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1945年8月4日 迫るソ連侵攻

この作品はフィクションです、実在の人物や団体などとは関係ありません。

時間が遡り、

1945年8月4日、午前6時30分。樺太西海岸・真岡駅。


真夏とはいえ、北緯四十七度のオホーツクの風は肌を刺すように冷たい。朝霧が立ち込める真岡(まおか)駅のホームに、重苦しい蒸気機関車の吐息が響き渡っていた。


橘誠一郎少佐と、対外的に「妻」として同行している妹のちひろは、第88師団長・峯木十一(みねき じゅういち)中将とともに、豊真線(ほうしんせん)の始発列車の一等客車へと乗り込んだ。

目指すは、山越えの難所である逢坂(おうさか)峠とループ線を越え、四時間をかけて樺太の中枢・豊原(とよはら)へと至る鉄路である。


ガタゴトと規則正しい振動が客車を揺らし、窓の外を鬱蒼としたエゾマツやダケカンバの原生林が流れていく。

向かい合わせのボックス席で、誠一郎は内ポケットから薄型タブレット端末を密かに引き抜き、膝の下で画面を確かめた。


そこには、現代の監視者・浩平から送られてきた、日本国の命運を決定づける超機密情報が淡々と記されていた。


誠一郎は静かに息を整え、向かいに座る峯木中将へ身を乗り出した。


「……峯木閣下。周囲に耳はございませんね」


ただならぬ気配を察した峯木中将が、鋭い眼光を巡らせて小さく頷く。


「うむ。この車両には我らと副官しかおらん。……何があったのだ、橘少佐」


誠一郎は声を極限まで潜め、告げた。


「天の監視者殿より、大本営に関する緊急電報が入りました。……明日、八月五日の未明。大本営はスイスおよびスウェーデンの中立国公使館を通じ、連合国へ向けて『ポツダム宣言受諾』の第一報を正式に打電する手はずとなっております」


「な……ッ!?」


歴戦の将軍である峯木中将の顔から、一瞬で血の気が引いた。


「ま、待て! 終戦の聖断が下るというのか!? だが……それならば戦は終わるのではないか!」


「終わりません」


誠一郎の瞳には、冷徹なまでの切迫感が宿っていた。


「極東の情勢を虎視眈々と狙うソビエト連邦は、この講和の動きを暗号解読などによって即座に察知するはずです。火事場泥棒を狙うスターリンは、日本が正式に降伏文書へ調印する前に既成事実を作るため……明日、受諾の報を知るや否や、日ソ中立条約を一方的に破棄し、即座に樺太および千島へ宣戦布告を行って雪崩れ込んでくる可能性が極めて高い。監視者殿の予測です」


「バカな……明日だと!? 明日の日中に攻めてくるというのか!?」


峯木中将は拳で自らの膝を激しく叩いた。その額から脂汗が滲み出る。


「間に合わん……! 北緯五十度の国境線直下にある古屯(ことん)の主陣地も、前線最大の軍事拠点である敷香(しすか)の町も、要塞化工事は半ばで放置されたままだ! 関東軍や本土へ兵力と重火器を引き抜かれ、兵士に持たせる小銃弾も、陣地を固めるセメントも鉄条網も、何もかもが底を突いておるのだぞ……! この状態で赤軍の機甲部隊が押し寄せてくれば、国境は一日と持たずに突破される!」


補給なき防衛の絶望を知るからこそ、峯木中将の呻きは切実であった。


誠一郎は揺れる車窓の外、雄大な樺太の山並みを見据えながら力強く頷いた。


「ええ。だからこそ、監視者殿が動いてくださるのです。豊原へ着き次第、私は敷香へ向かいます。国境の民と兵を救うための、真の防衛線を敷くために」


◇◇◇

豊原駅の六百トンの輜重

◇◇◇


午前11時30分。樺太庁所在地・豊原駅。


四時間の山越えを終えた蒸気機関車が、白い蒸気を吐き出しながら豊原駅のプラットホームへと滑り込んだ。

列車から降りた誠一郎、ちひろ、峯木中将らは、直ちに駅の北側に広がる巨大な貨物積荷作業場へと直行した。


広大な側線の向こう、第88師団の輜重倉庫の前で、厳重に施錠されていた大型倉庫の観音扉が一斉に開け放たれた。

誠一郎は懐から浩平より転送された『大口物資引換手形』を取り出した。


監視者が発行されたその手形に橘誠一郎は暗号文を書き込み、倉庫の中央に、山のような現物を出現させた


「な……なんという量だ……!」


居並ぶ鉄道関係者や将兵たちから、地鳴りのような驚嘆の声が漏れた。


薄暗い巨大倉庫の内部を埋め尽くしていたのは、天井に届かんばかりに積み上げられた物資の山であった。

東海岸沿線――知取(ちりとる)から最前線の敷香に至る沿線住民および防衛部隊、約八万人に向けた、丸々一週間分の基礎物資であった。


精米: 300トン(業務用20kg×15,000袋)

上白糖: 150トン(業務用20kg×7,500袋)

B100バイオディーゼル軽油: 60,000L

ホワイトガソリン: 60,000L

【購入総額:154,700,000ゼニ 補給物資総重量:約600トン】


誠一郎自身が各駅で降りて手品のように物資を取り出せば、列車の重量を減らし石炭を節約することは可能であった。

しかし、それでは停車ごとに無用な驚愕と混乱を生み、何より「今日中に最前線の敷香へ到達する」という絶対のタイムリミットに間に合わなくなる。さらに、不特定多数の目に触れれば、町中に潜むソ連の白系ロシア人スパイに察知される危険すらあった。


ゆえに浩平は、豊原駅の軍用倉庫へ一括転送し、軍の正規輸送として列車に仕立てる現実的な手法を選んだのだ。


側線には、この日のために緊急組成された、樺太鉄道史上でも前例のない十五両編成の巨列が横付けされていた。


先頭に立つのは、重連(二重連)の大型蒸気機関車。客車は誠一郎たちが乗り込む最後尾の一両のみ。その間に挟まれた十四両は、すべて頑丈な木造有蓋貨車と無蓋トフであった。一両あたり三十〜四十トンを満載し、最大六百トンの物資を一挙に北へ押し上げる鉄の巨龍である。


「急げ! 総員、積み込みにかかれッ!」


下士官の号令のもと、何百人もの輜重兵と駅の荷役作業員たちが、滑車と荷車を駆使して汗だくになりながら、米袋と燃料ドラム缶を次々と貨車の中へと呑み込ませていった。


◇◇◇

統帥の委任とちひろの眼差し

◇◇◇


積み込みの喧騒を背に、誠一郎は峯木中将に向き直り、敬礼を捧げた。


「峯木閣下。物資の積載が終わり次第、私はこの列車で敷香、そして北緯五十度の国境へ赴きます。監視者殿から預かった力を用い、赤軍を迎え撃つための防衛陣地を構築してまいります」


峯木中将は苦渋と決意の入り混じった表情で、誠一郎の肩を両手で強く掴んだ。


「橘少佐……本来ならば、師団長である私が直々に第一線へ赴き、貴殿と共にツンドラの泥を啜るべきなのだ。だが……豊原を空けるわけにはいかん。八月五日にソ連が動けば、真岡や大泊への上陸、全島数十万の民間人の後方疎開、通信の統制……この中枢で私が指揮を執らねば、全軍が瓦解してしまう」


峯木中将は傍らに控えていた三十前後の精悍な将校を手招きした。


「我が信頼する副官、工藤剛陸軍大尉だ。彼に我が師団長印を押印した全権委任状と、国境守備隊宛ての親書を持たせる。敷香および国境陣地における一切の軍事統制・陣地構築の采配は、すべて橘誠一郎少佐……貴殿に一任する!」


「ありがたく拝命いたします」


「橘少佐……頼んだぞ。樺太の同胞の命、貴殿と天の監視者殿に託す!」


峯木中将は右手を挙げ、誠一郎とちひろへ向けて渾身の敬礼を送ると、司令部要員を引き連れて慌ただしく師団司令部へと戻っていった。


午後12時00分。豊原駅・一等待合室。


貨車の連結作業と最終点検が続く間、誠一郎とちひろは、工藤大尉が手配してくれた冷たい緑茶を口に含み、束の間の休息を取っていた。


ガラス窓の向こうの駅前広場には、夏の強い日差しを浴びながら、もんぺ姿の開拓農民の女性たち、木材を運ぶ馬車、樺太犬を連れた先住民族(ギリヤークやウィルタ)の親子、そして露天商で笑い合う子供たちの姿があった。


その平和な日常をじっと見つめていたちひろが、湯呑みを両手で包み込みながら、静かに口を開いた。


「……お兄ちゃん」


周囲に人がいないことを確かめ、ちひろはポツリと呟いた。


「広島とは……風土も、気候も、山や木々の景色も、全然違うけれど……。国民学校の教科書で『北の果ての不毛の地』って習った時とは、まるで違うわね。みんな、ここで一生懸命に働いて、家族と笑い合って、暮らしている……」


ちひろの瞳に、透き通った思索の光が宿っていた。


「ここへ来て、この人たちを見ているとね……私、少しずつだけど、天の監視者様の考え方が分かってきたような気がするの」


「……浩平殿の考え方、か」


誠一郎が促すと、ちひろは優しく微笑んだ。


「うん。監視者様はね……日本という国を戦争で勝たせようとしているんじゃないと思うの。そうじゃなくて……みんながそれぞれの故郷を守って、お腹を空かせたり病気で倒れたりすることなく、人間として満足して生きていけるように……ただそのために、力を貸してくださっているんじゃないかしら」


「…………」


誠一郎は虚を突かれたように、妹の横顔を見つめた。


軍人としての誠一郎の頭には、常に「勝敗」「国防」「大東亜の趨勢」「軍人としての名誉」という国家規模の教条が染み付いていた。

だが、浩平が広島や呉で成し遂げたのは、二十万人の生活や病人救助に力を尽くしてという、どこまでも泥臭く生活に根ざした「個人の生の保障」であった。


(国を勝たせるためではなく……人々が故郷で生き続けるために……)


職業軍人としては、一瞬、腰が引けるような異質の論理であった。

しかし、今まさに目の前を行き交う名もなき民の笑顔を守るためなら、それこそが何よりも正しく、美しい大義ではないか――誠一郎の胸の奥で、カチリと何かが噛み合わさった。


「……ちひろの言う通りだな」


誠一郎は柔らかく目を細め、妹の頭にそっと手を置いた。


「我ら軍人は、いつの間にか『国』という幻影のために民を死なせることを美徳と錯覚していたのかもしれん。だが、浩平殿の戦いは違う。民が生きてこその国だ。……我らも、そのために北へ向かおう」


「うん、お兄ちゃん!」


ちひろは力強く頷いた。


◇◇◇

北緯五十度線へ向けて

◇◇◇


午後12時20分。豊原駅ホーム。


ボォォォォォォ――――――――ッッ!!


重連機関車の巨大な汽笛が、豊原の澄み渡る北の空を引き裂いた。


「橘少佐、奥様! 出発の準備が整いました!」


親書を抱えた工藤大尉が、客車のステップから身を乗り出して呼びかけた。


「行こう」


「はい!」


誠一郎とちひろは身を翻し、最後尾の客車へと足を踏み入れた。


ガシャン、ゴトトンッ!


連結器が軋み、十四両の貨車に満載された六百トンの米と燃料が、重厚な地響きを立てて動き出した。


窓の外を、豊原の白樺並木と、手を振る駅員たちの姿が後方へと遠ざかっていく。

列車は樺太東線を一路北へ――知取を抜け、ツンドラの広がる最前線・敷香、そして赤軍の砲口が迫る北緯五十度の国境線へと向けて、力強く車輪を回転させ始めた。


北の果ての防衛戦が、いま静かに幕を開けようとしていた。


◇◇◇


1945年8月4日、午後12時40分。樺太東線・北上輸送列車客車内。


重連の蒸気機関車が牽引する十四両の貨車――総重量六百トンにも及ぶ膨大な米と燃料の重みにより、列車は時速四十キロメートルほどの鈍足で、ガタゴトと重厚な轍の音を響かせながら単線を北上していた。


豊原を出発して二十分ほどが経過した頃、客車のボックス席に座る三人の腹が、申し合わせたように微かな虫の音を立てた。


峯木中将の副官として同行している工藤剛(くどう ごう)陸軍大尉が、申し訳なさそうに腰の雑のうを探り、堅パンと乾燥野菜の入った携帯口糧を取り出そうとした。


「橘少佐、奥様。こんな臨時貨物列車ゆえ、食堂車はおろか車内販売などもございません。無骨な携帯口糧しか持ち合わせがありませんが、よろしければ……」


「あ、工藤大尉さん、お待ちください!」


ちひろがパッと明るい声を上げ、羽織っていた風呂敷包みの中から、真新しい艶やかな紙束を取り出した。


前夜、現代の浩平がゲーム内インベントリのプリンターで高解像度出力し、ちひろの手元へ直接転送していた『新型弁当引換手形』と『特製フルカラー写真付きメニュー表』であった。


「……な、なんですかな、その極彩色の紙は……?」


工藤大尉が目を丸くした。

差し出されたA4サイズの冊子には、当時の日本はおろか世界中どこを探しても見られない、鮮烈極まりない料理の写真がずらりと印刷されていた。


これまでの引換手形は、カツ丼やハンバーグ弁当といった六種類のチェック選択式であった。

だが、「毎日同じローテーションでは必ず飽きる」と考えた浩平が、ゲーム内ショップの食品カテゴリーから約二百種類の弁当と、百種類に及ぶ飲料を抜粋してメニュー表に仕立て上げたのだ。

手形用紙も一新され、十行ほどの記入欄に希望の料理名と数量を書き込めるマルチオーダー形式へと進化していた。


浩平の現在のキャッシュフローからすれば、仮に前線の一個連隊数千人に特上弁当を奢ったとしても、消費するゼニは莫大なデイリーボーナスの誤差範囲にも満たない。


「工藤大尉さん、遠慮なさらずにお好きなものを選んでくださいな。天の監視者様が、私たちにくださったお食事なんです」


「は……はあ……?」


半信半疑の工藤大尉が恐る恐るページをめくる。そこには幕の内、牛焼肉、海鮮ちらし、うな重、さらには中華に洋食と、およそ戦争末期の帝国では夢幻としか思えない豪華絢爛な料理が並んでいた。


工藤大尉はゴクリと喉を鳴らし、写真の艶やかな照りに惹かれたのか、指を震わせた。


「で、では……この、鶏肉と卵を甘辛く閉じたという『特選・地鶏親子丼』を……」


「はい! 旦那様はどうする?」


誠一郎は迷わず、ガッツリと白米が進みそうな品を指差した。


「俺は、この香ばしく炙った豚肉が敷き詰められた『特製十勝風焼き豚丼』にしよう」


「私はね、これにするの! 『特製洋食コンボ弁当』! エビフライにカキフライ、それに小さなハンバーグも乗っているんですって!」


ちひろは嬉しそうに鉛筆で手形へ品名を書き込み、飲み物には男二人に「緑茶(500mlペットボトル)」、自分用には「いちご味カルピス」と記入した。

ちひろが最後に手形に暗号文を記入するとと、淡い光の粒子が立ち上り、ボックス席の木製テーブルの上に、ずしりと重い三つの折詰と冷えたペットボトルが出現した。


「う……うわあああっ!?」


工藤大尉が座席から転げ落ちそうになった。


立ち込めたのは、甘辛い割り下の出汁の香りと、豚肉の焦げたタレの香ばしさ、そして香ばしい揚げ油の芳香であった。


「い、生きているうちに……このような純白の米と、本物の肉の山を拝めるとは……!」


工藤大尉は震える箸で親子丼を一口頬張るや、両目を剥き、言葉を失って涙をこぼした。とろりとした濃厚な半熟卵と柔らかな地鶏の旨味が、長年の粗食で乾ききっていた五臓六腑へ染み渡っていく。


誠一郎もまた、甘辛いタレが絡んだ極厚の豚バラ肉を頬張り、香ばしさに目を細めた。

ちひろはサクサクのエビフライにタルタルソースをたっぷりつけ、小さな口いっぱいに頬張ると、幸せそうに頬を緩ませた。


「ん〜〜っ! 美味しい! エビがぷりぷりしてるわ!」


甘酸っぱいいちごカルピスをごくりと飲み、ちひろは満面の笑みを浮かべた。


だが、どれほど美味しい食事をとっても、人間である以上は避けられない問題があった。

生理現象である。


浩平は、ちひろが以前の輸送機移動で劣悪極まるトイレ環境に耐えかね、極限まで我慢を強いられた「トイレ危機」を深く反省していた。

そのため、今回の北上にあたって『臨時トイレ引換手形』を10枚程、ちひろに持たせていたのだ。

手形を発動すれば、ポータブル水洗トイレ、20リットルの清水ボトル五本、ゴミ袋、トイレットペーパー8ロール、そして人目を完全に遮断するワンタッチテントが客車後部に一瞬で展開される仕組みであった。


しかし、このトイレセットは一度展開すると浩平でないとインベントリに回収できず、その場に放置するしかない使い捨て仕様であった。


(こんな立派なもの、一度使っただけで置いていくなんて勿体なさすぎるわ……! 停車駅の便所を使えば我慢できるはず……!)


ちひろの貧乏性が災いし、手形を使うのを躊躇っているうちに、腹の底にじわじわと限界が迫っていた。


列車は午後1時30分、落合駅を定刻通りに通過。前日に豊原司令部へ物資を引き渡していたため、停車することなく北へと突き進む。


そして午後2時30分。列車がようやく西海岸への連絡分岐点である真縫(まぬい)駅のホームへ滑り込み、停車した瞬間――。


「す、すみません! ちょっと失礼しますっ!!」


ちひろは悲鳴のような声を残し、停車と同時に客車のステップを飛び降りた。

ホームの駅員たちを風のようにすり抜け、ちひろは駅舎の木造便所へと猛ダッシュで駆け込んでいった。


「お、奥様……!? どうされたのだ?」


目を丸くする工藤大尉に、誠一郎は苦笑いを浮かべて首を振るしかなかった。


真縫駅では三十分の停車時間を利用し、西海岸側の久春内(くしゅんない)や泊居(とまりおる)の住民約一万五千人に向けた米や砂糖、そしてドラム缶入りのバイオディーゼル燃料が手際よく側線へと下ろされた。


スッキリとした顔で戻ってきたちひろを乗せ、列車は再び発車。

午後4時30分には東海岸の中核都市・知取(ちりとる)駅へ到着し、ここでも二万人分の物資を下ろすための三十分間の荷役が行われた。


北へ進むにつれ、車窓の風景は広大な泥炭地――ツンドラ地帯の荒涼とした湿原へと姿を変えていった。


◇◇◇

敷香の黄昏と叩き上げの大佐

◇◇◇


午後6時40分。樺太東線の現行終着点手前・敷香(しすか)駅。


オホーツク海から吹き付ける冷湿な海霧に包まれた敷香駅のプラットホームに、十五両の輸送列車が軋んだ音を立てて滑り込んだ。


樺太鉄道の最北端である気屯(けとん)駅へ向かうには、すでに日没が近すぎて危険であった。浩平が手配した六百トンの物資のうち、約三百トンがここ敷香で下ろされ、最前線・古屯(ことん)陣地へ届ける残りの物資は、明朝の小編成列車へと積み替えられる計画となっていた。


駅舎の向こうには、十数名の武装兵を従えた一人の軍人が、仁王立ちで列車を睨みつけていた。


歩兵第125連隊長・小林与喜三(こばやし よきぞう)陸軍大佐。

この敷香周辺および北緯五十度国境地帯における地上戦闘の全責任を背負う、野戦叩き上げの厳格な指揮官であった。


小林大佐の眉間には、深い憤怒の皺が刻まれていた。


(大本営の参謀だか何だか知らんが、北緯五十度の国境に赤軍の砲口が並ぶこの緊迫の極限に……若造の少佐が新妻を連れて物見遊山だと!? ふざけるなッ! 貴族の避暑旅行気取りで前線を踏み荒らしに来たのなら、叩き出してやる!)


昼過ぎに豊原の第88師団司令部から届いた電報を読んだ瞬間、小林大佐の怒りは頂点に達していたのだ。


しかし――。

客車から誠一郎、ちひろ、工藤大尉が降り立つよりも先に、貨車の扉が一斉に開け放たれた時、小林大佐の思考は完全に停止した。


「お、おい……あれを見ろ……!」


連隊の将兵たちが息を呑み、指を差した。


貨車から次々と担ぎ出されていくのは、見たこともないほど白く輝く精米の麻袋の山。そして、何十本、何百本と転がし出される、緑色の新品のドラム缶。

そこには鮮やかな白ペンキで『ガソリン』『軽油』の文字が躍っていた。


(ば、馬鹿な……!? 本土ですら一滴の油を絞り出しているこの時に……あれほどの燃料が、なぜこの樺太の北端にあるのだ……!?)


認めたくはなかった。

だが、物資が完全に枯渇し、トラックを動かす油すらなく、兵にすいとんを食わせて陣地を掘らせていた小林大佐にとって、その物資の山は咽び泣くほどに喉から手が出る宝の山であった。


(不本意だが……これだけの油があれば、連隊の軍用トラックを全車動かせる。重火器の移動も、古屯への弾薬輸送も劇的に改善する……!)


小林大佐は奥歯をギリギリと噛みしめ、湧き上がる怒りを必死にねじ伏せて、自分を納得させるように深く息を吐き出した。


誠一郎たちが歩み寄ってくると、小林大佐は軍刀の柄を握ったまま、辛うじて挙手注目の敬礼を返した。


「……歩兵第125連隊長、小林大佐である。橘少佐……貴殿がこの莫大な輜重を持ち込まれたのか」


「橘誠一郎少佐であります。連隊長閣下のご苦労、お察し申し上げます」


誠一郎の淀みのない敬礼に、小林大佐は鼻を鳴らした。


「挨拶は後だ。町役場へ向かうぞ。貴殿の腹の内を聞かせてもらおう」


◇◇◇

役場の火花と裏切られたちひろ

◇◇◇


敷香町役場の応接室。薄暗い電灯の下で、工藤剛大尉が恭しく差し出した書類を見た瞬間、小林大佐の堪忍袋の緒が再び弾け飛んだ。


そこには、第88師団長・峯木中将の朱印が押された『全権委任状』があった。

敷香および国境陣地における一切の防衛采配を、橘誠一郎少佐に委任する――と明記されていたのだ。


「馬鹿なッ!!」


小林大佐は書類を机に叩きつけた。


「師団長閣下は何を考えておられるのだ! 樺太の泥もツンドラの寒さも知らん、実戦経験もない大本営の少佐に、我が連隊の指揮権を引き渡すだと!? 断じて承服いたしかねる!」


工藤大尉が制止しようと口を開きかけたが、誠一郎が静かに手を挙げてそれを制した。


「小林大佐閣下、誤解なきよう申し上げます。私は連隊の指揮権を奪いに来たのではありません」


誠一郎の静かな、しかし芯の通った声音に、小林大佐がぎろりと睨みつける。


「ならば何をしに来た!」


「私は、天の監視者殿より託された特殊な防衛陣地を、北緯五十度線に構築するために参りました。兵士たちの運用、第一線の戦術指揮は、現地を熟知しておられる小林閣下に引き続き全権をお願いしたい。私はただ、閣下の戦いを背後から補給と要塞化によって支えるための権限が必要なだけです」


「……特殊な陣地だと?」


小林大佐は怪訝そうに眉をひそめたが、すぐに隣に立つちひろへ視線を移し、嘲るように吐き捨てた。


「綺麗事を申すな! たとえ輜重を持ち込もうと、貴殿一人で何ができる! ここは最前線だぞ! 女子供を連れて物見遊山に来るような甘えた男の指図など、我が連隊の将兵が聞くと思うか!」


その言葉に、誠一郎の表情がわずかに引き締まった。


「……妻を伴ってきたのには、理由があります。妻には、別の重大な任務があるのです」


「なに?」


「明日、私が古屯へ出発した後……妻には、ここから西海岸の恵須取(えすとる)町へと向かってもらいます。内恵(ないけい)道路を走る庁営バスを使い、西海岸の防衛部隊と住民へ向けて、監視者殿の補給物資を届けてもらう手はずです」


その瞬間――。

部屋の空気を切り裂いたのは、小林大佐の怒号ではなく、隣にいたちひろの鋭い叫びであった。


「……お兄ちゃんッ!!」


誠一郎がギョッとして振り返ると、ちひろが両手を強く握りしめ、目を真っ赤にして誠一郎を睨みつけていた。


「そんなの……聞いてないわ! どうして私を一人で西海岸へ行かせるの!? ずっと一緒にお兄ちゃんの傍にいるって、広島を出る時に約束したじゃない!」


「ちひろ、落ち着け。ここは軍の役場だ」


「落ち着いてなんかいられないわ! お兄ちゃんは私を置いて、一番危険な国境の陣地へ一人で行く気なんでしょう!? そんなの絶対に嫌っ! 私も古屯へ連れて行って!」


「駄目だ! 古屯はいつ敵の砲撃が始まってもおかしくない場所だ! お前をそんな危険に晒せるか!」


「お兄ちゃんだけ危険な目頭に遭うなんて、もっと嫌よ!!」


大佐の前であることも忘れ、必死に食ってかかるちひろと、狼狽しながら必死になだめる誠一郎。


「あ、あの……奥様、少佐殿……」


工藤大尉がおろおろと視線を泳がせる。


先ほどまで猛虎のように怒り狂っていた小林大佐は、目の前で突如始まった激しい「夫婦喧嘩」の凄まじい気迫に完全に圧倒され、口を半開きにしたまま完全に萎縮してしまった。


「え、ええい……! もうよい! 軍の神聖な役場で痴話喧嘩など見苦しいわ!」


小林大佐は咳払いをし、ばつが悪そうに顔を背けた。


「当直! このお二人を、今夜の宿である町内の接待旅館『北海館』へ直ちにお送りしろ! ……話の続きは明朝だ!」


追い出されるように役場を後にした二人を、小林大佐は呆気にとられた表情で見送るしかなかった。


◇◇◇

誠一郎の誓いとふたりの温もり

◇◇◇


午後8時00分。敷香町・旅館「北海館」。


オホーツクの冷たい夜風が、木造二階建ての格式ある旅館の障子を小さく揺らしていた。


通された奥の八畳間には、海の幸が並べられていたが、二人は箸をつけようともしなかった。

ちひろは畳の上に正座したまま、きつく唇を噛みしめ、うつむいてポロポロと涙をこぼしていた。


誠一郎は静かに正座し直し、妹の華奢な肩を見つめた。


「……ちひろ」


「…………」


「すまなかった。事前に話せば、お前が絶対に反対すると分かっていたから……言い出せなかった」


誠一郎は優しく、だが諭すように言葉を紡いだ。


「だが、聞いてくれ。古屯の国境線は、明日にもソ連軍の砲撃が始まるかもしれない最前線だ。お前を連れていくわけにはいかない。……それに、これは浩平殿の切実な要望でもあるんだ」


ちひろが涙で濡れた瞳をわずかに上げた。


「監視者様の……?」


「ああ。監視者殿が力を振るうためには、『行動範囲(マップ)』を広げなければならない。お前が恵須取へ赴き、西海岸の人々に補給の手形を届けてくれれば、西海岸一帯も監視者殿の絶対防空・防衛圏に組み込まれる。敷香や恵須取の人々を救うためには、ちひろ……お前の力が必要なんだ」


誠一郎は手銃のジェスチャーをして、続けた


「私たちには、監視者殿から与えられた自衛の力がある。銃弾が飛んできても不可視の盾が防いでくれると、浩平殿から説明を受けただろう? 危険なことは何一つない。……だが、俺が背後を気にせず国境で全力を尽くすためにも、お前には安全な場所で、民を救う役割を果たしてほしいんだ」


誠一郎の真摯な眼差しに、ちひろは悔しそうに鼻をすすり、ぽつりと呟いた。


「……お兄ちゃんは、いつもそうやって理屈ばかり並べるんだから……」


ちひろは着物の袖で乱暴に涙を拭うと、決意を固めたように誠一郎の胸元へ詰め寄った。


「分かったわよ……恵須取へ行けばいいんでしょ! だけど……条件があるわ!」


「条件?」


ちひろは誠一郎の羽織の胸元をキュッと両手で掴み、上目遣いに真っ直ぐ兄を見つめた。その瞳には、かつてないほど真剣で、熱い光が宿っていた。


「絶対……絶対に、すぐに生きて帰ってきて。毎日、そのタブレットで無事を連絡して。……そして、その約束の証として……」


ちひろの頬が、カッと林檎のように赤く染まった。


「くち……口づけ、してほしいの」


「な……ッ!?」


誠一郎の思考が真っ白に消し飛んだ。


(く、口づけだと!? ま、待て……夫婦という建前は、あくまで憲兵や世間の目を欺くための任務上の偽装ではないのか……!? 実の兄妹である我らが、そのような破廉恥な真似を……!)


誠一郎は狼狽の極みに達し、顔中から火が出るほど赤くなって後ずさろうとした。

しかし――ちひろの小さな手は、誠一郎の羽織を絶対に離すまいと強く握りしめられていた。その瞳には、冗談や悪戯の気配など微塵もなく、ただただ「愛する者を戦場へ送り出す女」の、命がけの覚悟と懇願が込められていた。


誠一郎の胸が、激しく締め付けられた。


(ちひろは……本気なのだ。俺をただの兄としてではなく……命を共にする唯一無二の存在として、送り出そうとしている……)


誠一郎は喉を鳴らし、震える両手をちひろの華奢な肩へと置いた。

動揺で心臓が早鐘のように打っていた。


だが、誠一郎は唇を重ねることはしなかった。

代わりに――誠一郎はゆっくりと腰を浮かせ、ちひろの額の前に顔を近づけると、そっと、慈しむように、その透き通るようなおでこへと自らの唇を押し当てた。


ちゅっ……。


静かな和室に、柔らかな微かな音が響いた。


「…………っ」


ちひろは大きく目を見張り、息を呑んだ。

額から伝わってくる兄の温もりと、わずかな震え。唇ではなかったけれど、そこには誠一郎の限りない優しさと、「必ず生きて帰る」という魂の誓いが、痛いほどに込められていた。


誠一郎は顔を離すと、照れ隠しのように頭を掻き、そっぽを向いて呟いた。


「……これで、勘弁してくれ。俺の命はお前に預けた。……絶対に、死なん」


ちひろの胸の奥に、温かい幸福感が満ち溢れた。

ちひろは額にそっと手を当て、花が綻ぶような美しい笑顔を咲かせた。


「……うん! 信じてるわ、お兄ちゃん!」


宿の女中に案内され、二人は別々に湯気の立つ檜風呂へと入り、長旅の汗を流した。


夜の帳が完全に下りた午後10時。

部屋に戻ると、畳の上には一組の敷布団が仲良く並べて敷かれていた。宿の気利かせによる「新婚夫婦」への配慮であった。


前夜の真岡の宿では、誠一郎はちひろに背中を向け、息を潜めるようにして眠った。


だが、今夜は違っていた。


電気を消し、オホーツクの海鳴りが遠く響く暗闇の中。

誠一郎が横たわると、隣の布団からちひろが滑り込んできて、細い腕を誠一郎の胸元へと回してきた。


誠一郎もまた、背を向けることなく、ちひろの柔らかな身体を正面から抱きしめ返した。


互いの心臓の鼓動が、トクン、トクンと重なり合って響く。

血の繋がった兄妹でありながら、過酷な時代の荒波を二人だけで乗り越えていく中で芽生えた、言葉では言い表せない新しい魂の絆。


「おやすみなさい、お兄ちゃん……」


「ああ……おやすみ、ちひろ」


二人は温もりを分け合いながら、静かに、深く寄り添って眠りについた。


時間は静かに過ぎ、北緯五十度の国境に運命の砲声が轟く、昭和二十年八月五日に迎えた


お待たせしました

もうちょっと書きたかったけど、もう1万2千文字になったので…次の話に残るしかなかった

一応1945年8月4日はこれで終わりです、3線作戦はやはりスケールは大きいです

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― 新着の感想 ―
ここしばらく体調不良で感想を書けずに無念でした。 今回もありがとうございます。 小林大佐、本来主人公陣営の目的の前に立ちはだかって怒鳴る喚く人は苦手だけど…。 今回この人の怒り苛立ちは至極もっともな…
こんだけ至れり尽くせりだと、ちょうど産まれる新生児に監視系の名前があやかりそう。いや、どんなふうにもわからんが(笑) 導く系だと猿田彦やら三本脚カラスやらあるが見張るはなんだろ?第三者系だとスクナヒコ…
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