1945年8月5日 ポツダム宣言受諾
この作品はフィクションです、実在の人物や団体などとは関係ありません。
◇◇◇
夜明け前の密命と監視者の依代
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1945年8月5日、午前3時00分。帝都・東部軍司令部(第一生命ビル)。
畑中健二少佐や椎崎二郎中佐らの身柄保全、武器押収、そして自宅軟禁の完了をFPVカメラ越しに見届けた浩平は、すぐさまキーボードを叩き、阿南陸相と畑元帥の手元にある真新しいタブレットへメッセージを送信した。
画面に通知音が短く鳴り、浩平からの当日の行動スケジュールが鮮明な黒背景に青白い文字で浮かび上がった。
『先ほど、畑中健二や椎崎二郎らの確保と武装解除を見届けました。阿南陸相のおっしゃる通り、本日は極めて多忙を極めます。そちらの政治・軍事の領分に口を挟むつもりはありませんが、私が介入し、確認すべき事項を整理しておきます。
樺太への重火器・弾薬等の軍用物資輸送:
本日中にもソ連が日本へ宣戦布告を行い、交戦状態の既成事実を作る恐れがあります。北緯五十度線の防衛陣地を死守するため、食糧以外の本格的な兵器輸送を急ぎます。
前橋・高崎空襲の阻止:
本日午後10時28分、米軍B-29の第1波が前橋市上空へ到達し、空襲を開始する予定です。千葉県勝浦付近から本土上空へ侵入した時点で、私が構築した独自の防空システムにより介入・無力化します。念のため、千葉市、土浦市、下館、前橋・高崎の各都市において、郊外への一時疎開の実行確認をお願いします。
湯の花トンネル列車銃撃事件の阻止:
私のいた歴史では、本日午後12時20分頃、中央本線(浅川駅〜駒木野駅間)を走行中の満員列車が米軍戦闘機(P-51)の機銃掃射を受け、民間人など50名以上が犠牲となりました。この米軍戦闘機は私が接近次第撃墜します。軍においては、万が一脱出した米軍操縦士の速やかな捕縛・保全のみ手配をお願いします。
私の現地活動について:
本日の昼過ぎ以降、私は「依代のようなもの」を介し、そちらの世界で直接活動できるようになります。状況次第では私自身が現場で動くことになるため、可能であればそちらで怪しまれない仮の身分を用意してください。
――監視者 浩平』
机を囲んでいた阿南陸相と畑元帥は、画面を食い入るように見つめた。
1から3に記された具体的な戦術予見――樺太の危機、夜間空襲の迎撃、そして白昼の列車銃撃の阻止。これら未来情報の精密さにはすでに全幅の信頼を置いていたが、二人の目を最も見開かせたのは、最後に記された「4番」の記述であった。
「……浩平殿が、直々に……?」
畑元帥が掠れた声を漏らし、阿南陸相と顔を見合わせた。
「依代……まるで神仏が人の世に顕現されるかのようではないか。本人はただの技術者だと謙遜されておるが……」
阿南陸相は唸り声を上げ、自らの太い顎を撫でた。
「本人がどう思っていようと、現実にあらゆる奇跡を起こしてきた御方だ。その浩平殿が、ついにこの帝都の大地を踏まれるのだぞ。……これは一大事だ。本日朝、陛下がお目覚めになられたら、何をおいてもまずこの件を奏上せねばならん」
阿南は即座に執務室のドアを開け、廊下に控えていた当直副官を呼び止めた。
「おい! 至急、陸軍の将官クラス――中将か少将用の正装軍服一式、外套、それに飾緒や佩刀の類まで、仕立ての良い新品を一式揃えて執務室へ持ち込め! 寸法は……やや細身、背丈は百七十前後の青年将校のものだ! 大至急手配せよ!」
「ハッ! 直ちに!」
副官が慌ただしく走り去るのを見送った阿南は、再びタブレットの前に戻り、画面の向こうの見えない浩平へ向けて語りかけるように、音声入力ボタンを押して返信を吹き込んだ。
「浩平殿、阿南である。1から3の件、しかと承知した。樺太の同胞と国境の守りを赤軍の爪牙から断固として守り抜くことは、軍として当然の責務である。
……しかし、重火器搬出についてだが、今は草木も眠る丑三つ時だ。陸軍造兵廠に工員はおらん。本日は朝から大本営も内閣も蜂の巣をつついたような騒ぎになるゆえ、誠に申し訳ないが、朝の7時以降、私と畑元帥閣下が手分けして東京第一陸軍造兵廠(十条)と相模陸軍造兵廠へ直接赴く。その現場にて、樺太へ送るべき高射砲、野砲、小銃弾をまとめて回収していただきたい。
……浩平殿。貴殿も人の子、生身の人間であるならば休息が必要なはずだ。四六時中戦局を睨んでいては身が持たん。どうか夜明けまでの数時間、少しばかり目を閉じて身体を休めてくだされ」
画面越しに阿南の愚直なまでの気遣いを受け取った浩平は、張り詰めていた肩の力をわずかに抜き、小さく苦笑いを浮かべた。
「武骨な軍人だと思っていたけれど……こういう所は本当に温かい人だな」
浩平は「了解しました。朝7時に造兵廠で合流しましょう」と短く返し、仮眠を取るべくベッドへと横たわった。
◇◇◇
中立国公使館と、命のリスト
◇◇◇
午前5時00分。帝都・麻布区笄町(現・港区南麻布)。
真夏の朝の気配が東の空をかすかに白ませ始める頃、黒塗りの公用車二台が、警護の護衛車を伴って静まり返った麻布の坂道を登っていた。
一台には、杖を突きながら毅然と前を見据える内閣総理大臣・鈴木貫太郎。
もう一台には、彫りの深い顔筋を硬く引き締めた外務大臣・東郷茂徳。
二人は事前に「8月5日早朝、国家の命運に関わる至急の案件につき、面会を乞う」と極秘裏に打診を入れていた、中立国の在外公使館へとそれぞれ別れて向かっていた。
鈴木首相はスイス公使館へ、東郷外相はスウェーデン公使館へ。
彼らの鞄の奥底には、最高戦争指導会議を経て陛下のご裁可を仰いだ『ポツダム宣言受諾の公式電文』、そして――浩平がもたらした未来の裁判資料を元に、数日に渡る徹夜の激論の末に編纂された『免責要求リスト』と『減刑嘆願リスト』が収められていた。
【対連合国通告・覚書付帯文書】
■ 免責要求リスト(計17名)
・A級戦犯該当者:東郷茂徳、重光葵、広田弘毅、木戸幸一 ほか計10名
・BC級戦犯該当者:名目上の役職にあった事務方、軍令に従属した下級官吏計7名
■ 減刑嘆願リスト(計23名)
・阿南惟幾、畑俊六(※昭和天皇直筆による御加筆)
・現場の指揮系統において過酷な状況下にあったBC級戦犯該当者計21名
文書の冒頭には、東郷外相が国際法の論理を尽くして起草した峻烈な宣言が掲げられていた。
『戦争犯罪の責任は、不法なる戦闘行為を直接命令した指揮官、および実質的な軍事・政治の最高統率権を行使した者にのみ帰せられるべきである。
実権を伴わぬ名目上の職務に留まった文官、あるいは狂暴なる軍部の暴走を政治的に抑止し得なかった無力な事務方を、一括して「侵略の共同謀議」に問うことは、近代法における証拠裁判主義を逸脱し、犯罪構成要件を著しく欠く不法な処罰と言わざるを得ない』
未来の勝者による一方的な断罪の場に、あらかじめ国際法の楔を打ち込むための、日本の誇りを賭けた抵抗であった。
スイス公使館・応接室。
早朝の非常招集に応じ、正装で待機していた駐日スイス特命全権公使カミーユ・ゴルジェは、鈴木首相から差し出された英文の親書を受け取ると、その眼鏡の奥の蒼い瞳を激しく見開いた。
「閣下……これは……」
震えるゴルジェ公使の手の中で、タイプ打ちされた紙がかすかに擦れ合った。
そこには明確に記されていた――「ポツダム宣言の軍事・降伏条件を無条件で受諾する。同時に、戦後処理に関する日本政府の法的見解を付帯覚書として提出する」、と。
ゴルジェ公使は居住まいを正し、老首相の瞳をじっと覗き込んだ。
「鈴木総理閣下。確認させてください。これは……一部の軍部の独断や観測気球ではなく、日本国政府の、公式かつ確定的な意思表示であると受け取ってよろしいのですか?」
鈴木貫太郎は、深く、静かに頷いた。その声には八十年の風雪を耐え抜いた軍人・政治家の揺るぎない重みが宿っていた。
「いかにも。これは畏れ多くも今上陛下の大御心であり、我が内閣、そして塗炭の苦しみに耐え抜いてきた一億国民の総意であります。一刻も早く、この惨酷なる戦火を止めねばなりませぬ。……公使、本国政府を通じ、至急ワシントンおよびロンドン、重慶へ打電をお願いいたしたい」
ゴルジェ公使は息を呑み、胸の前で十字を切るように手を組んだ。
「神よ……。承知いたしました、閣下。これは世界数億の民を救う歴史的電報です。直ちに最優先暗号電文としてベルンへ送信させます!」
ゴルジェは即座に書記官を怒鳴るように呼びつけ、暗号室への電撃的な打電を命じた。
◇◇◇
スウェーデン公使館・執務室。
一方、スウェーデン公使館では、東郷茂徳外相が冷徹な表情で書類を差し出していた。
公使館の応対にあたった公使代理は、ポツダム宣言受諾の本文を読み終えた後、同封されていた『免責要求リスト』と『減刑嘆願リスト』に視線を落とし、複雑な表情で息を漏らした。
「東郷閣下。中立国として、貴国の講和のご決断を心より歓迎いたします。これによって、今日失われるはずだった何万もの命が救われるでしょう。……しかし、この付帯された免責と減刑のリストについてですが」
公使代理は眉をひそめ、率直に懸念を口にした。
「貴国の意図は痛いほど理解できます。閣下ご自身や広田元首相が平和のために尽力されたことも、我々はよく知っている。しかし……復讐に燃えるアメリカの世論や軍部が、この法論理をすんなりと呑むかどうかは……保証いたしかねますぞ」
東郷外相は視線を逸らすことなく、冷ややかに言い放った。
「呑むか呑まぬかは、アメリカ側の法理と良識の問題です。我が国は無条件降伏を呑むが、国民や指導者への不当な私刑までを無条件に認めたわけではない。国際法上の疑義をあらかじめ公文書として突きつけておくことこそが、講和交渉における我が外務省の矜持であります」
「……分かりました。閣下の気概に敬意を表します」
公使代理は深く一礼し、通信官へ向けて合図を送った。
「ストックホルムへ向けて、最優先緊急電を発信せよ!」
午前6時00分。
スイス・ベルン、そしてスウェーデン・ストックホルムへ向け、中立国の無線アンテナから超短波の暗号電波がヨーロッパの空へと放たれた。
歴史の歯車が、後戻りのできない轟音を立てて回り始めた瞬間であった。
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新しき日本の夜明け ― 玉音盤録音
◇◇◇
午前6時00分。皇居・吹上御文庫地下施設。
地上では東の空から差し込む朝の光が皇居の深い緑を照らし始めていたが、地下の防空室は依然として張り詰めた静寂に支配されていた。
両公使館からの打電完了を告げる急報が届いたその時刻。
大元帥たる正装――金モールが光る陸軍大元帥の軍服に身を包んだ昭和天皇が、部屋の中央に据えられたマイクの前に静かに立っていた。
テーブルの上には、日本放送協会の録音班の録音技師らが持ち込んだ、黒い二枚のラッカー録音盤とカッター針がセットされた大型録音機が鎮座している。
部屋の隅では、内大臣・木戸幸一が、浩平から届けられたばかりの真新しい新型タブレットを両手でしっかりと構えていた。
レンズの向こうには、自らの肉声をもって国家の歩みを転換させようとする、若き君主の厳粛な姿が収められている。浩平のシステムを通じ、この歴史の証拠映像がリアルタイムで録画・保存されていた。
部屋の空気は凍りつくほどに澄み渡っていた。
「……録音準備、完了いたしました。陛下、どうぞ」
技師が震える手で頭を下げ、録音盤のターンテーブルが回転を始めた。針が黒い盤面を削り、細い削りカスが這い出す。
昭和天皇はゆっくりと息を吸い込み、マイクへ向けて、高く澄んだ、威厳ある声を開かれた。
「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し、茲に忠良なる爾臣民に告ぐ……」
流れる言葉は、史実の玉音放送の骨格を保ちながらも、根本的な部分において歴史を塗り替える文言へと昇華されていた。
原爆投下という悲劇を未然に防ごうとしたこの世界線において、文面から「敵の残虐なる爆弾」という受動的な被害の言葉は削ぎ落とされ、代わりに国家の根本的な構造改革への強い意志が盛り込まれていた。
「……朕は茲に、立憲の精神に立ち返り、皇室のあり方を国民の総意に基づく『象徴』たるべきものと定め、永きにわたる世襲の特権と華族制度の廃止を決断せり。また、帝国の統治下にありし外地の諸民族に対しては、各々の自由なる意思に基づき、国民投票による民族自決の道を速やかに拓くものとする……」
傍らで直立不動のまま聞いていた木戸内大臣の頬を、幾筋もの熱い涙が伝い落ちた。
自らの特権を否定し、国民と同じ地平に立ち、アジアの民へ自決の権利を返す――それは敗戦の恥辱ではなく、専制と軍国主義の軛から日本を解き放つ、真の近代国家としての再生の誓いであった。
「……信義を世界に宣し、進みて平和の大道を歩まんと欲す。爾臣民、其れ克く朕が意を体せよ」
針が盤の端まで達し、録音機のモーターが静かに停止した。
室内には、ただ天皇の静かな呼気だけが響いていた。
同時刻。皇居外苑・二重橋周辺。
薄明かりの皇居を囲む桜田濠の端で、近衛第一師団長・森赳陸軍中将は、乗馬姿で威風堂々と全軍の配置を睥睨していた。
史実において、反乱将校の凶刃に倒れ、血染めの犠牲者となった猛将は、今や生き長らえていた。
阿南陸相と田中大将の電撃的な手配により、師団内部に潜んでいた畑中派の不穏分子は深夜のうちに一人残らず排除され、今、森中将の周囲を固めているのは、師団長への絶対の忠誠を誓う古参の幹部と、数千名の精鋭近衛兵であった。
「師団長閣下! 坂下門、大手門、祝田門、全ゲートの完全封鎖を完了! 陸軍省および東部軍司令部との直通有線回線、異常ありません!」
副官の報告に、森中将は軍刀の柄を固く握りしめた。
「よし。蟻一匹通すな。……大日本帝国が生まれ変わる朝だ。軍の秩序を乱さんとする狂徒が万に一つでも近づかば、何人たりとも容赦なく射殺せよ!」
「ハッ!!」
時を同じくして、内幸町の東京放送会館、東京駅、そして主要な発電所や通信局の周囲にも、田中静壱大将率いる東部軍の装甲車と重機関銃座が展開され、物々しい厳戒態勢が敷かれていた。
反乱の芽は完全に摘み取られ、帝都の夜明けは、驚くほどの静寂と秩序の中にあった。
やがて、昇り始めた真紅の太陽が、第一生命ビルの屋上に立つ黒い立方体――浩平のワールドゲートウェイの角を、鋭く照らし出した。
昭和二十年八月五日。
歴史がかつて経験したことのない、全く新しい一日が、いま音を立てて始まったのである。
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ホワイトハウスの焦燥
◇◇◇
1945年8月4日、午後5時15分(米東部戦時標準時/日本時間8月5日午前6時15分)。
ワシントンD.C.・ホワイトハウス、大統領執務室。
スイス・ベルン、およびスウェーデン・ストックホルムの外交電文受領からわずか数十分後。国務省の暗号班が緊急解読した最高機密電報を手に、ジェームズ・F・バーンズ国務長官が息を切らせて大統領執務室へと飛び込んできた。
執務机で書類に目を通していた第33代合衆国大統領ハリー・S・トルーマンは、顔を上げ、不機嫌そうに丸眼鏡の位置を直した。
「ベルンとストックホルムからだ、ミスター・プレジデント」
バーンズ国務長官は汗ばんだ指で、タイプ打ちされた数枚の通信紙を机の上に叩きつけるように置いた。
「……ジャップ(日本政府)が、ポツダム宣言を受諾すると打電してきた」
「何だと?」
トルーマンの目が細められた。傍らに控えていたヘンリー・スチムソン陸軍長官と、統合参謀本部の幕僚たちが一斉にざわめき立つ。
「公式な降伏の意思表示か? あの狂信的な軍国主義者どもが、本土決戦を叫んでいた連中が……なぜ今になって急に折れたのだ?」
軍部にとって、この報せは手放しで喜べるものばかりではなかった。
テニアン島の第509混成部隊には、すでにプルトニウム型およびウラン型の原子爆弾が搬入され、最初の投下予定日である「8月6日」に向けて最終出撃シークエンスに入っていたのだ。数十億ドルの経費を投じたマンハッタン計画の成果を実戦で誇示し、対日参戦を狙うモスクワのスターリンに対して絶対的な覇権を見せつける――その千載一遇のカードが、まさに投下の26時間前に手元から奪われようとしていた。
陸軍の作戦幕僚が忌々しげに呻いた。
「降伏自体は願ってもない吉報です。本土上陸作戦で予想された何十万人もの我が将兵の血が流木にならずに済む……。だが、原爆投下の直前のこのタイミングは、あまりにも微妙すぎる! まるで奴らは……これから迫り来る未曾有の破滅を、あらかじめ正確に察知していたかのようだ!」
「それだけではない、閣下」
バーンズ国務長官が苦虫を噛み潰したような顔で、電文の後ろに添付されていた文書をめくった。
「降伏電文の末尾に、信じがたい覚書が付帯されている。『免責要求リスト』と『減刑嘆願リスト』……計四十名に及ぶ戦争指導者の処遇に関する条件闘争だ」
トルーマンは書類をひったくり、そこに並ぶ英文の法論理を上から下へと乱暴に読み下した。
『戦争犯罪の責任は、不法なる戦闘行為を直接命令した指揮官、および実質的な軍事・政治の最高統率権を行使した者にのみ帰せられるべきである。実権を伴わぬ名目上の職務に留まった文官、あるいは狂暴なる軍部の暴走を政治的に抑止し得なかった無力な事務方を、一括して「侵略の共同謀議」に問うことは、近代法における証拠裁判主義を逸脱し、犯罪構成要件を著しく欠く――』
「『免責リスト』だと!?」
トルーマンはデスクをバンッと平手で叩き、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「真珠湾を闇討ちし、バターンで捕虜を虐殺したあの野蛮な軍国主義国家が……どの口を開いて近代法の原則を説くというのだ! 『実権の伴わぬ名目上の職務』? 『証拠裁判主義』? ふざけるな! まるでワシントンの腰抜けなリベラル外交官や国際法学者どもが、裏でジャップに入れ知恵したかのような言い草ではないか!」
トルーマンは荒い息を吐きながら部屋の中を歩き回り、冷酷な光を瞳に宿らせてスチムソンと幕僚たちを振り返った。
「無条件降伏の原則は一歩たりとも崩さん。彼らが勝手に送りつけてきたリストなど、ただの紙屑として扱え!」
「では、大統領……現地の軍事行動は?」
スチムソンが慎重に問いかけた。
「停止などするものか!」
トルーマンは言い放った。
「奴らが公に全世界へ向けて戦闘停止を宣言し、連合国の軍門に正式に調印するまで、戦争は終わっていない! 天皇がいる東京都内への直接攻撃は控えてやる。だが……見せしめとして、広島と長崎への原爆投下作戦、ならびに地方主要都市への夜間爆撃、機雷封鎖、艦載機による軍事活動は、計画通り一切の妥協なく継続せよ! 奴らが口先だけの時間稼ぎではなく、真に跪く気があるのかどうか、炎の中で思い知らせてやるのだ!」
政治的な傲慢と計算に満ちた大統領の冷徹な命令が、電撃的にマリアナの米戦略航空軍司令部へと打電されていった。
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ダウニング街10番地のリアリズム
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同日、午前8時30分(英国夏時間)。
ロンドン・ダウニング街10番地、英国首相官邸。
ポツダム会談の最中に総選挙でチャーチルを破り、新たに大英帝国の舵取りを担うこととなった労働党のクレメント・アトリー首相は、淹れたての紅茶を口に含みながら、外務省から持ち込まれた日本の降伏受諾電文を静かに精読していた。
執務室には、外務大臣アーネスト・ベヴィンをはじめとする閣僚たちが静かに着席している。
「……なるほど。東郷茂徳や重光葵、広田弘毅か」
アトリーは眼鏡を外し、疲れた瞼を指で揉んだ。
「アメリカのトルーマン大統領は、このリストを見て激怒しているそうだ。野蛮人の無礼な条件闘争だとね」
外相のベヴィンが皮肉げに口元を歪めた。
「大西洋の向こうの友人たちは、常に物事を『善と悪のカウボーイ劇』で裁きたがりますからな。真珠湾の恨みを晴らし、自らの正義を誇示するための公開処刑を望んでいる」
「だが、法というものは激情で運用されるべきではない」
弁護士出身であり、冷徹な現実主義者であるアトリーは、机の上の書類を軽く指先で叩いた。
「この日本の付帯文書……法理としては極めて整然としており、合理的だ。実質的な軍事指揮権を持たず、開戦を阻止しようと奔走し、最後には内閣を倒して講和を導いた文官たちまでを『共同謀議』として絞首刑にかければ、後世の法学者から近代裁判の汚点として指弾されることになるだろう。彼らが主張する『証拠裁判主義』は、大英帝国が何世紀もかけて築き上げてきたコモン・ローの精神そのものだ」
アトリーは紅茶を飲み干し、静かに息を吐いた。
「もっとも、現在の連合国内において、発言権の九割は膨大なドルと軍事力を持つアメリカが握っている。我々が前面に出て日本の弁護人を務め、ワシントンと決定的な亀裂を生むような真似は得策ではない」
「では、我が国としてはどのように対応いたしますか?」
ベヴィンの問いに、アトリーは淡々と答えた。
「日本のポツダム宣言受諾そのものは、無条件かつ即時に歓迎する。一日でも早く戦争を終わらせ、極東に展開する我が軍を復員させねば、イギリス経済が破綻してしまうからな。……そして、この免責と減刑のリストについてだが、受け入れを拒絶するのではなく、保留とする。いずれ設置されるであろう極東の戦争犯罪法廷において、我が国の派遣する裁判官や検察官に対し、『日本の提出した覚書における法理的合理性を斟酌すべし』という助言書を添えておく程度が、大英帝国としての良識と国益の落としどころというものだ」
怒りに燃えるアメリカと、怜悧に利害を計算するイギリス。
二つの大国の思惑が交錯する中、電文は最後の当事国――中国大陸の臨時首都へと転送された。
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重慶の激震と迫り来る内戦の影
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同日、午後4時00分(重慶時間)。
中華民国戦時首都・重慶、黄山官邸。
長江の湿気と猛暑がまとわりつく防空司令部の奥の一室で、軍事委員会委員長・蒋介石の怒号が壁を震わせていた。
「断じて納得できんッ!! 狗日(クソ野郎)どもめが!!」
蒋介石は手にした電文の写しを大理石の床へ叩きつけた。
連合国の四大国(米・英・ソ・中)の一角を自任しながら、国際外交において常に後回しにされてきた中華民国。この日本の受諾電報が重慶に届いたのも、ワシントンとロンドンが協議を終えた後、一番最後であった。その屈辱も相まって、蒋介石のプライドは激しく逆撫でされていた。
何より、蒋介石の逆鱗に触れたのは、減刑嘆願リストの冒頭に記された二つの名前であった。
「阿南惟幾に、畑俊六だとッ!? 我が国を何年踏みにじり、どれだけの我が同胞の血を流したと思っておるのだ!」
蒋介石は青筋を立てて叫んだ。
「阿南はあの憎き長沙会戦で我が第九戦区の軍を苦しめた張本人だ! そして畑俊六に至っては、支那派遣軍総司令官として大陸打通作戦を指揮し、我が国土を縦断して焦土に変えた元凶ではないか! この二名を戦犯法廷から救い出そうなどと……我が軍と民が流した血の海を何と心得る! 減刑など絶対に認めん! 南京の城壁の前で、民衆の目の前で銃殺刑に処さねば、我が国民への示しがつかんわ!」
さらに、諜報ルートから断片的に漏れ伝わってきた、日本の「玉音放送」の噂が、蒋介石の激情に油を注いでいた。
「……台湾の民族自決だと!? 国民投票だと!? 荒唐無稽な世迷い言を抜かすな!」
蒋介石は軍靴で床を踏み鳴らした。
「台湾島は、日清戦争で不当に奪われた我が中国固有の神聖なる領土である! カイロ宣言において、ルーズベルトもチャーチルも、満洲と台湾の中華民国への返還を明確に約束したのだ! 侵略者の敗戦国が、どの面を下げて領土の処分に口を挟むか! 台湾の民に自決の権利などない、一刻も早く我が国民政府軍が進駐し、中華民国の領土として回復するのみだ!」
激昂し、受諾拒否の電報をワシントンへ送ろうとする蒋介石の前に、二人の重鎮が慌てて割って入った。
軍政部長の陳誠上将と、外交のエリートである行政院長の宋子文であった。
「委員長! どうか……どうかご冷静になられますよう!」
陳誠が必死の形相で蒋介石の前に立ちはだかり、声を絞り出した。
「委員長、抗戦(対日戦)が終わったとしても……我が国民政府の戦いのすべてが終わるわけではないのです!」
「何だと!?」蒋介石が睨みつける。
陳誠は背後の扉を確かめ、声を潜めて言った。
「北の延安……毛沢東と共産党(八路軍)の存在をお忘れですか! 奴らは抗戦の陰で力を蓄え、すでに華北の農村部を広く浸透支配しております! いまや大陸の民心は、泥沼の戦いで疲弊した我が国民政府から離れ、甘言を弄する共産党側へと傾きつつあるのです!」
宋子文もまた、青ざめた顔で身を乗り出し、国際金融と外交の実情を突きつけた。
「陳将軍の申す通りです、委員長! 我が軍が共産党の反乱を鎮圧し、大陸の覇権を維持するためには、アメリカからの莫大な軍事援助、最新鋭の武器、そして経済復興のための借款が絶対に不可欠なのです! もし今、我が国が戦犯の処遇や台湾の条項に過激に拘泥し、アメリカが主導する日本の早期降伏プロセスに異を唱えれば……『重慶は講和の足を引っ張る厄介者だ』とトルーマンに見限られます! 米国の支援が途絶えれば、我が国民政府軍は共産党軍との内戦に耐えきれず、自壊してしまいますぞ!」
「…………ッ!!」
蒋介石の言葉が喉元で凍りついた。
軍事独裁者としての誇りと、目の前に迫り来る共産党という「内なる虎」への恐怖。
もしアメリカに見捨てられれば、日本に勝ったとしても、翌年には毛沢東によって長江の彼方へと叩き落とされる――その冷厳な軍事バランスの現実に、蒋介石の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
部屋を支配した重苦しい沈黙の中、蒋介石は震える手で机の角を掴み、苦悶に満ちた呻き声を漏らした。
「……阿南と畑の罪は、歴史の記録に永遠に刻まねばならん。だが……今は呑むしかないというのか。我が国民政府の存亡のために……」
蒋介石は目を閉じ、深く、苦渋に満ちた溜息を吐き出した。
「……宋子文。ワシントンへ返電せよ。『我が中華民国政府は、ポツダム宣言受諾の通告を諒承する。ただし、戦犯の免責および領土主権の解釈については、連合国の協議において断固たる発言権を留保する』……と。それ以上は、今は踏み込むな」
「了解いたしました、委員長!」
宋子文が安堵して執務室を駆け出していった。
窓の外には、長江を渡る熱風と、対日戦争の勝利を前にしてすでに内戦の血生臭い気配を孕み始めた、重慶の暗い空が広がっていた。
三大国の思惑がそれぞれの首都で渦巻く中、時計の針は容赦なく進んでいた。
アメリカは原爆投下と爆撃の継続を命じ、
イギリスは法理の現実的な落としどころを模索し、
中国は迫り来る内戦の影に怯えながら苦渋の妥協を選んだ。
そして――日本時間の8月5日早朝。
世界が日本の降伏通告に揺れ動く中、帝都の陸軍造兵廠では、迫り来るソ連軍から北の同胞を守るため、阿南陸相と畑元帥、そして現代の監視者・浩平による、前代未問の「重火器回収作戦」の朝を迎えようとしていた。
金曜日の午後から本格的に執筆し始め、結局完成したのは翌日の深夜1時過ぎであった
今までは各キャラクターの登場場所毎に描くスタイルですが、8月5月に限っては出来る限り時間順の描写になります
次は、日曜日か月曜日まで仕上げるように頑張っていきます
シルバーウイークは執筆ウイークになりそうです(笑)
なお、本作はめでたく50万字を突破しました…(笑)




