1945年8月1日 金の延べ棒と偽装の夫婦
この作品はフィクションです、実在の人物や団体などとは関係ありません
【現在のクレジット残額:907,845,180ゼニ】
【ゲーム内で関わった人数:約123,900人】
◇◇◇
献立の注文表
◇◇◇
1945年8月1日、午後5時50分。
ソ連の侵攻を阻むため、南樺太へ橘誠一郎を少佐に昇進させて特使として急派する手続きを終えた頃、薄暗い地下室の空気には、あっという間に夕食前の気配が満ち始めていた。
昼食の際、昭和天皇から「次からはもっと簡素な食事を頼みたい」という強い要望があったため、現代の自室にいる浩平は、ゲーム内ショップの弁当カテゴリーを開いた。画面に並ぶ600ゼニから800ゼニまでの手頃な弁当ラインナップの画像をいくつか集め、ゲームのインベントリ内のプリンターからA4の用紙に印刷した。
浩平はその「弁当注文表」を作戦机の上へ転送した。用紙の一番下には、現代の文字で案内を書き添えておいた。
『未来の簡素な弁当です。お好きな物を選んでください』
用紙に並んでいたのは、現代の市井の人々が日常的に口にする、ごくありふれた品書きだった。
カツ丼(600ゼニ)
チキン南蛮弁当(600ゼニ)
肉野菜炒め弁当(600ゼニ)
ハンバーグ弁当(600ゼニ)
幕の内弁当(700ゼニ)
牛焼肉弁当(800ゼニ)
「ほう……。これが未来の、一般的な民の食事か」
畑元帥が紙を手に取り、写真付きの鮮明なメニューを興味深そうに眺めた。
続いて覗き込んだ阿南陸相や森中将たちも、手頃な価格帯ながらどれも肉や野菜がたっぷり入った美味そうな写真に目を奪われていた。戦時下の日本においては、この「簡素な弁当」ですら、十分に贅沢な御馳走に見えた。
その中で、木戸内大臣が写真の横に記された数字に目を留め、不思議そうに声を漏らした。
「監視者殿。不躾ながら質問ですが……将来の日本は『円』ではなく『ゼニ』という貨幣が使われているのですか」
その疑問をモニター越しに拾った浩平は、慌てて畑元帥のタブレットにメッセージを送り、木戸内大臣へ伝えるよう求めた。
『木戸内大臣へ
いいえ、将来の日本の通貨も変わらず「円」です。このゼニ表記は、私が現世で物を購入する際に用いる特殊な通貨に過ぎません。基本的には1ゼニが1円に相当します。未来の日本において、安いお弁当は500円程度、1000円を超えると高級な部類に入ります。 ――監視者 浩平』
「なるほど、物価の基準が我々の時代とは随分と異なるのだな」
木戸内大臣は納得したように頷いた。
熟考の末、昭和天皇と木戸内大臣は焼き魚や煮物がバランスよく入った700ゼニの「幕の内弁当」を選択した。
一方、体格の良い陸軍の軍人たちは、一斉に600ゼニの「カツ丼」を選んだ。実は、田中大将は一瞬だけ800ゼニの「牛焼肉弁当」に惹かれたような表情を見せていた。しかし、天皇陛下が選ばれた品より高価格のメニューを自ら進んで注文するのは避けるべきだという、宮中ならではの暗黙の了解が働いたようだった。結局、陸軍の4人は揃ってカツ丼に落ち着いた。
好みが決まったのを確認した浩平は、ショップからカツ丼4つと幕の内弁当2つを購入し、温かい状態のまま作戦机の上へと転送した。
地下室の白い光の下、6人は静かに箸を進めた。
カツ丼を選んだ阿南陸相や田中大将は、甘辛いタレが染み込んだ分厚い豚カツと、絶妙に固まった卵の味わいに圧倒され、無言で貪るように口へと運んでいた。戦時中の配給では到底味わえない濃厚な肉の旨味が、疲弊した身体に染み渡っていく。
昭和天皇もまた、未来の細やかな味付けが施された幕の内弁当の焼き魚を、どこか安心されたように穏やかな表情で召し上がっていた。
◇◇◇
都市運営の現実
◇◇◇
食事が大方に終わり、一同が一息ついた頃、昭和天皇が静かに居住まいを正され、虚空に向けて語りかけられた。
「監視者殿。朕は、あなたが広島や呉の民を救うために尽力してくれた話を畑から聞いている。あなたにこのようなことを頼むのは実に心苦しく、恥ずかしい限りなのだが……どうか、我が帝都に暮らす民たちにも、このような美味しい食事を、飢えをしのぐための糧を届けてもらう方法はないだろうか」
民を想う、切実な悲願だった。
モニターの前でその言葉を受け止めた浩平は、深く腕を組んで考え込んだ。
「東京の全員を救いたいという陛下の願いは、俺だって叶えてあげたい。だけど、現実の数字はそんなに甘くないんだ……」
浩平の現在の所持金は約9億ゼニ。呉の街で行った救援の実績から計算すると、現在350万人もの人口を抱える東京の全員に対し、1日あたり2000キロカロリーを基準とした最低限の食料を支給するだけで、1日の総額は軽く4億ゼニを超えてしまう。
たとえ1日に1億2千万ゼニのデイリーボーナスを受け取ったとしても、完全に収支が破綻し、3日と持たずに浩平の全財産が底を突く。これが本当の「都市運営」の冷徹な現実だった。個人が抱えるリソースでは、到底持続できない物量なのだ。
「ここは、見栄を張らずに正直な現状を伝えるしかないな。この国を動かしているトップが揃っているんだから、財政を一緒に構築するべきだ」
浩平はキーボードに向かい、現状の数値を克明に記した長文の手紙を執筆し、作戦机の上へと転送した。
ストン。
届けられたA4の用紙を、木戸内大臣が厳粛な面持ちで読み上げ、昭和天皇と将官たちがそれを凝視した。
『陛下へ
東京が深刻な食糧難に陥っていることは重々承知しており、私自身も皆を助けたいと考えております。
しかし、残念ながら、私が皆さんのいる時代へ物資を購入する際にも、先ほどの「ゼニ」という通貨を用いる必要があります。
私の現在の所持金は約9億ゼニで、1日あたり1億2千万ゼニの収入がありますが、これを350万人の東京市民の食料に変えた場合、1日だけで4億5千万ゼニ近くが必要となります。つまり、私の現在の財産では、2日分を維持するのが限界です。
以下が、東京の市民全員を1日養うために必要な最低限の食料の分量と、その現代での購入費用です。
精米(業務用20kg袋)/50,000袋/単価5,000ゼニ/総額250,000,000ゼニ(計1000トン)
業務用小麦粉(25kg袋)/30,000袋/単価2,500ゼニ/総額75,000,000ゼニ(計750トン)
業務用上白糖(20kg袋)/30,000袋/単価4,000ゼニ/総額120,000,000ゼニ(計600トン)
※現在の東京の人口約350万人に対し、1人あたり米2合、小麦粉200グラム、砂糖170グラムの計算です。
しかし、資金さえ潤沢にあれば、私は量の制限なく無限に現代から食料を購入することが可能です。
もし、各財閥からの供出や、軍部が管理している隠し金塊などがあれば、私の権能で「ゼニ」へと両替し、民の日々の食料や薬に変えることができます。
なお、こちらの世界の史実上、戦後の東京湾に大量の金の延べ棒が投げ捨てられた事がありました。
――監視者 浩平』
手紙を読み終えた地下室の面々は、そのあまりにも巨大な物量と金額の現実に、ただただ圧倒されていた。しかし同時に、「資金さえあれば無限に物資が湧き出る」という事実の重みを、即座に理解した。
「木戸。――もはや、躊躇している時間はない」
昭和天皇が毅然とした声で命じられた。
「ただちに手続きをとり、宮内省の金庫に保管されている金地金をすべて搬出しなさい。国の財産を切り崩してでも、まずは民の命を繋ぐ資金とするのだ」
「ハッ、恐れ多くも、直ちに手配いたします!」
木戸内大臣が深く頭を下げる。
「それから、木戸。手紙にある通り、監視者殿の力を最大限に活かすには、国全体の資本を集めねばならん。明日の朝、三井、三菱、住友、安田といった主要な財閥の総帥たちを至急、皇居内へ召集しなさい。朕が自ら、彼らに協力を求める」
「御意にございます。宮内省の特設回線を使い、今夜中に必ずや全総帥陣への連絡を完了させます」
木戸内大臣の目が、政治家としての鋭い光を取り戻していた。未来の技術を対価として、日本の全財産を食料へと変換する壮大な兵站工作が、天皇の決断によって瞬時に始動した。
◇◇◇
東京湾の金塊
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しかし、昭和天皇の命令はそれだけでは終わらなかった。
天皇陛下は手紙の一行――『こちらの世界の史実上、戦後の東京湾に大量の金の延べ棒が投げ捨てられた』という記述をじっと見つめられた後、ゆっくりと顔を上げ、きわめて厳しい眼差しを阿南陸相へと向けられた。
「阿南。……ここに書かれている『軍部が隠した金の延べ棒』とは、一体何のことだ。戦後、処分に困って東京湾に投げ捨てるほどの金塊を、陸軍は一体どこに眠らせているのだ」
統帥権者からの、容赦のない追及だった。
鋭い視線を正面から浴びた阿南陸相は、額から滝のような冷汗を流し、大柄な身体を縮こまらせて平伏した。
「そ、それにつきましては……! 恥ずかしながら、陸軍が戦費の予備、あるいは物資調達の裏資金として、民間の貴金属を回収したものや、現地で徴発した金地金を、極秘裏に複数の倉庫や施設に保管していることは事実でございます……。しかし、それを戦後に海へ投げ捨てるなどという不祥事、到底信じ難く……!」
阿南陸相は必死に弁明の言葉を紡いだが、昭和天皇の冷徹な眼差しは変わらなかった。
「降伏の混乱に乗じて財産を隠蔽し、挙句の果てに海に捨てて無に帰すというのか。民がこれほど飢えているというのに、軍の身勝手な都合でそれほどの富を死蔵させておくことは、断じて許されん。阿南、これらをすべて吐き出し、民の糧に変えなさい」
陛下の強い叱咤に、阿南陸相はついに覚悟を決めた。床に深く額を擦り付け、大声を上げて協力を表明した。
「ははぁッ……! 申し訳ございませぬ! 直ちに陸軍省の全部署、および憲兵隊に対して厳命を下し、現在秘匿されている金地金、貴金属の類をすべて洗い出させます! 一本残らず宮中に集積させ、監視者殿の手を経て民の糧とすることを、ここに誓い奉ります!」
現代のモニターの前でその様子を見ていた浩平は、深く息を吐いた。
「やっぱり、東京の全員、ひいては日本全国の人間を腹いっぱい食わせるなんて大仕事は、現地の政府や軍、そして財閥の全面的な協力がないと到底不可能だな。俺の側でも、地道に人を救ってゲームに関わる人数を増やし、デイリーボーナスを拡大していくしかない。できることをやるだけだ」
地下室の中は、一転して激しい活気に包まれ始めていた。
阿南陸相は直ちに附属室の隅にある宮内省の軍用電話に飛びつき、関係各署の次官や憲兵司令部に向けて、隠匿物資の緊急接収命令を怒鳴るような声で伝達し始めた。
木戸内大臣は、宮内省の金庫室へ直接赴いて金塊の搬出手続きを行うため、そして各財閥の総帥たちへの緊急連絡を入れるために、足早に部屋を飛び出していった。
臨時の作戦会議を終えた畑元帥は、この歴史が根底からひっくり返っていくカオスな光景を、どこか楽しそうに、静かに笑みを浮かべながら見守っていた。
その傍らでは、森中将と東部軍の田中大将が早くも机を囲み、「もし明日以降、皇居の広場に大量の米や小麦粉が出現した場合、東部軍と近衛師団のトラックをどう連動させ、都内の各所や病院へ分配すべきか」という、具体的な兵站の運搬ルートについて熱心に打ち合わせを始めていた。
「よし、東京のこれからは彼らに任せて大丈夫そうだな。資金が集まる明日までは、これ以上ここでやれることはない」
浩平はマウスホイールを回し、視界を日比谷の地下壕から切り離した。
これからの数日間ですべての決戦を迎える地であり、橘中尉がこれから少佐として北へと旅立つ出発点――広島の第二総軍司令部へと、カメラの焦点を再び回した。
◇◇◇
二階級特進
◇◇◇
1945年8月1日、午後6時30分。
宮城の地下で決定された超法規的な人事は、すぐさま広島の第二総軍司令部へと影響を及ぼしていた。
長崎への全権勅使に補任され、陸軍中将へと即日進級した黒田重徳は、明朝からの現地移動に向けて慌ただしく身辺の整理を始めていた。黒田は長官室の隣にある執務室へ戻ると、すぐさま自身の副官である橘誠一郎中尉を呼び出した。
橘中尉はまだ、宮中で行われた御前会議の内容も、自身にこれから下る途方もない恩命のことも何も知らない。いつも通り直立不動の姿勢で敬礼を捧げる副官に、黒田は穏やかな、しかしどこか引き締まった声音で告げた。
「橘、急な話だが、明朝から私と共に長崎へ移動してもらう。同行の準備を急ぎなさい」
「長崎でありますか?」
橘中尉は不意を突かれたように目を瞬かせた。広島の全住民避難計画が数日後に迫るこの重大な時期に、なぜ参謀長が長崎へ赴くのか、彼には理由が分からなかった。黒田は困惑する若き副官の胸中を察し、その肩を軽く叩いて宥めた。
「安心しなさい。長崎へ行っても、そこには天の監視者殿の目も届いている。おそらく危険なことにはならん。ただ、少しの間だけ広島を離れることになる。今夜は一度自宅へ戻り、留守を守る母親や妹のちひろさんによく事情を伝えておくように」
「はっ……了解いたしました」
橘中尉がなおも一抹の疑問を抱えたまま頷いた、その時だった。
執務室の重い扉が開き、司令官である藤堂中将の副官が早足で入室してきた。副官は二人の前に立つと、厳粛な面持ちで告げた。
「黒田中将、そして橘少佐。藤堂司令官がお呼びです。ただちに司令官室へお越しください」
「……少佐?」
橘中尉の思考が一瞬、停止した。この部屋にいるのは、中将となった黒田と、中尉である自分だけだ。聞き間違いかと思い、副官の顔を見つめ返したが、黒田は宮中でのやり取りからすべてを察したように、深く微かに頷いた。
「橘、すぐに聞きに行きましょう。藤堂閣下がお待ちだ」
黒田は橘の背を促し、藤堂の副官に続いて廊下へと歩き出した。
司令官室に入ると、机の後ろに立つ藤堂中将が、威厳に満ちた眼差しで二人を迎え入れた。藤堂は机の上に置かれた、先ほど宮城から転送されてきたばかりの公文書を指し示し、橘に向けて真っ直ぐに告げた。
「橘誠一郎中尉。たった今、宮城の陛下より直々の裁可が下りた。お前を陸軍少佐へ即日戦地進級せしむ。これは阿南陸相、そして畑元帥閣下の連名による特旨である」
「しょう、少佐……でありますか」
橘は我が耳を疑った。二階級特進など、通常であれば戦死した者にしか与えられない異例の人事だ。動揺する彼に対し、藤堂中将はさらに重大な任務を言い渡した。
「これよりお前を、我が国の北方防衛を担う『連絡特使』に補任し、南樺太の現地司令部へと急派する。これが陛下の御聖断である」
その言葉に、橘は大きな衝撃を受けた。黒田の副官という職務を解かれ、ここから遥か遠い北の最前線へと一人赴くことになるのだ。隣で聞いていた黒田は、驚きつつもすぐに得心がいった。
(なるほど……。監視者殿は、ご自身の権能を隅々まで行き届かせるために、こちらの事情をよく知る人間を日本の各要所に動かす必要があるのだな)
広島には藤堂、長崎には自分、そして北の樺太には橘。すべては日本を守り抜くための、未来の布陣なのだと黒田は理解した。
橘は驚きからしばらく言葉を失っていたが、やがて拳を固く握り締め、藤堂中将に向けて懇願するように頭を下げた。
「閣下……大命、謹んで拝受いたします。ただ、私にはあとに残す家族がおります。特に妹のちひろには、結核の闘病中も多大な苦労をかけました。突然の北国への赴任、きちんと説明して納得させねば後ろ髪を引かれます。今夜、家族と話すための、少しのお時間をいただけないでしょうか」
藤堂中将は若き少佐の悲痛な願いに、静かに、しかし厳かな表情で頷いた。
「もっともな願いだ。樺太までは、現在の制空権の状況もあり、軍用飛行機を何度も乗り継いで行かねばならん。監視者殿の見えざる庇護があるとはいえ、見送る家族の心配は当然のことだ。橘、今夜は早く帰り、よく説明してやりなさい」
藤堂中将はそう言うと、机の横に用意されていた包みを取り出した。
「幸い、この広島の司令部には予備の少佐の階級章、そして新調された軍服と礼服の一式がある。これを持っていけ。明日からは、お前が北の地を守るのだ」
「ありがたき幸せに存じます」
橘は、藤堂から手渡されたずっしりと重い新たな軍服の包みを両手で受け取り、深々と礼を捧げた。その胸中には、祖国への義務と、最愛の家族への葛藤が激しく渦巻いていた。
◇◇◇
ちひろの猛反発
◇◇◇
午後7時30分。広島市曙町・橘家。
真夏の夜の熱気がこもる台所で、妹のちひろは、兄の誠一郎のために温かい親子丼を作って待っていた。ちゃぶ台の上には、浩平が以前に届けたあの保冷箱から出したばかりの、冷たいミルクがガラス器に注がれて置かれている。
「お兄ちゃん、おかえりなさい! 今日は遅かったね」
ちひろが弾んだ声で迎えると、誠一郎は少し疲れた笑顔を見せながら座卓についた。
「ただいま、ちひろ。今日も美味しそうなご飯をありがとう」
誠一郎は箸を取り、ちひろの作ってくれた親子丼を「美味しい、本当に美味しいよ」と言いながら口へと運んだ。しかし、その視線は時折、嬉しそうに自分を見つめる妹の顔色を伺うように泳いでいた。
冷たいミルクを一口飲み、意を決したように誠一郎は切り出した。
「ちひろ。驚かないで聞いてほしい。……今日、私は陸軍少佐に昇進したんだ。陛下から直々に、お許しをいただいた」
「えっ……少佐!? お兄ちゃん、本当におめでとう!」
ちひろは両手を叩いて飛び上がらんばかりに喜んだ。病床から復帰したばかりの兄が、軍でそれほど高く評価されたことが、妹としては誇らしくて仕方がなかった。
しかし、誠一郎はそのちひろの笑顔を見て、さらに胸を痛めながら、一番伝えたくない本題を告げねばならなかった。
「ありがとう。……だが、その少佐の任務として、私は明日から、北方の樺太へ出発することになった。連絡特使という、とても大事な役目なんだ」
「え……?」
ちひろの笑顔が、一瞬にして凍りついた。喜びの表情は瞬時に消え去り、その瞳に激しい動揺と、拒絶の色が広がっていく。
「樺太……? って、あのすごく遠い北の国境の? うそ……信じられない。せっかく病気が治って、広島で一緒に暮らせるようになったのに、なんでそんな遠くまで行かなきゃいけないの!?」
「ちひろ、これは日本を救うための、本当に大きなお役目なんだ。軍命なんだよ」
誠一郎は懸命に宥めようとしたが、ちひろはちゃぶ台に両手を突き、激高して遮った。
「嫌! 絶対に嫌! どうしても行くっていうなら、私も付いていく! お兄ちゃんを一人でそんなところへ行かせない!」
「ちひろ、無理を言うな。あそこは前線だ。遠く離れてはしまうが、私は絶対に無事に戻ってくると約束する。だから――」
「何が約束よ! 蝦夷の地に行くんでしょう!? 飛行機に何度も乗って行くなんて、危ないに決まってるわ!」
ちひろの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。彼女はこれまでに物資を届けてくれた陸軍の「偉い存在」に対しては感謝していたが、その裏にいる現代の浩平の存在までは認識していない。ただ、最愛の兄を再び奪おうとする冷酷な国家の命令に対して、全力で反発していた。
「せっかくお兄ちゃんの命が助かったのに、なんでまた国の利害のために命を捧げなきゃいけないの!? もう軍のことなんてどうでもいい! お願いだから、お兄ちゃん、二人でどこか遠くへ逃げて、一緒に生き延びよう……?」
涙ながらに軍への反抗を口にする妹を前に、誠一郎はただ唇を噛み締め、何も言えずに立ち尽くすしかなかった。生真面目な彼にとって、軍命に背くことはできず、かといって妹の正当な悲しみを踏みにじることもできなかった。
◇◇◇
偽装の契り
◇◇◇
二人のやり取りを、現代のモニターの前で見ていた浩平は、困ったように頭を掻いた。
「あちゃー、やっぱりそうなるよな。病気から救ったばかりの兄貴が突然、最前線の樺太に行くって言われたら、妹としては絶対に受け入れられない。……仕方ない、これからの北方の作戦を円滑に進めるためにも、ちひろさんにも俺の存在と、これからの計画を理解してもらうしかないな」
浩平はゲーム内ショップを開き、連絡用のAndroidタブレット端末を2台購入した(24,000ゼニ×2=48,000ゼニ)。手元の空間で、誠一郎用とちひろ用として、往復の通信を可能にする自作のアプリケーションを最速でセットアップする。そのうちの1台の画面にテキストエディターを立ち上げ、丁寧な文字を入力した。
『橘誠一郎さん。少佐への進進、おめでとうございます。君を特使として推薦したのは、他ならぬ私です。ちひろさんを悲しませてしまい、本当に申し訳なく思っています。しかし、ちひろさんが提案した「二人での同行」は、私がこれから北の地で皆を守るために権能を行使する上で、非常に都合が良い場面があります。宮城の皆様や藤堂中将へは、私から確実に連絡を入れておきます。妹さんの服や旅支度など、微力ながら力になりますので、これから送る目録から選んでもらうと良いでしょう。なお、普通に飛行機に乗って樺太へ行くのは現在の情勢では確かに危険ですが、私の権能であなたとちひろさんを全力でお守りします。私を信用してください。 ――監視者 浩平』
【総支出:48,000ゼニ】
浩平は文字を表示させたままのタブレットを、夕食が片付けられたばかりの橘家のちゃぶ台の上へと転送した。
ストン。
突如として光を放つ平たい板が空間から出現し、ちひろは涙を浮かべたまま悲鳴を上げて一歩下がった。しかし、誠一郎は驚かなかった。藤堂中将や黒田中将がこの「光る板」を使って未来の存在とやり取りしている姿を何度も見ていたからだ。誠一郎は慎重に板を手に取り、画面に浮かび上がった文字を静かに読み進めた。
「監視者殿が……私とちひろの同行を、認めるばかりか、守ってくださると……?」
誠一郎の胸に、未来の存在からの直接のメッセージという、計り知れない衝撃と安堵が広がっていった。
浩平の行動はそれだけでは終わらなかった。彼はゲーム内のショップから、バッグや洋服、コート、靴、下着まであらゆる衣類を網羅した、現代の大手アパレルブランドの全商品カタログを入手した(0ゼニ=無料)。そのブランドは数千円から1万円強の手頃な価格帯を扱っており、デザインもどこか大正から昭和初期を思わせる、レトロでクラシカルな風合いのものが多かった。
浩平はさらに、AIの意見を参考にしつつ、当時の女性の生活に最も実用的であろう現代の「スポーツ下着2セット(3,000ゼニ)」を購入。それらを厚いカタログとA4用紙の手紙と共に、ちひろのすぐ目の前の座卓の上へと転送した。
【総支出:3,000ゼニ】
ストン。
目の前に現れた、見たこともない肌触りの良い純白の衣類と、美しい冊子、そして手紙に、ちひろは恐る恐る手を伸ばした。そこには、彼女に向けて優しい日本語でメッセージが綴られていた。
『ちひろさんへ。
いままで食料品や、食材を冷やすあの青い箱を送り届けていた者です。いつもは陸軍の関係者を偽って物資を届けており、驚かせてしまって申し訳ありません。
私は、この世界の理の外側に生きる、80年後の未来に生きる日本人です。私の詳しい情報については、後ほど兄の誠一郎さんから説明してもらってください。ひとまず、現在の状況をお伝えします。
誠一郎さんは確かに、北方の民を救うための連絡特使として樺太へ行くことになりますが、私が外側からあなたたちの乗る飛行機を完全に守りますので、道中で命を落とすことは万が一にもあり得ません。
また、君が兄と同行することは、私のこれからの防衛計画において非常に役に立ちます。ですから、私は二人の同行に大賛成です。彼の上官である黒田中将や藤堂中将も、私の言葉があれば必ず同意してくれます。
しかし、緊急の軍事任務において、「妹」を前線に帯同させるのは、軍の規則や臨検を突破する上で不都合が生じます。そこで一つ、提案があります。ちひろさんは、兄の誠一郎さんと『夫婦』であると偽って、家族随行の名目で同行してください。
身分を証明する書類一式は、私から関係者達に用意させます。ですからちひろさんは、まずはこの目録の中から、特命少佐の妻としてふさわしいお好みの洋服やドレス(樺太は大変寒いので、厚手のコートも必要です)、バッグ、靴、下着を選んでください。少佐の妻として誠一郎さんの傍らに立つに相応しい品格が必要ですので、遠慮は全くいりません。
目録と共に、あらかじめ私の方で下着2セットを購入しておきました。他意はありませんので、旅の準備としてどうかお受け取りください。 ――監視者 浩平』
手紙を読み終えたちひろは、驚きに目を見開いた後、その頬を林檎のように真っ赤に染めて手紙と下着のセットを抱きしめた。
「お、お兄ちゃんのお嫁さん……!? 私が、お兄ちゃんの奥さんの振りをして、一緒に北の国へ行くの……?」
一方、妹の隣から手紙を一緒に覗き込んでいた誠一郎は、完全に言葉を失い、顔を真っ青にして困惑していた。
「か、監視者殿……! 一緒に行くのは良いとしても、ちひろは妹のままで同行してはいけないのですか!? 夫婦の偽装など、いくらなんでも罰が当たります!」
誠一郎が慌ててタブレットに向かって声を上げたが、ちひろはすでに涙を拭い去り、嬉しそうに目を輝かせながら現代のアパレルカタログの頁を熱心にめくり始めていた。そこには、戦時中の日本では絶対に見られない、色鮮やかで美しいコートやドレスの写真が何百点も並んでいた。
「お兄ちゃん、見て! この外套、すごく暖かそうだし可愛い! 私はお兄ちゃんと一緒に行けるなら、お嫁さんの振りだって何だってするわ!」
「ち、ちひろ……! 監視者殿も、これはいささか形に無理があるのでは……」
大喜びで服を選び始めたいくつもちひろと、生真面目ゆえに頭を抱えて困惑する新少佐の姿を、浩平は画面の向こうから苦笑交じりに見守っていた。
「まあ、これでちひろさんの反発も収まったし、北方のルートも無事に繋がりそうだな。橘家の方はひとまず問題ないか……。よし、一度宮城のあの地下壕の様子を見に戻ろう」
浩平は自宅のマウスを操作し、カメラの焦点を広島の曙町から引き離した。
資金と金塊の調達に向けてそれぞれが動き出し、歴史が劇的に書き換わろうとしている帝都の最深部――皇居内の御文庫附属室へと、遠隔カメラを再び移動させた。
【現在のクレジット残額:907,790,380ゼニ】
【ゲーム内で関わった人数:約123,900人】
お待たせしました
いろいろフラグのようなものを立ちましたが(笑)
死亡フラグだけは絶対にありませんのでご安心ください
「夫婦としての同行」は、浩平からちひろさんへ最大のプレゼントかもしれない
なお物語中の設定では、橘誠一郎は26歳、橘ちひろは21歳となります




