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力を使うたび、誰かが俺を忘れていく —— だから怪異は、殴らずに外す  作者: 八夜巡


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第11話 名前を売る

 次に梔子が現れたのは、四日後だった。


 放課後の図書室を出て、東階段を下りたところに立っていた。壁に背中を預けて、腕を組んでいる。


 周りを生徒が通り過ぎていく。誰も彼を避けない。避けないのに、誰もぶつからない。


 部活へ向かう二年が三人、彼の目の前を横切った。そのうちの一人が、進路をわずかに曲げた。曲げたことに本人は気づいていない。


 水が石を避けて流れるのに似ていた。石だと認識しないまま、水は形だけを変える。


 この四日間、俺は何度かこの光景を思い出していた。思い出すたびに、少しずつ現実味が薄くなっていた。


 薄くなっていたものが、今また目の前にある。


「よう」


「……何の用ですか」


「仕事の話」


 彼は壁から背中を離した。


「お前、金は要らないだろ。高校生だし、家もある」


「はい」


「じゃあ、こっちの話をする」


 彼は口を開いた。


 息を吸う音がした。


 俺は反射的に、自分の耳を両手で塞いだ。


 塞いでから、自分が何をしているのかに気づいた。


 梔子が、口を開けたまま止まっていた。


 それから、笑った。声を出さずに、肩だけで。


「いい反応だ」


「……何をしようとしたんですか」


「名前を言おうとした」


 俺は手を下ろした。指先が冷たかった。


「聞けば、お前はそれを知る。知れば、使える」


「使いません」


「使うかどうかは別の話だ。知るかどうかを、今聞いてる」


 彼は口の前で指を一本立てた。


「言うのは三秒で済む。耳を塞ぐより、俺の口のほうが速い」


 その通りだった。


 さっき俺が塞げたのは、この人が息を吸ったからだ。吸わずに言われていたら、間に合っていない。


 つまり、この人は俺に間に合わせた。


「言わないんですか」


「言ってほしいのか」


「……いえ」


「じゃあ言わない」


 彼は指を下ろした。


 二年前に一つ。それだけでやってきた。二つ目が、この人の口の中にある。


 喉の奥ではない。他人の口の中にある。それが、こんなに落ち着かないとは思わなかった。


   ◇


「商売なんですか、これ」


「そうだよ」


「客がいるんですか」


「いるさ。世の中には、どうしても外せない条件にぶつかる人間がいる」


 梔子は口の中で、何かを一度転がすような動きをした。


「学校の怪談みたいな可愛いやつばかりじゃない。人が死ぬやつもある。そういうときに、俺のところに来る」


「どうやって、あんたに辿り着くんですか」


「辿り着けるやつだけが来る」


 答えになっていなかった。


 だが、追及しても答えは変わらない気がした。


 この人は、答えたくないことは答えない。嘘はつかない代わりに、黙る。


 三日前の部屋でもそうだった。「相手がいたんですか」と聞いたとき、答えを持っている顔で、出すかどうかを決めていた。


 俺は別の角度から入ることにした。


「対価は、何ですか」


 彼の指が、一度だけ止まった。


「それは言わない」


「なんで」


「言うと、お前は計算する」


 俺は口をつぐんだ。


「計算して、割に合うと思ったら買う。お前はそういう頭の使い方をする」


 彼は口を閉じた。


「だから言わない。買うときが来たら教える」


 その言い方には、少しだけ温度があった。


 三日前の部屋で自由だと二回言ったときとは、違う種類の温度だった。


 あのときは、自分に言い聞かせる声だった。


 今のは、こちらに向けられている。


 ——計算して買うな、と言っている。


 商売人が言う台詞ではなかった。売りたいなら、対価は先に見せて、安く見せる。この人はその逆をやっている。


   ◇


「じゃあ、今日は何を売りに来たんですか」


「売りに来たとは言ってない」


 梔子は階段の一段目に腰を下ろした。


 生徒の流れが、彼の周りだけ緩やかに割れていく。誰も彼を見ないまま、誰も踏まない。


 俺はその段を数えた。


 一段目。この階段は十二段ある。夜になると、上から二番目に一段増える。


 増えた段を踏んだ子は、名前を失った。


 その階段の一段目に、名前を売る男が座っている。


「持ってきた。買うかどうかは今日決めなくていい」


「持ってきた」


「一つ持ってこい、って言われたからな」


「誰に」


「客に」


 俺は少し考えた。


「……俺が客だと思われてるってことですか」


「そう思ってるのは俺じゃない」


 彼は階段の上のほうを見た。三階の図書室のあたりを。


「お前、あの司書に何か言われたろ。記録に残らないタイプだって」


 背中が冷えた。


「あれ、当たってるんだよ。お前はもう半分こっち側だ」


「違います」


「違わない。二年前に一回、この前に一回。二回借りてる」


 俺は言い返せなかった。


 事実だった。


「二回で済んでるのが偉い。普通は三年で三十回くらい借りる。——借りたほうが楽だからな」


「楽なのは知ってます」


「知ってるのに借りないのが偉いって言ってる」


 彼はこちらを見上げた。


「でもな、その偉さには賞味期限がある」


「賞味期限」


「あるんだよ。——今、お前の一番上にいるのは誰だ」


 俺は答えなかった。


「答えなくていい。顔に出てる」


 彼は膝の上で手を組んだ。


「二年前は姉さんだったんだろ。今は違う。違うってことは、動いたってことだ」


「……」


「動くってことは、これからも動く。次に一番上に来るやつがいて、その次もいる。お前が誰かを大事にするたびに、列が伸びる」


 俺は自分の指先が冷えていくのを感じた。


「守るものが増えるほど、借りられなくなる。借りられなくなるほど、追い詰められる」


 彼は立てた指を一本、俺のほうに向けた。


「その先で、みんな一回借りる。全員だ。例外は見たことがない」


   ◇


 俺は自分の呼吸を、一度整えた。


 この人の言うことは、全部正しい。正しいから困る。


 間違ったことを言われれば、反論できる。正しいことを言われると、飲み込むしかない。


 列が伸びるのは、そのとおりだ。


 二年間、俺は列を伸ばさないようにしてきた。誰とも近づかないことで、姉一人だけを一番上に置いてきた。


 そのやり方は、四日で崩れた。菓子パンを一つ置かれただけで崩れた。


 だから、この人の言う「その先」は、たぶん本当に来る。


 だが——正しいことと、それに従うべきかは別だ。


「要りません」


 俺は言った。


 梔子は動かなかった。まばたきもしなかった。


「いま俺が困ってることは、名前を借りれば片がつきます。それも知ってます。三秒で終わるのも」


「じゃあなんで」


「三秒の値段を、俺は数えられるからです」


 彼が少しだけ、目を細めた。


「あんたは数えるのをやめてない。三日か四日って言った。あれ、平均を出せるくらい数えてる」


「……」


「数えてる人間が、数えるのをやめろとは言えない」


 俺は自分の耳のあたりに、まだ手が浮いているのに気づいて、下ろした。


 もう、塞ぐ必要が無かった。


「だから、要りません」


 梔子はしばらく黙っていた。


 彼は怒らなかった。舌打ちも、ため息もしなかった。


 ただ、階段に座ったまま、自分の膝のあたりを見ていた。


 その横顔を、俺は見ていた。


 断られたのに、機嫌が悪くなっていない。それどころか、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。


 見えただけかもしれない。この人の顔は、見ているうちに組み上がらなくなる。


「そうか」


 それだけ言った。


 断ったあとで、俺の手が震えていることに気づいた。


 耳を塞いでいたときは分からなかった。下ろした瞬間から、指先が細かく動いている。


 怖かったのだと思う。


 断るのが怖かったのではない。断ったあとに、この人が二度と来なくなることが怖かった。


 ——そんなことを思う自分が、いちばん嫌だった。


「いつでもいい」


「え」


「気が変わったら来い。俺は逃げないし、どこにも行かない。行っても誰も気づかないしな」


 冗談のつもりで言ったのかもしれない。


 だが笑うところが無かったので、俺は笑わなかった。


 この人は、待つと言っている。


 三日か四日で電話帳から消える人間が、いつでも来いと言っている。それが可能なのは、この人の側の時間だけが動かないからだ。


 彼は立ち上がった。上着の裾を払う。三日前と同じ動作だった。


「——それとな」


 彼が階段を数段上って、そこで振り返った。


 俺より高い位置から、こちらを見下ろす形になった。


「お前、あの子を探してるだろ。名前が消えた二年の」


 俺の足が、階段の途中で止まった。


「なんで」


「図書室で名簿を開いたろ。三人で」


 見ていた。あの日も。


「あれ、まだ間に合うぞ」


 梔子は言った。


「消えたのは名前だ。本人はまだ、外に出てないところにいる」


「……どういう意味ですか」


「言葉のとおりだ」


「言葉のとおりじゃ分かりません」


「分からなくていい。今は」


 彼は廊下のほうへ一歩進んだ。


「分かってしまうと、お前は今日それを試す。試すには、まだ足りないものがある」


「何が足りないんですか」


「それを教えたら、お前の数える手間が省ける」


 振り返らずに、彼はそう言った。


「省いてやる義理はないな」


 彼は階段を上りきって、廊下のほうへ消えかけた。


 俺は追いかけようとして、一段目で止まった。


 止まったのは、聞きたくないからではない。


 聞けば、次に来る言葉が分かっていたからだ。


 この人は、名前を売る。


 俺が今いちばん欲しいものを、この人は持っている。そして俺は、さっきそれを断ったばかりだ。


 断った直後に欲しがれば、値段が変わる。商売とはそういうものだ。


 だから俺は、一段目で止まった。


「あの子の名前も、俺は知ってるぞ」


 顔はこちらに向けないままだった。声だけが、階段の上から落ちてきた。


 階段の上で、上履きの音が二つ鳴って、それきり聞こえなくなった。

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