇◇◇
1945年8月5日、午前7時50分。樺太・敷香町。
東京第一陸軍造兵廠での軽・中型兵器および膨大な弾薬の回収を終えた浩平は、自室のモニター越しに相模陸軍造兵廠へと視点を移した。
畑俊六元帥は午前8時前に現地へ到着していたが、重戦車や自走砲、大口径野砲といった特大の兵器を動かすには、軍令部や陸軍省の複雑な指揮系統が絡み、畑元帥単独の威光だけでは現場が硬直しかねない。十条の回収を終えた阿南陸相が合流するまで、本格的な搬出には今少し時間がかかる見込みであった。
(畑オヤジの方に重火器を任せるとして……今、一番切迫しているのは樺太だ)
浩平はすぐさまFPVカメラの視点を北緯四十九度の北端、オホーツク海に面した敷香町へと切り替えた。
旅館「北海館」の一室では、橘誠一郎とちひろが朝食を終え、身支度を整えていた。
昨夜の気まずさや涙は消え去り、二人の間には命を預け合った者同士の静かな覚悟が漂っている。これから町役場へ向かい、頑固な現場指揮官である小林大佐と再度の防衛交渉に臨む手はずとなっていた。
二人が部屋の引き戸に手をかけようとした、その瞬間であった。
ピロリン……!
誠一郎の懐から、新型タブレットの澄んだ電子音が鳴り響いた。
同時に、畳の上の座卓に、淡い光の収束とともに二十枚ほどの真新しい厚手の紙束がバサリと出現した。
「……っ!? 監視者殿からか!」
誠一郎が慌てて画面を開くと、浩平からのなメッセージが目に飛び込んできた。
『誠一郎へ
とりあえず十条の造兵廠から、軽・中型の歩兵兵器を大量に入手してきた。
重兵器(戦車や大砲)は昼前までになんとかする。
以下が回収した兵器リストだ。
あわせて、種類・数量を記入できる空白の引換手形を20枚ほど転送した。
どの町にどれほどの量を残すかは、現場のあなたの判断に任せる。
これらの兵器は街中でのソ連歩兵の浸透を阻止するための自衛装備であり、
前線の古屯陣地に配備すべき重火器は別で送る。
――監視者 浩平
【兵器リスト】
・九九式短小銃: 2,500挺
・九九式軽機関銃: 180挺
・九二式重機関銃: 60挺
・各種小銃・機関銃実包(木箱入り): 約1,200,000発
・九九式手榴弾: 40,000発
・九七式八一粍曲射歩兵砲(迫撃砲)および砲弾: 砲24門 / 榴弾8,000発
・一式二八粍擲弾筒および擲弾: 300門 / 15,000発』
「お兄ちゃん? 今の音は……監視者様から?」
ちひろが目を丸くして駆け寄ってきた。
画面に並ぶ数字を見下ろした誠一郎の背筋が、武者震いに震えた。
数個大隊を完全に再武装させ、弾薬の心配なく持久戦を戦い抜けるだけの、正真正銘の「軍需物資の山」であった。
「……かたじけない、監視者殿。これほどの火器を、こんなわずかな時間で揃えてくださるとは……」
誠一郎は深く息を吸い込み、思考を巡らせた。
昨日、小林大佐は「食糧や油はありがたいが、兵器のない男に何ができる」と怒鳴り散らしていた。前線の部隊にとって、喉から手が出るほど欲しいのは白米以上に「敵を撃ち倒す弾薬」なのだ。
(だが……これらの軽中型火器が必要なのは、この敷香だけではないはずだ)
誠一郎は地図を脳裏に広げた。
ソ連が侵攻してきた場合、北緯五十度の国境を突破して南下してくる本隊のほか、西海岸の要衝である恵須取、そして海からの強襲上陸が危惧される真岡、さらには中枢の豊原や大泊……。後方の都市であっても、ソ連の海上陸戦隊や空挺兵が浸透してくれば、武器を持たない警察や警防団は一方的に蹂躙される。
「ちひろ。この兵器、三等分にする」
「えっ? 三等分?」
「ああ。三分の一をここ敷香の街中防衛に。もう三分の一を、お前が向かう西海岸の恵須取に。そして残る三分の一は、真岡の防衛部隊へと振り分ける」
誠一郎は鉛筆を走らせ、ちひろへ向けて一枚の手形を手渡した。
「よく聞きなさい、ちひろ。これは昨日までの米や砂糖といった食べ物の手形ではない。人を殺傷するための、本物の『火薬と銃』だ」
誠一郎の鋭い眼差しに、ちひろは背筋を正した。
「これを目の前でいきなり出せば、現地の軍人や警察の偉い者は、驚愕のあまり激しく取り乱し、最悪の場合はお前をスパイや危険人物と見なして拘束しかねない。……だから、この手形を使って兵器を出すのは、相手が完全に信頼でき、安全が確保された場合のみにしなさい」
「う、うん……」
「もし少しでも不穏な気配や危険を感じたら、絶対に無理をして手形を使ってはいけない。その時はタブレットで浩平殿にお願いして、お前がその場を離れた後、誰もいない倉庫へ勝手に山積みしてもらうよう手配すればいい。……お前の命が何よりも最優先だ。分かったな?」
「はい! 約束するわ、お兄ちゃん!」
ちひろは手形を大切そうに懐へと仕舞い込んだ。
◇◇◇
虚空の輜重
◇◇◇
午前8時20分。敷香町役場・応接室。
予定より二十分ほど遅れて役場に足を踏み入れた誠一郎とちひろを待ち構えていたのは、腕組みをして苛立たしげに貧乏揺すりをしていた小林与喜三連隊長であった。
小林大佐はぎろりと二人を睨みつけ、嫌味たっぷりに口角を吊り上げた。
「ほう。大本営のエリート少佐殿は、新妻との朝のお戯れが随分と長引いたようですな。前線がいつ火の海になるかも分からんという時に、優雅なご出勤で結構な身分だ」
棘のある言葉であったが、誠一郎は眉毛一つ動かさず、直立不動のまま返した。
「遅参した非礼はお詫び申し上げます。しかし、遅れたのは妻のためではありません。天の監視者殿より、兵器および弾薬の緊急補充に関する電信を受け取っていたためであります」
「何だと?」
小林大佐は鼻を鳴らし、嘲るように吐き捨てた。
「橘少佐。昨日届いた米や砂糖、それにトラック用の燃料については、我が連隊の窮状を救うものであり、感謝に堪えん。……だがな! あの十五両の貨物列車の中に、小銃一挺、銃弾一発たりとも積まれていなかったのは厳然たる事実だ! 物資をいくら積もうが、兵器が湧いて出るわけでもあるまい! 今さら大本営の口先だけの輜重約束など、何の気休めにもならんわ!」
現場の焦燥を知るからこその怒声。
誠一郎はその怒りを静かに受け止め、低い、確信に満ちた声で告げた。
「小林連隊長閣下。……私はこれから、尋常ならざる方法にて兵器と弾薬を取り出します」
「……は?」
「我らは本日の正午までに、北緯五十度線直下の古屯主陣地へ到着せねばなりません。時間は一分たりとも惜しい。……至急、町役場周辺の『誰もいない大型倉庫』へご案内願いたい」
誠一郎の尋常ならざる迫力と、その背後で真剣な面持ちで控えるちひろの眼差しに気圧され、小林大佐は呆気にとられた。
「な……何を馬鹿なことを……。だが、そこまで大言壮語を吐くなら見せてもらおうではないか! 付いてこい!」
ちひろもまた、自らが恵須取で同じ役割を果たすための見習いとして、誠一郎の背にぴったりと寄り添い、同行した。
◇◇◇
案内されたのは、役場の裏手に建つ、かつて紙パルプ用の資材を保管していた広大な木造の白壁倉庫であった。
中には塵一つ落ちておらず、薄暗い空間にオホーツクの潮風が吹き抜けている。
「ここなら誰も居らん! 貴殿の言う『尋常ならざる方法』とやらを拝見しようではないか!」
小林大佐が腕を組み、疑いの目で誠一郎を睨みつけた。
誠一郎は無言のまま、懐から二枚複写の『新型引換手形』を取り出した。
これは浩平がゲームのコンソールで走らせている転送スクリプトに直結した特殊アイテムであった。表面には品名と数量、そして固有識別子(UUID)の前半が印字されており、裏面には暗号化された認証コード(UUIDの後半部)が記されている。
誠一郎は鉛筆を走らせ、敷香防衛用として三分の一に割り振った数量を素早く書き込んだ。
九九式短小銃: 800挺
九九式軽機関銃: 60挺
九二式重機関銃: 20挺
小銃・機関銃実包: 400,000発(木箱1,600箱)
九九式手榴弾: 13,000発
九七式曲射歩兵砲および榴弾: 砲8門 / 2,600発
一式擲弾筒および擲弾: 100門 / 5,000発
「ちひろ、よく見ておきなさい。この暗号文を、本体の認証枠に書き写すんだ」
「はい……!」
ちひろが息を呑んで見つめる中、誠一郎は裏面の暗号文字列を、手形右上の枠内へ最後の一字まで精密に書き写した。
カチリ……ッ。
UUIDが完全に合致した瞬間、手形の紙面が青白いリン光を放った。
現代の浩平のゲームコンソールで自動実行スクリプトがトリガーされ、インベントリに保管されていた十条造兵廠の火器群が、座標を指定されて敷香の空間へと一斉放出された。
ズババババババババッッ!!!!
「なっ……な、何だッ!?」
小林大佐が悲鳴を上げて飛び退いた。
何もない倉庫のコンクリート床の上に、眩い光の嵐が吹き荒れた。
そして光が弾け飛んだ次の瞬間――。
ドサササササッ! ガタタタンッ!!
立ち込める防錆油の匂い。
倉庫の天井に届かんばかりに現れたのは、整然と積み上げられた頑丈な弾薬木箱の山、山、山。
その前には、木枠に収められた新品の九九式短小銃数百挺が冷たい鉄の光を反射し、漆黒の九二式重機関銃の三脚と、真新しい曲射歩兵砲の砲身が、まるで城壁のように居並んでいた。
「ば……馬鹿な……ッ!? こ、これは……!?」
小林大佐は腰を抜かしかけ、足をもつれさせながら小銃の木枠へすがりついた。
震える指先で一挺の銃身を掴み上げる。
菊花紋章が鮮やかに刻印された、油の滴る正真正銘の新品――陸軍が誇る主力小銃『九九式短小銃』であった。弾薬箱の封印を力任せに引き裂くと、中からは飴色に輝く七・七ミリ実包がぎっしりと顔を覗かせた。
「あり得ん……! あり得んぞこんなこと! 幻か!? 狐狸の化かしか!? 一体どこから持ってきたのだッ!」
取り乱して喚く小林大佐に、誠一郎は軍刀の鞘を鳴らし、怜悧な眼差しを向けた。
「だから申し上げたはずです、小林連隊長。これはすべて、陛下をお支えする天の監視者・浩平殿が、帝都の造兵廠より直接転送された本物の兵器です! 信じられないと仰るならば、今すぐ豊原の第88師団司令部へ打電し、峯木中将閣下に確認を取られればよろしい!」
「み、峯木閣下が……これを承認しておられると……!?」
「閣下からいただいた全権委任状をお見せしたはずです。我らの背後には、神仏にも等しい監視者殿の御意志がある! ……これだけの兵器があれば、敷香の街は守れますね!?」
誠一郎の気迫に満ちた一喝に、小林大佐は唾を飲み込み、圧倒的な現実の重みの前で、恐怖と歓喜の入り混じった脂汗を流した。
理屈では到底呑み込めない。
だが、目の前に現れた数百挺の銃と四十万発の弾薬は、血の通った紛れもない本物なのだ。これさえあれば、丸腰同然だった敷香の防衛隊は、一瞬にして一個連隊並みの重武装を誇る鉄壁の部隊へと変貌する。
小林大佐は軍帽を脱ぎ、激しく乱れる呼吸を整えながら、拳を固く握りしめた。
「……呑もう。貴殿の力を、監視者とやらの奇蹟を、認めざるを得ん! ……すまなかった、橘少佐! 貴殿をただの世間知らずと侮った我が非礼を、深く詫びる!」
叩き上げの連隊長が、深く頭を下げた瞬間であった。
◇◇◇
別れの抱擁
◇◇◇
「詫びなど不要です、大佐閣下。我らはただ、同胞を赤軍の魔の手から守りたいだけなのですから」
誠一郎は静かに微笑み、懐中時計を確認した。
午前8時40分。一刻の猶予もない。
「小林大佐。もう時間がありません。私はこれから、予定通り北緯五十度線の古屯陣地へ向かいます。……そして、妻のちひろを、西海岸の恵須取へと送り届けていただきたい」
誠一郎の言葉に、小林大佐は即座に直立不動の姿勢を取った。
目の前で起きた「奇蹟」の手順を見た今、大佐には理解できていた。この華奢な若妻が懐に忍ばせている紙片一枚が、西海岸の防衛部隊にとっていかに決定的な命綱であるかを。
「任せていただこう! 庁営バスなどという鈍足な民間車両には乗せん! 我が連隊の指揮連絡用くろがね四起(軍用車)に、最も信頼できるベテランの護衛兵を付けて、内恵道路を飛ばして恵須取まで責任を持ってお送りする!」
「感謝いたします」
誠一郎は頷き、隣で唇を噛みしめて立っていたちひろに向き直った。
「ちひろ」
「……旦那様」
「先ほどの兵器の出し方、しかと目に焼き付けただろう。暗号を書き写せば、すぐに物資が現れる。だが……あれは決して、軽々しく人前で見せていいものではない。恵須取へ着いたら、連隊長の紹介する信の置ける指揮官にだけ手形を、安全を確認してから行いなさい」
ちひろの瞳に、再び涙が溢れそうになった。
だが、ちひろはもう子供のように泣き喚くことはしなかった。昨夜、おでこに貰った誓いの口づけの温もりが、今もちひろの胸の奥で力強く灯っていたからだ。
「うん……分かってる。旦那様に恥じないように、私、しっかりお役目を果たすわ」
ちひろは一歩踏み出し、両手を広げた。
「旦那様……行ってきますの抱擁を」
小林大佐や護衛兵がすぐ後ろで見守っていたが、誠一郎はもう迷わなかった。
誠一郎は力強い腕で、ちひろの華奢な身体を正面からしっかりと抱きしめた。
「必ず……必ず生きて、敷香でまた会おう。タブレットで毎日連絡を入れる」
「うん……! 旦那様も、絶対に無茶はしないでね……!」
二人は数秒間、互いの体温と命の鼓動を確かめ合うように抱き合い、そして名残惜しそうに腕を解いた。
ちひろは涙を拭い、小林大佐の部下が運転する砂煙を上げた軍用車の後部座席へと乗り込んでいった。
窓から手を振るちひろを、誠一郎は微動だにせず、車が見えなくなるまで見送り続けた。
◇◇◇
午前9時00分。敷香駅・軍用側線
ボォォォォォッ!!
重連蒸気機関車の長い汽笛が、敷香のツンドラの空に鳴り響いた。
側線には、残る約百トンの精米、上白糖、そして軽油・ガソリンのドラム缶を満載した臨時補給列車が煙を上げて待機していた。
誠一郎と小林大佐、そして連隊の参謀や護衛兵たち十数名が、連結された最後尾の客車へと足を踏み入れた。
「出発進行ッ!」
ガシャン、ゴトトンと連結器が軋み、鉄の車輪が力強く回転を始める。
目指すは、樺太鉄道の北方現行終点である気屯駅。
そしてその先――北緯五十度線の国境と、赤軍の大軍が牙を研ぐ最前線・古屯主陣地。
列車が加速していく中、誠一郎は窓の外を流れるどこまでも平坦な幌内川の湿原を見つめながら、内ポケットのタブレットをそっと握りしめた。
(浩平殿……。私は今から、最前線へと向かいます。どうか、帝都の重火器を……あのツンドラの泥の中にいる兵たちへ届けてやってください)
北の果ての凍てつく大地に、運命の砲声が響き渡るまで、あと――数時間。
敷香を出撃した鉄の巨龍は、冷たい風を切り裂きながら、一直線に北の地平線へと向けて突き進んでいった。
◇◇◇
誠一郎の胸騒ぎ
◇◇◇
1945年8月5日、午前9時30分。樺太東線・上敷香駅。
敷香駅から北方の現行終点・気屯駅に至る樺太東線の営業距離は、73.4キロメートル。
豊原から物資を満載して鈍足で登ってきた十五両の長大編成とは異なり、いま敷香を出撃した臨時列車は、蒸気機関車に牽引された木造有蓋貨車四両と、最後尾に連結された客車一両の、身軽な五両編成であった。
乾燥した泥炭地とエゾマツの原生林を切り裂くように、列車は時速六十キロの快足で単線を北上。敷香を出てからわずか二十五分で、約二十二キロ北に位置する前線補給基地・上敷香駅の構内へと滑り込んだ。
上敷香駅の側線では、搭載してきた物資のうち、現地の守備隊と住民のための約五十トン(精米、砂糖、ドラム缶燃料)を下ろすための荷役作業が慌ただしく始まっていた。
停車時間は約二十分。この後、列車は再び速度を上げ、午前10時40分頃には終点の気屯駅へと到着する予定であった。そこから先は軍用車両へと乗り換え、正午前に北緯五十度線直下の古屯主陣地へと乗り込む算段である。
豊原から敷香までの四時間を思えば、ほんの短い移動に過ぎない。
しかし、客車の木製ボックス席に座る橘誠一郎は、手元の軍刀の柄を何度も握り直しては窓の外を眺め、落ち着かない様子を隠せずにいた。
これまで常に隣に寄り添い、無邪気な笑顔を見せていた妹・ちひろが、隣にいない。
その事実だけで、誠一郎の胸の奥には鉛を呑み込んだような重苦しい焦燥感が渦巻いていた。
誠一郎は向かいに座る小林与喜三連隊長へ、たまらず身を乗り出した。
「……小林閣下。妻のちひろは……本当に無事に恵須取へ辿り着けるでしょうか」
小林大佐は煙草に火をつけようとして手を止め、怪訝そうに誠一郎を見た。
「……何か心配でもあるのか、橘少佐」
「あ、いえ……妻を乗せた軍用車の運転兵や、西海岸の防衛責任者である恵須取の富澤健三大佐殿は、誠に信の置ける人物なのでしょうか。ちひろはああ見えて世間知らずの娘です。もし途中で不逞の輩に巻き込まれたり、軍の過激派に誰何されたりしては……」
血の繋がった妹を一人、見知らぬ軍人の手に預けて危険地帯へ送り出した兄の苦悩。
普段の沈着冷静な参謀ぶりからは想像もつかない誠一郎の狼狽ぶりに、小林大佐はふっと口元を緩め、吹き出した紫煙とともに肩を竦めた。
「ハハッ、天下の大本営参謀ともあろう男が、女房一人を送り出しただけでそこまで取り乱すとはな。先ほどの威風堂々たる気迫はどこへ消えたのだ」
小林大佐は誠一郎の肩をトンと叩き、安心させるように頷いた。
「案ずるな。ハンドルを握らせたのは、我が連隊で最も運転が巧く、腕っ節の立つ実直な古参軍曹だ。内恵道路は山越えの悪路だが、奴なら転覆もさせん。それに恵須取の富澤大佐は、私とは士官学校同期の気骨ある男だ。女子供に理不尽な危害を加えるような下劣な将校ではない」
小林大佐は真顔になり、声を潜めた。
「それに……奥方には、あの天の監視者殿から預かった守りがあるのだろう? 貴殿が心配せずとも、神仏のご加護がついておる。貴殿が今案ずべきは、これから向かう古屯のツンドラと、赤軍の砲口だぞ」
「……失礼いたしました。小林閣下の仰る通りです」
誠一郎は深く息を吐き、自らの額を軽く叩いた。
(しっかりしろ、誠一郎。ちひろは浩平殿の絶対の防護のもとにある。俺がここで動揺してどうする)
◇◇◇
相模原の元帥と鋼鉄の波
◇◇◇
午前9時35分。神奈川県・相模陸軍造兵廠。
一方、現代の自室でPCモニターを凝視していた浩平は、タイムリミットとの熾烈な戦いを繰り広げていた。
「誠一郎は上敷香。ちひろは恵須取へ向かう内恵道路を走行中……。正午の玉音放送まで、あと二時間半しかない!」
浩平がちひろを西海岸の恵須取へ派遣したのには、食糧や兵器の配給という人道的な名目以上の、決定的な戦略目標があった。
ゲームの仕様上、キーパーソンであるちひろが西海岸へ到達することで、樺太西海岸全域の『マップ解放』がトリガーされる。それにより、浩平はインベントリの防空迎撃スクリプトを展開して「樺太全域を覆う絶対防空圏」を確立し、さらに北緯五十度の国境線上に防衛工事スクリプトを走らせることが可能になるのだ。
(そのためには、まず古屯の前線部隊に、ソ連のT-34戦車を押し返せるだけの『本物の重火器』を叩き込んでおかなきゃならない……!)
浩平は相模陸軍造兵廠に展開しているFPVカメラへと視点を切り替えた。
画面を見た瞬間、浩平は思わず息を呑んだ。
「……すげえ。畑オヤジ、本当に全部並べさせちまったのか……!」
広大な造兵廠の舗装試験場に、地響きを立てるような威容で並べられていたのは、数十両に及ぶ戦闘車輌の群れであった。
九七式中戦車(チハ改): 47mm戦車砲を搭載した日本陸軍の主力戦車
三式中戦車: 本土決戦用に温存されていた、長砲身75mm野砲を備える最新鋭中戦車
九八式六屯牽引車(ロケ / ロレ): 全装軌式の砲兵牽引車
牽引車に連結された野砲・高射砲・対戦車砲群、および膨大な弾薬木箱
畑俊六元帥は、法的な「最終搬出権限」こそ持っていなかった。
しかし、陛下の信任厚い元帥陸軍大将であり、元陸軍大臣、元教育総監、元支那派遣軍総司令官という、帝国陸軍における最高峰の軍歴と威厳を余すところなく発揮したのだ。
『本土決戦に向けた防衛車輌の最終稼働状態を、元帥たるわしが直々に親閲査閲する! 直ちに広場へ全完成車輌を実弾装填可能状態で引き出せ! 統帥の乱れは断じて許さん!』
その一声により、所轄の陸軍兵器行政本部や造兵廠の幹部たちは、上層部の正式な書類手続きを待つことすら許されず、震え上がりながら車輌を広場へ引きずり出さざるを得なかったのだ。
浩平は舌を巻きつつ、阿南陸相の所持する新型タブレットへメッセージを叩き込んだ。
『阿南陸相へ
東京第一陸軍造兵廠から回収した軽・中型火器弾薬は、誠一郎の手によって
敷香の警備隊へ一部引き渡しを完了しました。残りは豊原の峯木中将経由で真岡へ、
そして誠一郎の妻・ちひろによって恵須取へ送られ、配備される手筈です。
ですが、今日の正午――玉音放送が流れた直後、ソ連赤軍は即座に大部隊と爆撃機を
越境させ、既成事実を作るための全面侵攻を開始する可能性が極めて高い。
重火器の扱いの習熟を考えても、一刻も早く相模の車輌を前線へ届けねばなりません。
相模の現場責任者と腹の探り合いをする時間すら惜しい。
畑元帥の采配により、戦車や野砲はすでに広場に陳列されています。
阿南陸相が到着され次第、速やかに回収できるよう取り計らってください。
私は陸相が車から降りられる直前に合流します。
――監視者 浩平』
数秒後、阿南陸相から重厚な音声通信が返ってきた。
『……監視者殿の切迫した懸念、しかと呑み込んだ。民間人であるはずの誠一郎君の奥方にまで国家の重責を背負わせること、軍の責任者として真に申し訳なく、かたじけない思いだ……。だが、監視者殿の深き深慮があってのことゆえ、小職は一切口を挟まん。目の前の相模の説得は、陸軍大臣たる我が職責だ。任せておけ』
◇◇◇
午前9時50分。神奈川県高座郡・相模陸軍造兵廠・正門前。
砂煙を巻き上げて疾走してきた阿南陸相の黒塗り軍用車(くろがね四起)が、厳重な歩哨線の手前で大きく減速した、その時であった。
フッ……!
車内の空気が一瞬だけ真空になったかのように軋み、後部座席――阿南陸相の真横、空いていた左側の革張りの座席の上に、青白い光とともに『深緑の将官服を着た黒縁メガネの青年』が音もなく実体化した。
「うおっ!?」
歴戦の阿南陸相も、密閉された車内の至近距離に人間が忽然と湧き出たことには、流石に目を剥いて軍刀の鞘を跳ね上げた。
「あ、阿南陸相……驚かせてすみません。浩平です。どうぞ、よろしくお願いいたします」
現実世界でHMDを被った浩平が、車内の狭いポリゴンに頭をぶつけないよう慎重に身を縮こまらせて会釈した。
阿南は乱れた呼吸を整え、額の汗を拭いながら、豪快に苦笑いを浮かべた。
「ふう……! いくら覚悟しておっても、心臓に悪い。……よし、着いたぞ。浩平殿、我が背後に続け」
軍用車は正門の歩哨を突破し、広大な敷地を抜けて、戦車が居並ぶ試験広場の前へと滑り込んだ。
車から降り立った阿南陸相と浩平のアバターを出迎えたのは、直立不動で敬礼を捧げる三名の将校であった。
仁王立ちで白い眉を揺らす畑俊六元帥。
その後ろに控えるのは、相模陸軍造兵廠工場長の土岐一彦陸軍少将と、戦車製造の中枢を担う第1製造所長の佐藤大佐であった。
阿南陸相は軍帽の鍔に手を当て、即座に口火を切った。
「畑元帥閣下、お待たせいたしました! ……土岐少将、佐藤大佐。諸君も噂には聞いておろう。我が隣におわすこの御方こそが、陛下と帝国を陰より救わんとする天の監視者・浩平殿である!」
土岐少将と佐藤大佐の視線が、阿南の背後に立つ浩平へと注がれた。
(……な、なんだこの男は……?)
土岐少将の目が、あからさまな不審と警戒に細められた。
着用しているのは、間違いなく陸軍中将クラスの特注軍服。しかし襟元には階級章がなく、何よりその風貌が異様であった。無造作なボサボサの髪、黒縁の眼鏡、そして軍人の気概や殺気をこれっぽっちも感じさせない、猫背気味の細身の佇まい。
土岐少将が口を開きかけた瞬間、隣にいた畑元帥が、浩平の顔をしげしげと見つめて声を上げて笑い出した。
「ハッハッハ! なるほど……なるほどなあ! だから浩平殿は、文面でわしのことを『オヤジ』などと呼んできたわけだ! どう見ても我が息子どころか、孫のような年の頃ではないか! 年の功というやつだな、ハハハ!」
浩平はいたたまれなさに頬を染めながら、小さく頭を下げた。
畑元帥の豪胆な笑いで場の空気がわずかに緩んだが、阿南陸相の表情は一瞬で鋼の厳しさに戻った。
「土岐少将、佐藤大佐。単刀直入に告げる。本日正午十二時、大元帥陛下によるポツダム宣言受諾の玉音放送が全国へ流される」
「な……ッ!?」
土岐少将と佐藤大佐の顔から血の気が引いた。
「そして――その講和の隙を突き、ソ連赤軍が北緯五十度線を越えて南樺太へ侵略してくることが、監視者殿の未来情報により完全に判明しておる! 現地の守備隊には、赤軍の重戦車を阻む火力がない。ここに並ぶ戦車、野砲、牽引車のすべてを、樺太防衛のために供出してもらう!」
土岐少将は愕然としながらも、技術畑の将校としての冷静な疑問を露わにし、眉を跳ね上げた。
「か、閣下! 樺太の同胞の危機、しかと理解いたしました! ……しかし、距離はあまりにも遠すぎます! 津軽海峡も宗谷海峡も、すでに敵の潜水艦が遊弋しているとの噂すらあるこの時に……この相模原にある何十台もの鈍重な戦車や重砲を、一体どうやって北の果ての樺太前線まで運ぶというのですか!? 船も貨車もないではありませんか!」
阿南陸相は一歩踏み出し、土岐少将を威圧するように軍刀の鐺を地面に叩きつけた。
「ここ数日、帝都の街に忽然と溢れ返った何十万食もの純白の精米や物資の噂を、貴官とて耳にしておろう! あれを天より降らせたのが、この浩平殿なのだ!
何もない虚空から物資を出せるのであれば、ここにある兵器を虚空へ預かり、一瞬で海を越えて樺太へ送り届けることも、浩平殿の神技をもってすれば造作もないことなのだ!
……陸軍大臣たる我が権限において命ずる! 広場にある全車輌、火砲、弾薬の管理権を、今この瞬間をもって監視者・浩平殿へ一時委託する! これでよいな、土岐少将!?」
「な……っ!? 一瞬で……海を越えて運ぶ……!?」
土岐少将と佐藤大佐は、あまりにも常軌を逸した命令に目を白黒させ、言葉を失った。
目の前に現れた謎の青年が、数十トンの鋼鉄の塊を神隠しのように消し去り、遠くオホーツクの彼方へ届けるというのか。到底信じられるはずもなかった。
しかし、陸軍大臣と元帥が揃って眼前に仁王立ちし、それを命じているのだ。拒絶の余地など欠片もなかった。
「しょ……承知、いたしました……。陸相閣下の命とあらば、全車輌の引き渡しを承認いたします……」
土岐少将が震える声で敬礼を返した。
◇◇◇
次元を超える運び屋のお仕事
◇◇◇
「ありがとうございます。では……お預かりします」
浩平のアバターが静かに前へ進み出た。
現実世界の浩平は、右手のコントローラーで【世界の品物の一時収納機能】のレーザーポインターを起動した。
浩平は広場の最前列に並ぶ、真新しい三式中戦車の長大な砲身へ向けて照準を合わせ、トリガーを引いた。
シュンッ――……。
巨大な鋼鉄の戦車が、まるで最初からそこに存在しなかったかのように、輪郭を光の粒子へと融解させ、音もなく消滅した。
「ひっ……!?」
第1製造所長の佐藤大佐が短く叫んで飛び上がった。
浩平は立ち止まることなく、足踏みをしながらアナログスティックを倒し、九七式中戦車(チハ改)の車列の間を歩いていった。
トリガーを引くたびに、戦車が、牽引車が、百五十ミリ重榴弾砲が、そして山積みにされた砲弾木箱が、次々とデジタルの彼方へと吸い込まれていく。
シュパッ! シュパッ! シュパパパパッ!!
三式中戦車: 12両
九七式中戦車(新砲塔チハ): 28両
九八式六屯牽引車: 16両
九〇式七五粍野砲および九六式十五糎榴弾砲: 計20門
各種戦車砲弾・榴弾(木箱入り): 約15,000発
わずか十分足らずの出来事であった。
耳を聾するような地響きも、クレーンの軋み音も一切なく、広大なアスファルトの広場を埋め尽くしていた帝国陸軍の虎の子の機甲戦力が、綺麗さっぱりと掻き消え、吹き抜ける熱風だけが残された。
土岐少将と佐藤大佐は、顎が外れたような間抜けな顔で、がらんとした広場を凝視したまま完全に硬直していた。人間の理性を根本から破壊するような超常現象を前に、二人の大人の軍人は、ただただ脂汗を流して立ち尽くすしかなかった。
浩平は踵を返し、阿南陸相と畑元帥、そして石化した二人の技術将校へ向けて、丁寧に頭を下げた。
「……私の都合で礼節を欠き、無礼な振る舞いをいたしましたこと、どうかご容赦ください。これにて、直ちに樺太前線への兵器展開に取り掛かります」
浩平は土岐少将へ視線を向け、穏やかな声で付け加えた。
「土岐少将。十条の造兵廠と同様に、相模造兵廠でも兵器の整備や工場の維持に必要な基礎材料があれば、リストを作成して畑元帥閣下へお預けください。後ほど、この広場に必要なだけの特殊鋼や資材を転送いたします。……では、私はこれにて失礼いたします」
「あ……あ……」
土岐少将が掠れた声を漏らす中、浩平はコントローラーのシステムボタンを長押しした。
スゥッ……。
次の瞬間、深緑の軍服を着た浩平の姿は、陽炎のように大気の中へと溶け、完全に消え去った。
広場に残されたのは、阿南陸相、畑元帥、そして魂を抜かれたように佇む二人の将校だけであった。
阿南陸相は軍帽を被り直し、腕を組んで、呆然とする土岐少将の肩をポンと叩いた。
「まあ……ああいう御方だ。あまりにも突拍子がなさすぎて、狐につままれたように思えるかもしれんがな。浩平殿は、陛下とこの国の未来のために、時間を惜しんで東奔西走しておられるのだよ」
畑元帥もまた、白い髭を揺らしながら満足そうに頷いた。
「うむ。これで北の国境に、赤軍を叩き潰すだけの鉄の爪が届く。……土岐少将、佐藤大佐。呆けている暇はないぞ。浩平殿が材料を下さるというのだ、喉から手が出るほど欲しい資材の目録を、大至急書き殴れ!」
「は、ははぁーっ!!」
二人の将校が転げるように本館へと駆け出していくのを見送りながら、阿南陸相と畑元帥は、青く澄み渡る相模原の空を見上げた。
午前10時05分。
帝都の奥座敷から回収された数十両の鋼鉄の虎たちが、北緯五十度のツンドラへと投下される瞬間が、刻一刻と迫っていた。
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お待たせしました
無我夢中で書いてみたら2万字超えましたので分割しました




