第10話 払い切った先
梔子が連れて行ったのは、駅の北側の、古いビルの三階だった。
いや——古い、という言い方も正確ではない。
壁の塗装は剥げていない。階段の手すりも錆びていない。掃除もされている。
ただ、人の出入りがしばらく無かった建物特有の、空気の動かなさがあった。踊り場に立つと、自分の足音で空気が初めて動いた、という感じがする。
一階の郵便受けに、名札が一枚も入っていない。
六つある。六つとも空だ。チラシが差さっている口も無い。
「ここ、何ですか」
「俺の家」
彼は鍵を使わずにドアを開けた。
鍵穴はある。だが回した様子が無かった。ノブを掴んで、そのまま引いた。それだけだ。
俺はその手元を見ていた。見ていたのに、何が起きたのか分からなかった。
「開いてたんですか」
「いや。閉まってた」
それ以上の説明は無かった。
中は、思っていたより広かった。
ワンフロアがそのまま部屋になっていて、仕切りが無い。窓が三つ。
家具は最低限だった。ベッドと、テーブルと、椅子が二脚。
その二脚目が、俺は少し気になった。
二脚目には、埃が積もっていなかった。
使われていないなら積もる。積もっていないということは、誰かが拭いているか、誰かが座っているかのどちらかだ。
この部屋を訪ねる人間がいるとは思えなかった。だとすれば、拭いているのはこの男自身になる。
「座れよ」
梔子はテーブルの上のコンビニ袋を、片手でどけた。
中身が二人分あった。
「……俺の分ですか」
「そうだよ。腹減ったって言っただろ」
俺は椅子に座った。
座ってから、この部屋には生活の跡がほとんど無いことに気づいた。
汚れているのではない。物が少ないのでもない。
何かを続けた形跡が無い。
読みかけの本が無い。洗い物が無い。充電中の何かが無い。壁にカレンダーが無い。冷蔵庫に何かを貼った跡が無い。
人の部屋には、たいてい「昨日の続き」が転がっている。この部屋には、それが一つも無かった。
あるのは、今日買ってきたものだけだ。
◇
「金はどうしてるんですか」
「働いてる」
「働ける?」
「働けるよ。名前を書かなくていい仕事なら、いくらでもある」
彼はパンの袋を開けて、半分に割った。片方を俺のほうに滑らせた。
「日雇いの現場に行く。朝、列に並んで、点呼のときだけ適当に返事をする。誰も俺の名前を覚えてないから、次の日はまた新しい人間として並べる」
「怪しまれないんですか」
「怪しむには、覚えてなきゃならない」
俺は手の中のパンを見た。
食べる気にならなかった。
いや——正確には、腹は減っていた。減っているのに、手が動かない。
この人の買ってきたものを食べたら、何かを一つ決めてしまう気がした。何が決まるのかは、自分でも分からない。
結局、俺はそれを両手で持ったまま、しばらく置いていた。
「じゃあ——例えば、金を払わずに店を出たら」
「出られる」
即答だった。
「実際にやったんですか」
「最初の頃はな。試したよ、いろいろ」
彼は自分の分をひと口食べて、飲み込んでから続けた。
「電車もタダで乗れる。ホテルにも泊まれる。誰かの家に入って寝ることもできた。止められたことは一度も無い」
俺は黙っていた。
この人が言っているのは、たぶん全部本当だ。嘘をつく理由が無い。証明する手段も、俺には無い。
だが想像はできた。改札を歩いて抜ける。店の棚から取って、そのまま出る。誰も追ってこない。追ってくるには、追う相手を覚えていなければならない。
自由という言葉が、こんなに殺風景な形をしているとは思わなかった。
「怒らないんだな」
「怒っていいことなんですか」
「普通は怒る。俺が最初にこの話をした相手は怒った」
俺は顔を上げた。
「相手がいたんですか」
梔子は少しだけ黙った。
その沈黙は、答えを探している沈黙ではなかった。答えは持っている。出すかどうかを決めている顔だった。
「いた。もういない」
それだけ言って、彼はパンの残りを口に入れた。
俺は聞き返さなかった。
◇
部屋の隅に、段ボールが二つ積んであった。
封は開いている。中身は服だった。それだけだ。
畳んである。だが仕舞われてはいない。着るときにここから出して、洗ったらここに戻す。そういう使われ方をしている。
クローゼットは部屋の反対側にあって、扉が閉まっていた。
「引っ越してきたばかりなんですか」
「三年いる」
「三年」
「荷解きする理由が無いんだよ」
彼は椅子の背にもたれた。
「誰も来ないからな。きれいにしても、誰にも見せられない」
窓の外で、電車が通った。
この部屋は線路に近い。三分に一本くらいの間隔で、振動が床を伝わってくる。
テーブルの上のペットボトルが、そのたびに小さく震えた。
三年もここにいれば、この振動には慣れるだろう。慣れれば、気づかなくなる。気づかないものは、数えなくなる。
この人は、何を数えるのをやめたんだろう。
俺は自分のスマホを見た。画面に、みなもからのメッセージが一件入っていた。
ちゃんと帰った?
それだけの短い文だった。
「連絡先、何件あるんですか」
俺は聞いた。聞いてから、聞くべきではなかったと思った。
梔子は自分のポケットからスマホを出して、テーブルに置いた。画面をこちらに向ける。
電話帳が開いていた。
一件も無い。
一件も無い、という画面を、俺は初めて見た。
「登録はできる。相手の番号を入れれば入る」
彼は画面を指で撫でた。
「でも向こうが、俺の登録を消す。悪気があるわけじゃない。名前も顔も思い出せない番号が電話帳にあったら、消すだろ。普通は」
「……はい」
「三日か、四日だな。だいたい」
彼はスマホをポケットに戻した。
「——一つ、聞いていいですか」
「聞け」
「借りた分は、どこへ行くんですか」
梔子の手が、ポケットの縁で止まった。
「どこへ、っていうのは」
「消えた記憶です。俺の姉の中から、俺についての一拍ぶんが消えた。あれは、どこへ行ったんですか」
彼はしばらく答えなかった。
窓の外で、また電車が通った。今度は長い貨物だった。振動が、さっきより長く続いた。
俺は自分の膝の上で、指を一度握った。
聞いてよかったのかどうか、分からなくなっていた。
「捨てられてはいない」
彼はそう言った。
「怪異は捨てない。ルールで動くものは、ルールに書いてないことをしない。——消すとは書いてあるが、捨てるとは書いてない」
「じゃあ」
「どこかにある。誰かが持ってる」
俺は自分の手を見た。
手のひらが、少し汗ばんでいた。
姉の一拍が、どこかで誰かの手の中にある。そう考えた瞬間、胃のあたりが冷たくなった。
嫌だ、と思った。
二年間で初めて、代償に対して「嫌だ」という言葉が出てきた。悔しいでも怖いでもなく、ただ嫌だった。
「誰かって、誰ですか」
「知らん」
即答だった。嘘をついている顔ではなかった。
「二十年やってても、そこは分からん。ただ——」
彼はテーブルの木目を、指の腹で一度なぞった。
「借りた分は、いつか帳尻が合う。合わせてるやつがいるってことだ。俺は会ったことがない」
会ったことがない、という言い方が引っかかった。
いない、とは言わなかった。
俺はそれを聞かなかったことにした。聞けば、また一つ増える。今日はもう、増やしたくなかった。
三日か四日。
その数字を、この人は数えている。何度も繰り返して、平均が出るくらいには数えている。
数えるのをやめた人ではなかった。数えるものが、俺とは違うだけだ。
その動作に、悔しさも悲しさも無かった。天気の話をするのと同じ温度だった。
俺は自分のスマホに、返信を打った。
帰った
嘘だった。まだ帰っていない。
二年ぶりに、俺は誰かに嘘をついた。嘘をつく相手がいなかった二年だった。
だが打ってしまってから、この一文の届く相手がいることの意味を、急に重く感じた。
◇
「お前、まだ数えてるのか」
梔子が言った。
俺の指が、テーブルの端で止まった。
無意識だった。電車の通る間隔を数えていた。
「一本目から三分十秒。二本目から二分四十秒。三本目までは——」
「やめてください」
「怒るなよ。俺も同じだった」
彼はテーブルに肘をついた。
「数えるのは、目盛りが欲しいからだ。あとどれくらい残ってるか知りたい。違うか」
違わなかった。
「知ってどうする。残りが分かったところで、減るのは止まらない」
「……止められます」
「借りなければ、な」
彼は俺の目を見た。
この男が、初めてまっすぐ俺を見た気がした。
「二年、借りずにやってきたんだろ。偉いよ。本気でそう思う」
「……」
「で、その二年で、姉さんは何拍になった」
俺は答えなかった。
喉が詰まって、声が出なかった。
答えられなかった、というほうが近い。
二年前は零だった。今は一拍だ。それだけは分かっている。
だがその一拍が、二年前より長くなっているのかどうかを、俺は測っていない。
机の引き出しのノートには、日付と一拍だけが書いてある。長さは書いていない。ストップウォッチで測ろうと思ったことは、何度もあった。
測る道具が無かったのではない。
いや——測るのが怖かった。
一拍が一・二拍になっていたら、俺はそれを知ってしまう。知ってしまえば、次は一・五拍になる日を待つことになる。
「借りればいい」
梔子が言った。
「三秒で終わる。お前が今抱えてる問題は、だいたい三秒で片がつく」
声を荒げてはいなかった。
説得しようともしていなかった。
ただ、正しいことを言っている顔だった。そして、実際に正しかった。渡り廊下でみなもを引き戻したとき、俺はそれを証明している。
「そのぶん、誰かが俺を忘れる」
「忘れるさ」
彼は肩をすくめた。
「でもな、忘れられたって死なないんだよ。俺は生きてる。飯も食えるし、風呂も入る。誰も俺を止めない。何をやっても自由だ」
彼はそこで言葉を切った。
窓の外を、また電車が通った。
その振動が収まるまで、彼は何も言わなかった。
「——自由だぞ。本当に」
もう一度、そう言った。
二度言う必要のない言葉だった。
俺はテーブルの上のパンを見た。半分に割られて、片方だけがそこにある。
自分の分を割って、こちらに寄越した。
二人分を買ってきたのに、それでも半分に割った。買った時点では、俺がついてくるかどうか分からなかったはずだ。
誰も来ない部屋に、椅子が二脚ある。埃が積もっていない椅子が。
この人は、自由だと二回言った。
二回言う必要のある人間が、本当に自由なのかは分からない。
「そろそろ帰ります」
俺は立ち上がった。
梔子は止めなかった。
引き止められたら、俺は何と答えただろう。
考えて、答えが出なかった。
「またな」
「……また、あるんですか」
「あるよ」
彼は座ったまま、片手を上げた。
「お前もこっちに来る。時間の問題だ」




