第12話 手を変える
「録音してみるのは?」
みなもが最初に出した案が、それだった。
昼休みの図書室だった。宮杜さんが「使っていいですよ」と言ってくれた奥の閲覧席に、俺たちは向かい合って座っている。
窓の外は、朝から降ったり止んだりしている。グラウンドを使えないので、廊下がいつもより騒がしい。
机の上には、去年の図書委員名簿が置いてあった。
みなもは購買のパンを二つ買ってきていた。片方を、断る間もなく俺の前に置いた。
「食べながらでいいよ。柊くん、また昼飯抜くつもりだったでしょ」
「……そんなことはない」
「腹鳴ってたよ、三時間目」
「聞こえてたのか」
「聞こえてた。あと今日、水筒も空でしょ」
なぜ知っているんだ、と思った。
思ったが、聞かなかった。聞いたら「顔に出てる」と言われるに決まっている。それも、たぶん当たっている。
「録音して、あとで聞き返す。それなら残るんじゃない?」
「試す価値はある」
「じゃあ柊くん、読んで」
「俺が?」
「私が読んでも同じでしょ。試すなら二人分あったほうがいいじゃん」
それはそうだった。
俺はスマホの録音を起動して、名簿の該当行に指を置いた。
二年三組。上から四番目。
声に出そうとして、喉が止まった。
読める。字は見えている。
だが口の形を作ろうとした瞬間、それを何の音とも思えなくなる。
舌が動かない。息だけが出た。
もう一度、頭から読み直した。上から下へ、指でなぞりながら。指が該当行に来たところで、また同じことが起きた。
三回やった。三回とも同じだった。
「……読めない」
「読めないの? 見えてるのに?」
「見えてる。字の形も分かる。だが、音にできない」
みなもが名簿を自分のほうに向けた。
しばらく黙ってから、彼女は小さく息を吐いた。
「私も無理。声にならない」
俺は録音を止めた。
画面に三十二秒と出た。そのうち、声が入っているのは俺の「読めない」の一言だけだった。
再生してみた。
自分の声が、思ったより低く聞こえた。録音した自分の声を聞くのは、いつまで経っても慣れない。
みなもが吹き出した。
「柊くんの声、こんなだっけ」
「録音はこう聞こえるものだ」
「知ってるよ。でも思ったより低くてびっくりした」
耳の後ろが熱くなった。
こんなことで熱くなるのか、と自分でも呆れた。名簿の文字が読めないという事態の真ん中で、俺は自分の声を笑われて赤くなっている。
「話を戻す」
「はいはい」
◇
「じゃあ書くのは?」
次にみなもが言った。
彼女はノートを開いて、シャーペンを構えた。
「見ながら書き写す。目で見て、手が動いて、紙に残る。途中に頭が入らないんだから、これならいけるんじゃない?」
「……理屈は通ってる」
「通ってるでしょ。ほめて」
「褒めた」
「今のは褒めてない」
俺は返事をしなかった。返事の代わりに、彼女の手元を見ていた。
みなもは名簿に目を落として、それからノートに手を下ろした。
シャーペンの先が紙に触れる音がした。
一画目が書かれた。
二画目。三画目。
俺はそれを数えていた。四画。五画。
彼女の手が、六画目の途中で止まった。
止まった、というより、行き先を見失った動き方だった。ペン先が紙の上で一度浮いて、下りるところを探して、下りなかった。
「……あれ」
彼女はシャーペンを持ったまま、自分の書いた字を見ていた。
「なんだこれ」
俺は横から覗き込んだ。
二文字か三文字ぶん、確かに何かが書いてある。線としては成立している。だが、それを何の字とも読めない。
みなも自身にも分かっていない顔だった。
「私、今、何を書いた?」
「書いてはいる」
「読める?」
「読めない」
彼女はノートを閉じて、それから開き直した。
もう一度見て、もう一度分からない顔をした。
三回目で、彼女はノートを机に置いた。
「気持ち悪い」
彼女はひどく素直にそう言った。
俺は少しだけ安心した。
気持ち悪いと言える人が、隣にいる。それはたぶん、ありがたいことだった。二年間、俺はこの気持ち悪さを一人で抱えて、誰にも言わずに慣れていった。
慣れるというのは、感覚を殺すことだ。
この人はまだ殺していない。
「柊くんは平気なの?」
「平気じゃない」
「平気そうな顔してる」
「……慣れただけだ」
言ってから、口が滑ったと思った。
みなもは何か聞きたそうな顔をして、結局、聞かなかった。
◇
「写真は?」
三つ目は俺が出した。
「名簿を撮る。撮って、あとで見る。撮った時点では俺の頭を通ってない」
「あ、それいいかも」
俺はスマホを構えて、名簿の該当ページを撮った。
画面に表示されたサムネイルを開く。
文字は写っていた。ピントも合っている。拡大すればさらにはっきり見える。
見えるのに、入らない。
「……だめだ」
「うわ、ほんとだ。私も見てる。見てるのに」
みなもが自分のこめかみを押さえた。
「これさ、目が悪いとかじゃないんだよね。目はちゃんと働いてる」
「働いてる」
「じゃあどこが壊れてんの」
俺は答えられなかった。
その答えを探すのが、たぶん今日の仕事だった。
俺は撮った写真を、みなもに送った。彼女のスマホでも同じかどうかを確かめるためだ。
結果は同じだった。
みなもがスマホをテーブルに伏せて、両手で顔をこすった。
「疲れた」
「まだ二十分しか経ってない」
「頭が疲れるやつなんだよ、これ。体育のあとより疲れる」
それは分かる気がした。
二年前、俺が最初にこの感覚に当たったとき、三日ほど眠りが浅くなった。答えの出ないものを見続けると、身体のほうが先に音を上げる。
「柊くん、ちゃんと寝てる?」
「寝てる」
「昨日何時間?」
「……四時間」
「四時間は寝てるって言わないよ」
「五時間だったかもしれない」
「増やすな」
俺は口を閉じた。
「あと何がある?」
「集合写真」
「顔? 顔なら文字じゃないもんね」
去年のクラス写真は、教室の後ろの壁に貼ってある。俺たちは図書室を出て、二年三組の教室まで歩いた。
昼休みの終わりが近くて、廊下は人が多かった。
途中で大友蓮とすれ違った。
「お、柊。芹沢と一緒とか珍しいな」
「用がある」
「ふーん」
あいつはにやにやしながら、俺の肩を軽く叩いて行った。
「今の、絶対誤解してるよ」
「してるだろうな」
「訂正しないの?」
「訂正すると、あいつの場合は余計に長引く」
「……それは分かる」
みなもが少し笑った。
その笑い方が、さっきまでの張りつめた顔を一度だけ緩めた。
廊下の窓の外で、雨がまた少し強くなっていた。
◇
クラス写真の前で、みなもが指を止めた。
「三列目の、右から四番目」
俺はそこを見た。
顔が写っている。制服を着た、笑っていない女子生徒だ。前髪が少し長い。両隣の生徒とは少し距離が空いている。
見えている。
だが、誰なのかを組み上げられない。
目の形を見る。見ているうちに、さっき見たはずの口元が思い出せなくなる。輪郭に戻る。今度は目の形が抜けている。
梔子の顔を見たときと、同じだった。
あの人なら、この子が誰なのかを知っている。
四つ折りの紙が、上着の内側にある。あれを一枚もらえば、この写真の顔は組み上がるのかもしれない。
考えた自分に、少し驚いた。
断ったのは俺だ。断って三日で、もう天秤に載せている。
俺は写真から目を離して、指でこめかみを押した。
「柊くん」
みなもの声が、少し掠れていた。
「私、この子の隣にいる」
俺は写真をもう一度見た。
三列目、右から五番目。芹沢みなもが、口を開けて笑っている。
肩が触れそうな距離だった。
二人とも、たぶん誰かに何か言われて笑っている。写真を撮る直前に、隣で何かがあったのだろう。
撮影者が「はい、笑ってー」と言った、そのあとの数秒。誰かが余計なことを言って、二人が同時に噴き出した。そういう種類の笑い方だった。
その「余計なこと」を、この世の誰も覚えていない。
俺は自分の胸のあたりが、重くなるのを感じた。
怒りでも、悲しみでもなかった。もっと鈍い、名前のつかない重さだった。
「私、この子と何して遊んだんだろう」
彼女は写真から目を離さなかった。
俺は何も言えなかった。
言葉が見つからなかったのではない。言えば嘘になるものしか、思いつかなかった。
予鈴が鳴った。
廊下の人が減っていく。誰も、この写真の前で足を止めない。
通り過ぎる生徒の何人かは、去年この教室にいた連中のはずだった。
三列目の右から四番目に誰がいるかを、この学校の誰も気にしていない。気にしていないのではなく、気にする対象として認識されていない。
そこに空白があることすら、誰も知らない。
みなもの目の縁が、少しだけ光った。
彼女はそれを、手の甲で乱暴に拭った。ひどく雑な拭き方だった。
「泣いてないから」
「言ってない」
「言いそうな顔してた」
彼女は先に歩き出した。
俺は写真の前に一秒だけ残って、それから追いかけた。
追いつくのに、少し急ぐことになった。
声をかけるべきなのは分かっていた。何を言えばいいかも、頭の中では三つくらい候補があった。
結局、どれも言わなかった。
二年間で減ったのは、たぶん語彙ではない。言うと決める速さのほうだ。
録音も、書き取りも、写真も、どれも残らなかった。




