第9話 梔子
「まだ払ってないんだな、お前」
男はそう言って、少し首を傾げた。
俺は答えなかった。
答え方が分からなかった、というのが正確だ。「払う」という言葉を、この二年で誰かの口から聞いたことは一度も無い。俺の中でだけ使ってきた言葉だった。
夕方の校門前だった。塾の車が一台停まっていて、その向こうを自転車が二台通り過ぎていく。すぐ横をバスが走った。
昼に食べ損ねた分の空腹が、今ごろ来ていた。膝の裏が、少しだるい。
三日続けて夜に出歩いているせいだ。
どこにでもある景色の中に、この男だけが噛み合っていない。
「柊くん、知り合い?」
みなもが俺の半歩後ろから聞いた。
「いや」
「え、でも名前」
「知らない」
男はみなもを見なかった。
見ないというより、そこに人がいることを勘定に入れていない顔だった。俺だけを見ている。
「何なんですか、あんた」
俺の声が硬くなった。
「客じゃない」
「は?」
「安心しろって意味だ。売りに来たわけじゃない」
男は自分のポケットに手を入れて、そのままにした。何かを出すのかと思ったが、出さなかった。
年齢が分からない。二十代にも三十代にも見える。服は特に古くも新しくもない、どこにでもある上着だった。
顔立ちに特徴が無いのではなく、特徴を覚えようとすると滑る。
目の形を見る。見ているうちに、さっき見たはずの鼻の形が思い出せなくなる。輪郭に戻る。今度は目の形が抜けている。
部分は見えているのに、組み上がらない。
俺は無意識に、その顔のどこかを数えようとしていた。数えられるものが一つも無かった。
「お前、東階段のやつを外したろ」
俺は息を止めた。
「あと、渡り廊下のも。あっちは借りたな」
「……なんで」
「見てたからだよ。夜の学校なんて、俺には庭みたいなもんだ」
彼は校舎のほうを顎で指した。
言い方に、自慢げなところは無かった。庭だと言うとき、人は普通もう少し何かを含ませる。この男の言い方には、それが無い。
本当に、ただの事実として言っている。
だとしたら、あの夜も、この男は東階段のどこかにいた。俺が三秒の値段を数えている間、少し離れたところから見ていた。
「で、今日は数えるやつを外した。あれは面白かった。数えないっていう手を、よく思いついたな」
「思いついたのは俺じゃない」
言ってから、余計なことを言ったと思った。
男の視線が、初めてみなもに向いた。
一秒だけだった。それから、また俺に戻った。
「ふうん」
それだけ言った。
◇
「証明してやろうか」
男が言った。
「何を」
「俺がお前と同じだってこと。信じてないだろ」
俺は黙っていた。信じるも信じないもない。この男が何を知っているかだけが問題だった。
「そこの信号な」
彼は交差点を指した。
夕方の車列が並んでいる。信号は赤で、先頭の車がゆっくり前に詰めた。
「あれ、変わるまで四十秒ある。——いいから見てろ」
男が息を吸った。
そして、何か言った。
言葉には聞こえなかった。
音としては確かに出ている。空気は震えている。耳はそれを受け取っている。
なのに、意味が届く手前で滑り落ちる。舌の位置も唇の形も見えているのに、その二つが何の音を作ったのかが分からない。
二年前、俺が初めて名を口にしたときも、たぶんこう聞こえていた。誰かがそばで聞いていたなら。
信号が、青になった。
四十秒どころか、四秒も経っていない。
車列が動き出す。先頭の車が右折して、その後ろが続いていく。
運転手も、歩道の誰も、何も変だと思っていない。信号が早く変わったことに、誰も気づいていない。
当たり前だ。信号がいつ変わるかを数えている人間なんて、普通はいない。
俺は数えていた。だから分かった。
そして——男の右腕が、上着の袖の中で、少しだけ長くなっていた。
肘の位置が、あるべきところより下にある。袖口から出た手首が、袖の長さに対して先に来すぎている。
俺は自分の右手を握った。
三日前、俺の腕も同じ形をしていた。洗面所の鏡の前で、自分の腕がどこで終わっているのか分からなくなった、あの夜と同じだ。
背中を汗が伝った。
怖いというより、嫌だった。自分と同じものを、他人の身体で見せられるのが。
「今のは信号機の理を借りた。あれにも理はあるからな。決まった順番でしか変わらない」
男は袖を直した。腕の長さが、何事もなかったように戻る。
「まあ、こんなのは安い名前だ。使っても大して減らない」
「……減る?」
「お前の言い方だと『払う』だろ。同じことだ」
◇
俺はみなもを見た。
彼女は交差点のほうを見ていた。信号が青になったところを、たぶん見ていたはずだ。
「芹沢」
「ん?」
「今の、見たか」
「今の?」
彼女は俺を見た。
目に、何も引っかかっていない顔だった。
「信号、変わっただけだよね」
「その前」
「その前?」
彼女は少し考えて、それから首を傾げた。
「柊くんが立ち止まったから、私も止まっただけだけど」
背中が冷えた。
俺はもう一度、男のほうを向いた。男はそこに立っている。上着のポケットに手を入れたまま、俺たちを見ている。
「じゃあ、この人は」
「この人?」
みなもの視線が、男のほうへ動いた。
動いて、通り過ぎた。
男の立っている場所を、彼女の目は素通りした。
そこに信号機と電柱と、何もない歩道があるという顔で。
視線が引っかからない、というのはこういうことか、と俺は思った。
人の目は、視界に人がいれば必ず一度は止まる。無意識でも、そこに何かがいると認識してから、興味が無いので流す。その「一度止まる」が、彼女には起きなかった。
止まらないまま、通り過ぎた。
「誰かいる?」
「……いや」
俺は言葉を切った。
彼女は俺の顔を見て、それから少し眉を寄せた。
「柊くん、大丈夫? やっぱ顔色が」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない人がそう言うんだよ」
彼女は鞄の紐を握り直した。
俺は何も説明できなかった。
説明しようとすれば、目の前に立っている男を指さすことになる。指さしたところで、彼女には何も見えない。見えないものを指さす人間を、彼女はどう思うだろう。
「先に帰ってくれ」
「え」
「俺、寄るところがある」
言ってから、言い方がきつすぎたと思った。
思ったときにはもう遅い。こういうとき、俺は必ず一手遅れる。
「……悪い。そういう意味じゃなくて」
「分かってるよ」
「分かってるのか」
「柊くん、焦ると声が低くなるの。慣れた」
慣れた、と言われて、喉の奥が詰まった。
四日で慣れられるほど、俺は分かりやすかったらしい。
彼女はしばらく俺を見ていた。
「……分かった。けど」
「けど?」
「明日は普通に喋ってよ」
それだけ言って、彼女は歩き出した。
角を曲がるまで、一度も振り返らなかった。
振り返らないのは、たぶん気を遣ってくれたからだ。振り返れば、俺が何をしているか見えてしまう。見えてしまえば、聞かなければならなくなる。
この人は、そういうことを考えて動く。
俺はその背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。
◇
「いい相棒じゃないか」
男が言った。
俺は答えなかった。
「怒るなよ。褒めてる」
「あんた、何なんだ」
「梔子」
「え」
「そう呼ばれてる。本名じゃない」
彼は歩道の縁石に腰を下ろした。上着の裾が、地面に触れる直前で止まった。
その座り方を、俺はしばらく見ていた。
人の多い歩道で、大人が縁石に座る。普通なら誰かが一度は目を向ける。誰も向けなかった。
自転車が一台、彼のすぐ前を通り過ぎた。避けたようにも見えたし、たまたま軌道がずれただけにも見えた。どちらなのか、判別する方法が無い。
「くちなし。口が無いって書くほうじゃなくて、花のほうだ。——まあ、どっちでもいいけどな。呼び名なんてのは、呼ぶやつがいて初めて意味がある」
俺はそこに立ったまま、動けなかった。
「なんで、あの人には見えないんだ」
「見えてるよ」
「は?」
「目には映ってる。網膜には届いてる。ただ、処理されない」
彼は自分のこめかみを指で叩いた。
「読めるのに頭に入らない、ってのがあるだろ。あれと同じだ」
名簿の文字が、頭に浮かんだ。
二年三組の欄。印刷された、普通の名前。
読める。読めるのに、入らない。
あのとき俺は、四回同じ行を往復して、四回目で目を閉じた。みなもは爪が白くなるほど紙に指を押しつけていた。
同じことが、今この歩道で起きている。ただし相手は、生きて喋っている。
「あんたも、消えたのか」
「消えてない。ここにいる」
梔子は自分の膝を軽く叩いた。
「消えたのは、俺についての、他人の記憶のほうだ。全部な」
「……全部」
「全部だ」
彼はそこで、初めて少し笑った。
笑ったのに、その笑い方には温度が無かった。
「だから、もう誰も俺を忘れない。忘れる分が、もう残ってないからな」
俺は口の中が乾いていくのを感じた。
そういう言い方があるのか、と思った。
払い切るという状態を、俺は考えたことが無かった。姉が二拍になるかもしれない、三拍になるかもしれない、と数えてはきた。だが、その先を最後まで数えたことは一度も無い。
数えていたのに、終点を見ていなかった。
「顔が真っ青だぞ」
梔子が言った。
「別に脅してない。ただの事実だ」
彼は立ち上がって、上着の裾を払った。
「腹減ったな。飯でも行くか」
「……は?」
「奢るよ。俺、金だけはあるんだ」
彼は歩き出した。俺のほうを一度も見ずに。
「ついてこいよ。どうせお前、聞きたいことが山ほどあるだろ」
俺はその背中を見ていた。
夕方の歩道を、大人が一人歩いている。すれ違う人が、誰も彼を避けなかった。
避けないのに、誰もぶつからなかった。




