1945年8月3日 バタフライ効果
この作品はフィクションです、実在の人物や団体などとは関係ありません。
このエピソードに時間に矛盾した描写が少し発生しましたので、主な内容を変更しない程度で修正しました。
なお、8月6の今日、活動報告を投稿させていただきましたので、
よかった一読していただければと思います。
【現在のクレジット残額:778,649,580ゼニ】
【ゲーム内で関わった人数:約140,000人】
◇◇◇
長崎駅の出迎え
◇◇◇
1945年8月2日、午後4時45分。
博多からの長い途上を経て、黒田中将を乗せた特別臨時列車は、夕暮れ時の煙に包まれる長崎駅のホームへと静かに滑り込んだ。
改札口近くのホーム上には、事前の電信で博多の横山勇中将から「尋常ならざる勅使の黒田閣下が、あり得ぬ奇跡を携えて向かう」との極秘連絡を受けていた二人の将官が、直立不動の姿勢で待機していた。
長崎要塞司令官・谷口元治郎 陸軍中将、ならびに長崎地区司令官・松浦豊一 陸軍少将である。
「全権勅使・黒田中将閣下! 長崎へようこそおいでくださいました。要塞司令官の谷口であります」
「長崎地区司令官、松浦であります。遠路ご苦労に存じます!」
タラップを下りてきた黒田中将に対し、二人は深々と敬礼を捧げた。
黒田は軽く挙手で応えると、谷口中将の顔をまっすぐに見つめた。
「出迎え感謝する、谷口閣下、松浦閣下。……横山閣下からの電報はお手元に届いておるな?」
「ハッ……。横山中将閣下より『黒田閣下の仰せには一切の異論を挟まず全面協力せよ。さすれば長崎の全軍民が救われる』との電信を頂戴しております」
谷口中将は緊張の面持ちで頷くと、言葉を続けた。
「閣下、本日は長崎市内の料亭にて、ささやかではございますが歓迎の宴とご宿所をご用意させて……」
「無用だ」
黒田は谷口の言葉を遮り、手を横に振った。
「長崎の民が極度の食糧難に喘ぎ、明日の米すらなき悲惨な状態にあることは聞き及んでいる。そのような時に、私が呑気に料亭で膳を囲めるか。出迎えてくれた気遣いには感謝するが、接待の類は一切断る。……それよりも直ちに、長崎市内で最も大きい軍用食糧倉庫へ案内してもらいたい」
「は……食糧倉庫でございますか?」
黒田の毅然とした態度と即座の指示に、谷口中将と松浦少将は顔を見合わせたが、全権勅使の威圧感に押され、即座に手配を行った。
一行が向かったのは、長崎港の岸壁に近接する「長崎陸軍兵糧出島倉庫」であった。
かつては海外からの輸入物資や軍需品が所狭しと積まれていた巨大な赤レンガ倉庫であったが、重い扉を開けると、中は空洞が広がり、埃っぽい匂いが漂うばかりであった。
「……ご覧の通りにございます。港湾物流が完全に止まり、倉庫は底を突いております」
松浦少将が胸を痛めながら呟いた。
「よし、ここなら十分だな」
黒田は倉庫の中央へ進み出ると、ポケットから浩平から授かった「大口物資引換手形」を取り出した。
精米150トン(業務用20kg×7,500袋)
小麦粉100トン(業務用25kg×4,000袋)
上白糖150トン(業務用20kg×7,500袋)
【購入総額:77,500,000ゼニ】
これは長崎市の人口二十万人に対し、明日8月3日から6日までの4日間を完全に繋ぎ止めるための命の糧食であった。
以降は避難開始後で避難経路沿線や避難地にて別で支給する
広島の「避難地にて食糧を配るという吊り下げニンジン」と同じ論理だが、既に極限状態の長崎は、生きるための糧を先に渡さないといけない
黒田は鉛筆を握り締め、手形の空白欄へ暗号コードを一気に書き写した。
ズド・ズド・ズド・ズドドドド―――――ッ!!
「うわあああっ!?」
「な、なんだ! 何が起きた!?」
何もない赤レンガ倉庫内に、地鳴りのような落振音が響き渡り、元々何もなかった床の上に、純白の米袋、小麦粉の袋、そして上白糖の袋が怒涛の雪崩となって出現した。
わずか数十秒の間に、びっしりと積み上がった数百トンの食料の山。
「ひ……こんなに米が……!? 砂糖の山が……!?」
谷口中将と松浦少将は、目の前のあり得ない現実に対し、腰を抜かさんばかりに震え上がった。横山中将からの事前電信で「覚悟しておけ」と言われていたとはいえ、実際に目の当たりにした不条理な奇跡の衝撃は計り知れなかった。
黒田は呆然と立ち尽くす二人に向き直り、静かに告げた。
「谷口閣下、松浦閣下。これが陛下の深きご聖慮と、天の『監視者』殿のお力によって下された糧食だ。明日8月3日の早朝より、長崎全市民へ向けた大規模配給を直ちに開始されたい」
「ハ……ハッ……! 直ちに全軍を動かします……!」
二人の将官は直立不動となり、震える手で黒田へ向けて渾身の敬礼を捧げたのだった。
◇◇◇
当直室の灯りと、妻けいこへの伝言
◇◇◇
1945年8月2日、午後9時00分。
配給の手配を終えた夜、谷口中将らは改めて市内の高級老舗旅館へ黒田を案内しようとしたが、黒田は首を横に振った。
「繰り返し言うが、私に贅沢な宿など無用だ。長崎地区司令部の当直室を一室借りられればそれで十分である」
結局、黒田は長崎地区司令部の殺風景な当直室に荷物を下ろした。
木製の質素なベッドと机があるだけの小さな部屋だ。当直の将兵に「朝まで誰も近づけるな」と命じ、一人部屋に鍵をかけた黒田は、荷物から一枚の黒い板状の端末――浩平から渡されていた「Androidタブレット」を取り出した。
あらかじめ浩平がプログラムを組んでおり、送信側が映像を録画すれば自動的に相手側のタブレットに物理的に同期され、受信側では端末が相手の映像と音声が自発的に再生される設計になっていた。
黒田がタブレットの画面に触れた瞬間、パッと淡い光が灯り、画面いっぱいに広島の自宅にいる妻・けいこの顔が映し出された。
『……あなた。お体は大丈夫ですか……?』
画面の中のけいこが、愛おしそうに画面越しに微笑んでいる。
『監視者様からこの不思議な板をいただき、昼間にはあなたの声が板から届きました。広島は明日から武田山への避難準備が始まり、街中に冷たいお水とおにぎりが配られております。私は無事です。どうか長崎でもお体を大切に……無事のお帰りをお待ちしております』
録画された60秒間のメッセージが終わり、画面が静かに消えた。
黒田の目頭が熱くなった。遠く離れた長崎の地で、愛する妻の無事な姿と声を直接確認できる――それだけで、胸の奥から湧き上がるような力が満ちてくるのを感じた。
「けいこ……無事でいてくれたか」
次の60秒は黒田側の録画シーケンスとなり、黒田はカメラレンズに向かって静かに、力強く語りかけた。
「けいこ、メッセージ確かに受け取った。私は今、長崎に無事到着したぞ。監視者殿と陛下の賜物により、長崎でも明日から大配給が始まる。……長崎の民を救う目配通しを終えたら、すぐに広島のお前の元へ帰る。監視者殿がついているのだ、何一つ心配はいらん。お前も無理をせず、武田山へ避難して待っておれ」
60秒のカウントダウンがゼロになると、動画は自動的に保存され、広島のけいこが持つタブレットへと物理的に同期された※。
補足:通信方式は、ep.34「1945年7月31日 陛下の聖断」の「60秒の往復書簡」に参照
妻との絆を確かめ合った黒田は、タブレットを優しく胸に抱き、当直室の硬いベッドで静かな眠りについた。
◇◇◇
長崎街角の木炭車の列
◇◇◇
1945年8月3日、午前7時00分。
真夏の太陽が昇り始めた長崎の街に、突如として異様な活気が満ち溢れた。
ガソリンの途絶により、後部に巨大なボイラーを積み込んだ「木炭トラック」、さらには兵士たちが引く無数の「大八車」や「リヤカー」の列が、出島倉庫から市街地のあちこちへと繰出していったのだ。
長崎市浦上地区に住む主婦・松本シズは、空腹で泣きじゃくる幼い息子を抱きかかえ、長屋の軒先で途方に暮れていた。
この数日間、配給は完全に途絶え、雑草を混ぜた薄い粥すら満足に作れない状態が続いていた。
その時――。
ガラガラガラッ!
大八車を引いた陸軍兵士たちが、長屋の通りへ飛び込んできた。
「配給だ! 全市民へ配給を行うぞ! 鍋や袋を持って出てこい!」
兵士の怒号のような大声に、長屋の住人たちが一斉に這い出てきた。大八車の荷台には、なんと今まで見たこともないような純白の米袋と、小麦粉の袋が山積みされていた。
「ひ……兵隊さん、それはいったい……?」
シズが恐る恐る声をかけると、若い兵士が汗を拭いながら、スコップで眩いばかりの白米をシズの差し出した金属鍋いっぱいにすくい入れた。
「奥さん、一人一日白米2合(約300g)と、小麦粉、それから上白糖だ! 陛下から賜った命の糧食だぞ! 今日から四日間、毎日十分な量が配られる! 遠慮せず受け取れ!」
「あ……あ……っ! お米……! こんな真っ白なお米が……!」
家族4人分で鍋いっぱいに盛られた白米の輝きを目にしたシズは、その場に崩れ落ち、ボロボロと大粒の涙をこぼした。周りの住民たちも、砂糖の袋を抱きしめて「ありがたや、ありがたや」と天を仰いで泣き叫んでいた。
「お母ちゃん! お米のごはんだね! 甘いお砂糖のごはんだね!」
「そうだよ……! 今すぐ炊いてあげるからね……!」
長崎の街のあちこちで、炊飯の白い煙が立ち上り、久しく途絶えていた白米の甘い香りが、夏の空へと広がっていったのだった。
◇◇◇
避難地の選定
◇◇◇
1945年8月3日、午前9時00分。
長崎地区司令部・司令官室。
朝の大配給が順調に始まった報告を受け、黒田中将、谷口要塞司令官、松浦地区司令官の三人が、巨大な長崎市の防衛地図を囲んでいた。
黒田は浩平から渡されていた『決定版・長崎原爆写真集』を取り出し、二人の将官の前に広げた。
そこには、壊滅した浦上地区の悲惨な光景と、「八月九日 午前十一時二分 浦上松山町上空にて炸裂」という戦慄の説明が記載されていた。
「な……なんだこの写真は……! 浦上天主堂がへし折れているではないか!?」
「十一時二分……!? これが、一週間後に長崎へ落とされるという新型爆弾の惨状か……!」
谷口中将と松浦少将は顔を見合わせ、背筋に冷や汗を流した。
「そうだ」
黒田は地図の浦上地区(松山町)を指で強く叩いた。
「この松山町が爆心となる。長崎市中心部、特にこの爆心地から最低でも7キロメートル以上離れた場所へ、全市20万の住民と軍部隊を緊急避難させねばならん。谷口閣下、松浦閣下。長崎の土地勘に詳しいお二人にお聞きしたい。どこが最も適切な避難地となる?」
二人の将官は真剣な眼差しで地図を食入るように見つめた。
谷口要塞司令官がまず口を開いた。
「黒田閣下。長崎はご存知の通り、浦上川沿いの南北に細長い『鉢摺状』の地形をしております。示された爆心となる浦上から南の市街地(長崎駅周辺や浜町)は、距離が4〜5キロしかなく、直撃を受ければ山陰にならぬ限り熱線と爆風で全滅いたします」
続いて松浦地区司令官が指を動かした。
「爆風を物理的に遮断する山並みがあり、かつ20万人を収容・疎開させられるルートとなると……候補は三つございます。
第一に、東側の金比羅山を挟んだ『東長崎地区(矢上・日見)』。浦上から日見峠を越えて東へ約8〜10キロ離れており、急峻な山々が爆風を完全に遮断します。
第二に、浦上川を北上した大村湾に面する『時津・長与地区』。北へ約8〜10キロ離れており、街道が生きているため徒歩避難が容易です。
第三に、南東の山を隔てた『茂木港周辺』。ここも約七〜八キロ離れており、海の兵站ルートが使えます」
黒田は三つの候補地を見比べ、即座に決断を下した。
「よし。主要避難地を『東長崎地区(矢上・日見)』および『時津・長与地区』の二方向に分散指定する! 山を壁として利用し、原爆の熱線と爆風から市民の命を完全に護るのだ!」
「ハッ! 直ちに疎開計画を策定し、二日後の8月5日より全市民への避難勧告を発令いたします!」
二人の将官の力強い返答を聞き、黒田は深く頷いた。
浩平から授かった莫大な糧食と未来の知識――それらを武器に、長崎を「第二の地獄」にさせないための大避難作戦が、ここに始動したのだった。
【現在のクレジット残額:701,149,580ゼニ】
【ゲーム内で関わった人数:約149,000人(new: 長崎配給により直接、間接な救命数とその家庭への影響+9000人)】
◇◇◇
蝶が羽ばたくことで変わてしまった未来
◇◇◇
1945年8月3日、午前11時00分。
橘誠一郎とちひろを乗せた双発輸送機が、既に2時間も前から北海道の空へと無事に飛び立った。
画面越しに北の大地へ繰り出していく配給の車列や、安堵する千歳基地の兵士たちの姿を見届けた浩平は、自室の椅子に深く背をもたれかけ、安堵の息を漏らした。
先ほど藤堂中将からの要請に応じて、避難用の物資も支給した
(よし、北方の兵站の仕込みも、誠一郎への『自律思考』の宿題も、なんとか形になったな……)
コーヒーカップを手にとり、画面の監視スクリプトのログに目をやったその時――。
浩平の脳裏に、氷のような冷たい閃光が走った。
「……待て、今日は1945年の8月3日……昨日は、1945年8月2日…あれ?なんか大事な事を忘れた気が……」
浩平はカップを握りしめたまま、その場で固まった。
「ゲーム」のために読み漁った大量の歴史資料やwikipediaのページ。その記憶の引き出しが、唐突に脳内で大きな警報を鳴らし始めたのだ。
『1945年8月2日 未明 ―― B-29約170機による八王子空襲』
史実では、八王子市街地の八割以上が焦土と化し、四百人以上の市民が爆撃の犠牲になったはずの日付だった。
8月3日の朝現在、浩平がアクセスできるマップは
札幌千歳広域、東京広域、広島や呉市広域、福岡広域、長崎広域に限られている
これらの都市に対して、浩平の張り巡らせた監視システムは、日本上空に接近する米軍機やソ連軍機をリアルタイムで自動検知し、もし侵入すればリアル世界のPC警告音が鳴る仕組みになっていた。だが、一昨日の夜から今朝にかけて、関連のロゴ出力もなく、一度も警告音は鳴っていない。
「……ログの出力エラーか? いや、システムは正常に動いていたはずだ……!」
浩平は青ざめた顔でキーボードを乱打し、8月1日の深夜から2日未明にかけてのログファイルを精査した。
だが、どれほどログを辿っても、八王子上空にB-29の影すら記録されていなかった。
昨日の8月2日の配給時も御前会議中も、空襲が話題になる事もなかった
浩平は大急ぎでFPVカメラを操作して、八王子上空へカメラ視点を移動した。
画面に映し出されたのは、昨日と変わらぬ、夏の日差しを浴びる八王子の穏やかな街並みだった。焦土も、黒煙も、爆撃の痕跡もどこにも存在しない。
「爆弾は落ちて……ない……?」
自分の怠慢で誰かを死なせずに済んだのだという安堵が湧き上がったのも束の間、次の瞬間、浩平の全身を激しい悪寒が襲った。鳥肌が立ち、胃の奥がキュッと締め付けられる。
「歴史が……ズレた……!?」
頭の中の歯車が猛烈な勢いで回転を始める。
(なぜだ!? 俺が今までやってきた大規模な介入は、呉の医療・配給支援、帝都のクーデター阻止、市ヶ谷でのプロジェクターで玉姿上映、そして皇居からの大配給……基本的には人命救助と兵站の補給だけのはずだ! なぜそれが、マリアナ諸島の米軍司令部(第20航空軍)の爆撃計画にまで影響を与えたんだ!?)
浩平は頭を抱え、必死で原因を手繰り寄せようとした。
(市ヶ谷の現場で飛び交った軍用無線か……? 柳瀬一真の逃亡劇か……!? あるいは、200インチのスクリーンの昭和天皇のフルカラー映像を目撃した中立国スパイの諜報電信か……! どこで米軍の行動予測が狂ったんだ!? 人を救うために振るった俺の動きが、米軍の作戦判断という歴史の巨大な歯車を書き換えてしまったというのか……!?)
これまで浩平が持っていた最大のアドバンテージ
それは「いつ、どこで、何が起きるか」をあらかじめ知っているという、神の視点だった。
だが、今やその「未来の知識」は完全に崩れ去り、牙を剥き始めていた。
「……待てよ。八王子空襲が消えたということは……」
浩平の唇が、恐怖で細かく震えた。
「8月6日の広島、8月9日の長崎の『原爆投下スケジュール』だって……史実通りの時刻、ルート、方法で来ない可能性があるんじゃないか……!?」
原爆投下そのものが中止になるなどという甘い幻想は、到底抱けなかった。
アメリカはすでに巨額の予算を投じて原爆を完成させ、テニアン島に実弾を持ち込んでいる。投下という結論自体は変わらないはずだ。
だが、もし投下日時が『早まった』としたら? あるいは、標的が変更されたり、投下ルートがズレたりしたら……?
「広島の20万人の避難は、今日8月3日から始まったばかりだ……! もし明日や明後日に前倒しされたら、避難が間に合わない……!」
浩平はデスクを強く叩き、己の油断を激しく後悔した。
「史実の知識に頼るのはもう終わりだ……! これからはリアルタイムの観測とスクリプトだけが頼りだ! 広島と長崎上空の監視網を二重、三重に強化する! 一機たりとも、異様な影を見逃さない……!」
浩平は目つきを一変させると、自作のPython監視スクリプトのコード書き換え作業へと猛烈な勢いで取り掛かった。
◇◇◇
柳瀬一真
◇◇◇
時間は数日前に遡り――1945年7月31日、夕刻。
東京・市ヶ谷台の陸軍省庁舎。
プロジェクターから投射された昭和天皇の凄絶なフルカラー映像と、響き渡る御声によって反乱軍の将兵が涙を流してひれ伏したあの大混乱の隙を突いて――。
一人の男が、一般兵士の軍服を奪い、闇に紛れて市ヶ谷の敷地から脱出していた。
近衛歩兵連隊の反乱を陰で操っていた男、柳瀬一真 陸軍中佐である。
夜の路地を影のように走り抜けながら、柳瀬の視界は激しい憎悪と怒りで赤く染まっていた。
(……畑俊六。あの老いぼれが……すべてを台無しにしおった)
柳瀬はつい最近まで、広島の第二総軍司令部において畑元帥の参謀として仕えていた。だからこそ、彼は知っていたのだ。広島と呉で次々と発生した「不可解な奇跡」の数々を。
出所不明の膨大な白米、未来の特効薬、目に見えぬ透明の盾、そして何より――あの「敗北を告げる動く絵(未来の映像)」。
(あれは毒だ……! 我々の戦意を削ぎ、皇国を内側から腐らせる悪魔の毒だ……! 『我々はまだ戦える』『特攻の誠を尽くせば神風は吹く』……そう信じて散っていった若い英霊たちの死を、あの男は『敗北の未来』という幻影で汚したのだ……!)
畑元帥が上京したと知った時、柳瀬の胸を襲ったのは冷たい絶望であった。
元帥が陛下にあの「偽りの未来の映像」を見せれば、皇国は戦わずして膝を屈することになる。自分たちが信じてきた「神の国・日本」という不可侵の意志が、根底から崩壊してしまう。
だからこそ、市ヶ谷の近衛屯所で若い将校たちを扇動したのだ。
『畑元帥は敵の力に魅入られた! 未来の偽りの敗北を見て、戦う意思を失ったのだ! 陛下がその絵をご覧になれば、皇国は滅びる! たとえ同胞の血を流そうとも、私はやる!』
だが、作戦は失敗した。
あの市ヶ谷の壁一面に浮かび上がった天皇の「玉姿」――あれを見た瞬間、部下たちの戦意は完全に粉砕されたのだった。
「クソッ……! クソッ……!」
血走った目を怒らせ、柳瀬は横浜方面へと向かう闇の夜道を歩き続けた。
彼の脳裏に、昨年のフィリピン・ルソン島での地獄が鮮やかに蘇っていた。
1944年秋、軍務局の視察官としてルソン山中へ入った柳瀬は、米軍の圧倒的な物量の前に、一個中隊を率いて完全な包囲網に閉じ込められた。
糧食は尽き、マラリアと飢餓で兵士たちは次々と絶命していった。
最後の夜、生き残ったわずか一七名の兵士を前に、柳瀬は言った。
『我々はここで玉砕する。陛下のために、最後の一兵まで戦い抜くのだ』
しかし、明けていく絶望の朝、泥にまみれた若い兵士が、震える声で呟いたのだ。
『中佐殿……俺たちは、もう……戦う意味が、わかりません……』
その言葉は、柳瀬の魂に決定的な亀裂を入れた。
中隊は全滅し、自身も重傷を負って生還した柳瀬の中で、歪んだ絶対的信念が完成した。
(現実など、信じるな。……信じられるのは、神性と、玉砕の美学だけだ。あの未来の映像は、ルソンで死んでいった兵たちの死を『無駄死に』だと嘲笑う毒だ……! 絶対に認めん……!)
◇◇◇
暗号電信の波紋
◇◇◇
1945年8月1日、午前9時05分。横浜駅。
東京の指名手配で逮捕されるを避けるため、柳瀬は東京駅を避けて早朝の横浜駅までたどり着けた。
憲兵の厳しい警戒線を潜り抜け、柳瀬は事前に用意していた偽造身分証を提示した。
「陸軍歩兵大尉・山口真治。中部軍管区への連絡業務につき、門司行き長距離列車に乗車する」
顔を伏せ、無精ヒゲを生やした柳瀬の精悍な面構えと、堂々とした立ち振る舞いに、若い憲兵は疑いもなく敬礼を返して改札を通した。
ガタゴトと音を立てて走り出した門司行きの列車内で、柳瀬の体は微かに震えていた。
(……またか。俺はまた……『遅すぎた』のか)
直接広島へ戻れば、市ヶ谷の騒乱の首謀者として指名手配された憲兵網に引っかかるのは明白だった。
10数時間の乗車ののち、柳瀬は途中の名古屋で下車し、潜伏しながら広島の仲間たちへ連絡を取る作戦へと切り替えた。
同日、午後5時15分。名古屋駅・陸軍駐屯隊本部。
名古屋駅で下車した柳瀬は、堂々とした歩調で駅構内の陸軍駐屯隊本部へと足を踏み入れ、隊長である陸軍少佐に向き直った。
「軍務局の山口大尉だ。急ぎ広島の第二総軍連絡室へ緊急打電を行いたい。軍用HF(短波)無線機を借りたい」
不審な手ぶらの大尉に対し、駐屯隊長は怪訝な視線を向けた。
「山口大尉殿。緊急とはいえ、本部の許可なしに無線機をお貸しすることは……」
「重大な連絡通信だ! 貴官は責任を取れるのか!?」
柳瀬の眼光に気圧された駐屯隊長は、やむなく立ち会いのもとで無線室の扉を開けた。
柳瀬はヘッドセットを装着し、送信機のダイヤルを広島の周波数へと合わせた。モールス信号ではなく、直接マイクに語りかける音声通信である。
「こちら名古屋中継点、山口。広島第二総軍総務課・佐藤少佐へ連絡。……『本日、柿の出荷作業は天候不順により全面中止となった。当方は当地にてしばらく静養に入る。なお、そちらの秋の収穫準備(避難)については、害虫の発生(風説)に十分留意されたし』……繰り返し伝える……」
一見すると、なんてことのない農作物や日常の連絡を装った隠語の羅列。
立ち会っていた駐屯隊長も「何かの物資連絡か」と首を傾げる程度であった。
しかし、この不自然な言葉の中に散りばめられたあらかじめ定められた暗号コードを解読すれば、その意味は極めて凶悪なものだった。
『――クーデター任務は失敗した。私はしばらく名古屋に潜伏する。広島で進められている全市民避難作戦に対し、“軍による強制連行だ”等の不穏な風説を流布し、避難を全力で妨害せよ――』
自分を裏切った畑元帥への執念深き復讐、そして広島の「全市民避難」を崩壊させようとする柳瀬の執念の電信であった。
しかし柳瀬一真はこの時、思いもしなかったのだ。
彼が発した高出力のHF(短波)無線信号が、太平洋上の米海軍通信情報分析部隊(ULTRA)ならびにマリアナ諸島の第20航空軍・情報分析室によって、完全にリアルタイムで傍受・解読されていたことを。
◇◇◇
羽ばたく風の行方
◇◇◇
1945年8月1日(米東部時間)
ワシントンD.C. 陸軍省暗号解読局「MAGIC」。
暗い地下室で、何台ものタイプライターが甲高い金属音を響かせていた。
日本軍の主要暗号「パープル」および陸海軍の短波通信を解読する最高機密部門の分析官たちは、この24時間で東京から飛び交った異常な電信の数々に頭を抱えていた。
「……また出ました! ナゴヤの陸軍駐屯地からヒロシマ方面へ発信された隠語電信です」
若手分析官が差し出したシートを、暗号解読局長官がひったくるように受け取った。そこには、先ほど名古屋から柳瀬中佐が発した暗号の解読結果が印字されていた。
『……トウキョウでの政変失敗……ナゴヤに潜伏……ヒロシマでの混乱工作……?』
「東京での政変だと……? 昨日からの通信レポートをすべて突き合わせろ!」
分析官たちが慌ただしく過去数十時間の傍受記録(SIGINT)を棚から引っ張り出した。
7月31日夜から8月1日にかけて、市ヶ谷の陸軍省や宮城周辺の各部隊から飛び交った電信は、どれも信じがたいほど錯乱していた。
『市ヶ谷台ニ巨大ナル光現ル』
『陛下ノ御声ト御姿、空中ニ投影セラル』
『反乱部隊ハ神威ニ打チ打たれ平伏、クーデターハ完全ニ鎮圧セリ』
「『空中への巨大な光』『天皇の直接介入』……? 日本の陸軍将校どもは狂狂したのか? それとも何かの欺瞞工作か?」
長官が眉をひそめたその時、赤電話のベルが甲高く鳴り響いた。
電話の主は、戦略情報局(OSS)のトップであった。
『ワシントン、至急のHUMINT(人間諜報)が入った。東京の中立国大使館に潜伏させている諜報員からの暗号打電だ』
電話口の声は、いつになく緊張でこわばっていた。
『昨日夕刻、東京・市ヶ谷の陸軍庁舎において、日本軍が未知の超高精細・フルカラー投影兵器、および大音響システムを実戦投入したとのことだ。我々の最新35ミリ映画フィルムを遥かに凌駕する「あり得ない画質」で、昭和天皇の姿と声が巨大スクリーンに投影されたという』
「……なんだと……!?」
『それにより、陸軍主戦派が企てたクーデターは一瞬で鎮圧された。現在、東京中枢の警備体制は異常な変容を見せており、天皇主導の和平派が完全に実権を握りつつある……!』
◇◇◇
ホワイトハウスの決断
◇◇◇
SIGINT(信号傍受)とHUMINT(スパイ情報)というふたつの最高機密情報が交差し、ホワイトハウスの大統領執務室へと持ち込まれた。
ハリー・S・トルーマン大統領と、ヘンリー・スチムソン陸軍長官が、緊迫した面持ちで机の上の緊急報告書を見つめていた。
「スチムソン……これは確かな情報なのか? 日本軍が未知の技術を持ち出し、天皇自らが主戦派を叩き潰して和平に動いているというのは」
「確実です、大統領閣下」
スチムソン陸軍長官は深々と頷き、眼鏡の奥の目を光らせた。
「東京で起きたクーデターは失敗に終わりました。今や日本の最高指導部は、天皇を筆頭として明確に『終戦』へと舵を切ろうとしています。……ですが、彼らの足取りは極めて脆い」
スチムソンは地図上の「東京」と「八王子」を指で叩いた。
「明日、8月2日の未明に予定されている第20航空軍の『八王子大規模空襲』……これを今、予定通り実行して首都圏を焦土とすればどうなるか。せっかく芽生えた日本の和平派の足並みが乱れ、『アメリカは全無条件降伏以外認める気がない』と主戦派が息を吹き返す危険性があります」
トルーマンは腕を組み、重い溜息をついた。
「……分かった。マリアナ諸島のルメイ少将へ即刻打電せよ。『政治的配慮により、8月2日未明の八王子および東京周辺への大規模爆撃は急遽保留・見合わせとする。偵察と情報収集に切り替えよ』とな」
「ハッ、直ちに司令部へ通達いたします」
こうして、ワシントン最高首脳部による「和平派支援」のための政治的総括命令が発令された。
浩平が自ら実行した市ヶ谷でのプロジェクターの御姿上映とクーデター阻止が、意図しないままホワイトハウスを動かし、史実の八王子空襲を歴史の表舞台から消し去った瞬間であった。
だが、歴史の修正力は、これで終わりではなかった。
同日夜のグアム島・第20航空軍司令部。
カーチス・ルメイ少将は、東京周辺への爆撃中止命令に忌々しそうに葉巻を噛みちぎったが、すぐに次なる作戦卓へと視線を移した。
「東京への手出しが禁じられたか……。ならば、テニアンの『509混成部隊』の特殊作戦はどうなっている?」
傍らに立つ参謀が、先ほどのペンタゴンからの解読レポートを広げた。
「将軍、先ほど名古屋から打電された逃亡将校(柳瀬)の暗号電信の分析が完了しました。……彼らは『広島で何らかの異変が起きている』と警戒しており、広島の補給網に対して何らかの撹乱工作を試みようとしています」
「広島に異変だと……?」
ルメイの目が怪しく光った。
「……原爆(マンハッタン計画)の投下目標である広島で、不穏な動きがあるというのだな?」
参謀が頷く。
「はい。日本軍内部で『広島』を巡る混乱や情報戦が展開されている可能性があります」
ルメイは腕を組み、冷徹な笑みを浮かべた。
「ふん……好都合ではないか。日本軍が混乱していようと関係ない。我々の目的は『新兵器(原爆)の威力を世界とソビエトに見せつけること』、そして『その破壊効果を正確に測定・評価すること』だ。広島というターゲットの価値は変わらん」
ルメイは卓上の原爆投下計画書を指で叩いた。
「広島への特殊爆撃命令は続行する! ただし――日本軍内部の撹乱工作や、広島周辺の防衛体制の変動、さらには気象条件の再検証を徹底的に行え。必要とあれば、投下予定日(8月6日)にとらわれず、天候と偵察結果次第で『投下日程の前倒し、あるいは数日程度の延期』も辞さない構えで準備を進めよ!」
「イエス・サー! 第509混成部隊のポール・ティベッツ大佐へ直ちに伝達します!」
柳瀬一真が放った復讐の暗号電信は、八王子空襲を消し去る一方で、米軍に「広島の異常」を強く意識させ、原爆投下部隊の警戒度を極限まで引き上げてしまった。
史実の「8月6日 午前8時15分」という確定された未来は崩れ去り、いつ・いかなるルートで原爆が飛んでくるか分からないという、真の「予測不能の災害」が、避難を始めた広島の上空に静かに垂れ込めていったのだった。
おまたせしました
真のラスボスは柳瀬一真ではなく、ズレた歴史です
正直作者の私も物語中の8月2日の八王子空襲に見落とした
だからこうした後付け的な描写で物語を補完させてしまい、本当に申し訳ございません。
ただ未来の情報は信じられなくなるという設定は、元々考えていた
なお、「8月1日:富山大空襲、新潟・長岡空襲」は、浩平のマップアクセス範囲外だった事や、その頃はまだ東京の要人から信頼を完全に勝ち取れなかったため、阻止は不可能でした
もしこれらの地域に住んでいる読者がいれば、作中でふるさとを救えなかった事、本当にすみません
ただ、作中でこれから来るの8月5日の前橋空襲、高崎空襲、中央線列車への機銃掃射は、浩平は何とか阻止してくれるでしょう
「阻止すれば沢山の命は救えるが、もしこれがきっかけで広島の8月6日や長崎の8月9日が変わったら…」
ときっと浩平も躊躇するでしょう
一体どうなるか、是非、今後の物語の展開にご期待ください




