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力を使うたび、誰かが俺を忘れていく —— だから怪異は、殴らずに外す  作者: 八夜巡


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第13話 認識だけが落ちる

 その夜、俺は机に紙を一枚置いた。


 昼に試したことを、上から順に書き出す。頭の中で並べようとすると、必ずどこかが抜ける。二年間でそれは学んだ。手で書いたものしか信用しない。


 録音した。声が出なかった。

 書き写した。線は残ったが、字にならなかった。

 写真を撮った。像は残ったが、認識できなかった。

 集合写真を見た。顔は写っていたが、組み上がらなかった。


 四つ並べて、俺はそれを眺めた。


 共通しているものが、一つある。


 しばらく気づかなかった。三十分近く、同じ四行を眺めていた。


 途中で腹が鳴って、台所にパンを取りに行った。戻ってきて座り直した瞬間に、見えた。


 こういう見え方をするときは、たいてい当たっている。


 どれも、記録の側は無事だ。


 音声データは三十二秒ぶん存在している。ノートには線が残っている。写真は容量を食っている。集合写真は色褪せてすらいない。


 壊れているのは、記録ではない。


 記録を受け取る側だ。


 俺はペンを置いて、椅子の背にもたれた。


 肩が凝っていた。首を回すと、右側で小さく音が鳴った。この数日、机に向かう時間が長すぎる。


 時計は十一時を過ぎていた。数学のプリントは今日も白紙のままだ。


 嬉しかった。


 自分でも意外なくらい、はっきりとそう思った。


 三日かかって、やっと一つ分かった。分かったところであの子が戻るわけではないし、次に何をすればいいかも見えていない。


 三日だ。


 あの人に聞けば、たぶん三分で済んだ。


 名前を一つ買えば、その名前が持っている力で、認識ごと引きずり出せるのかもしれない。三日ぶんの机が、まるごと要らなくなる。


 要らなくなるのは、机だけではない。


 俺は自分の指を見た。震えていない。震えていないから、まだ大丈夫だと思うことにした。


 それでも嬉しかった。


 二年間、こういう瞬間を一人で味わってきた。誰かに言いたい、と思ったのは初めてかもしれない。


 スマホを手に取って、みなもへのメッセージ画面を開いた。


 十一時二十分。


 起きているかもしれない。だが起きていなかったら、通知で起こすことになる。


 俺は画面を閉じた。


 閉じてから、閉じたことを少し後悔した。


   ◇


 翌日の放課後、俺は図書室に行った。


 宮杜さんはカウンターで、返却された本のバーコードを読ませていた。電子音が一定の間隔で鳴っている。


「柊くん。顔色は、少し戻りましたね」


「そうですか」


「昨日よりは。——何か分かりました?」


 俺は昨日の紙を出して、カウンターに置いた。


 出す前に、少し迷った。


 人に見せるつもりで書いたものではない。字が汚い。四行目の「組み上がらなかった」のところで、ペンが引っかかって線が飛んでいる。


 それでも出した。


 彼女は読んだ。読みながら、途中で一度だけ眉を動かした。


「これ、面白いですね」


「面白い、ですか」


「言い方が悪かったです。すみません」


 彼女はスキャナを置いた。


「でも、そう思ったのは本当です。——記録は残るのに、認識だけ落ちる。これ、記録の話じゃないんですよ」


「はい」


「人の話です」


 俺は顔を上げた。


「記録っていうのは、誰かが読んで初めて記録になるんです。誰にも読まれない紙は、ただの紙で」


 彼女はカウンターの下から、あの大学ノートを出した。表紙の角が丸くなった、十年ぶんのノートだ。


「私がこれを集めてるのも、そういうことなんですよね。書いてある噂って、誰かが読まなくなった瞬間に消えるので」


「……消える」


「消えます。紙は残っても」


 俺は自分の紙をもう一度見た。


 四行の下に、五行目を書き足した。


 消えているのは、記録ではなく、記録を受け取る側の回路。


   ◇


「確かめたいことがあります」


 俺は言った。


「私にできることなら」


「宮杜さんが、その名前を読めるか」


 彼女はしばらく黙った。


「私は、その子と面識がありません」


「はい」


「それでも読めないなら——」


「関係の有無じゃないってことになります」


 彼女は少し考えて、それから頷いた。


「やりましょう」


 俺は名簿を開いて、二年三組のページを出した。


 カウンターの上に置いて、彼女のほうへ向ける。


 宮杜さんが指を置いた。上から四番目。


 その指が、一度止まった。


 止まって、それから動いた。もう一度上に戻って、また下りてきた。


 三回目で、彼女は手を離した。


 その手が、少し止まっていた。指先が名簿の上で行き場を失って、それからカウンターに下りた。


「……なるほど」


「読めませんか」


「読めません。読んでいるはずなんですけど」


 彼女はカウンターに肘をついて、額を軽く押さえた。


「気持ちが悪いですね、これ」


「はい」


「柊くん、よくこれを平気な顔で調べてましたね」


「平気ではないです」


「そうですか」


 彼女は少し笑った。疲れた笑い方だった。


「じゃあ、お互い様ですね」


 彼女はスキャナを取り直して、返却の続きを始めた。


 電子音が、また一定の間隔で鳴り出す。


 その音を聞きながら、俺は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 平気ではない、と言える相手が二人になった。


 昨日、みなもが同じことを言った。


 二人とも、まったく同じ言葉を選んだ。


「柊くん、これ、前任の人のときと同じです」


 俺は息を止めた。


「引き継ぎ書。読んだのに入ってこなかったやつ。あれと、まったく同じ感じでした」


 同じ形が、二件になった。


 一件なら偶然と言える。二件あれば、それは型だ。


 背中が冷えた。


 二件目があるということは、三件目もある。


 この学校のどこかに、まだ誰も気づいていない空白が、あと何個あるのか。


 数えようとして、やめた。


 数えても、答えは出ない。出ない答えを数えるのは、ただ怖がるのと同じだ。


   ◇


 俺は自分の家に帰って、玄関で靴を脱いだ。


 雨は昼過ぎに上がっていた。傘は結局使わないまま、鞄の横に差してある。三日ぶりに持ってきた日に限って降らない。


 台所から音がしていた。姉が夕飯を作っている音だ。フライパンの音と、換気扇の音。


 いい匂いがした。腹が鳴った。


 今日は昼を食べている。それでも鳴る。三日ぶんの寝不足は、腹の減り方まで変えるらしい。


「悠。手ぇ洗って。あと洗濯物、自分の分は自分でたたんで」


 姉の声が、廊下の向こうから飛んできた。


 振り向く前に、名前が来た。


 一拍が、無い。


 俺はその場に立ったまま、それを確認した。二年間、毎日確認してきた癖だ。


 安心する。


 毎回、少しだけ安心する。安心して、そのあとで自分が嫌になる。


 姉が俺を呼ぶたびに、俺は測っている。測られていることを、あの人は知らない。


 洗面所で手を洗いながら、鏡を見た。


 目の下が黒い。大友に言われたとおりだった。四時間睡眠が三日続けば、そうもなる。


 水が冷たかった。九月の終わりの水温だ。指先が少し痛くなるまで、俺はそのまま流していた。


 顔を上げて、鏡の中の自分を見る。


 見える。組み上がる。当たり前だ。


 だが——姉にとっては、どうなんだろう。


 俺の顔は、姉の中でちゃんと組み上がっているのか。名前は出てくる。呼んでもくれる。だがその手前で、何かが一拍ぶん薄くなっているのだとしたら。


 それは、名簿の文字と同じ形をしていないか。


 俺は蛇口を止めた。


 水の音が消えて、台所の音だけが残った。


 姉は、いつからか俺の写真を撮らなくなった。


 二年前まで、あの人はやたらと写真を撮る人だった。何でもない日の夕飯を撮って、家族のグループに送ってくるような。


 俺が制服を汚して帰った日も撮られた。テストの点が悪かった答案も撮られた。「記念」と言って笑っていた。


 最後に俺が写った写真が、いつのものかを、俺は知らない。


 スマホのアルバムを開けば、たぶん分かる。家族のグループを遡れば、日付まで出る。


 俺はスマホをポケットから出して、そのまま戻した。


 怖かった。


 調べれば分かる。分かってしまえば、それは変えられない数字になる。


 ——数えたことが、無い。


 二年間、俺は姉の一拍だけを数えてきた。数えやすかったからだ。目に見えて、秒で測れて、日付をつけて記録できた。


 測りやすいものだけを測って、測りにくいものを見ないふりしてきた。


 俺はタオルで手を拭いて、それを掛け直してから廊下に出た。


 台所の入口から、姉の背中が見えた。エプロンの紐が、いつもどおり雑に結んである。


「姉ちゃん」


「なに」


「……いや」


「なによ。言いかけてやめるの、昔からやめてって言ってる」


 姉は振り返らずにそう言った。


 振り返らなくても、俺がそこにいることは分かっている。声で分かる。それは残っている。


 残っているものを数えるほうが、たぶん正しい。


 だが俺は、二年間ずっと、減ったものだけを数えてきた。


「飯、手伝うよ」


「じゃあ皿出して。四枚」


 四枚、と姉は言った。


 俺の手が、戸棚の前で止まった。


 いつからだったか。何も言わなくても四枚になったのは。


 三枚のときが、確かにあった。一年前は、ほとんど三枚だった。俺が自分で出して、四枚目を足していた。


 いつ、どこで、四枚に戻ったのか。


 俺はそれを数えていない。


 減るものだけを数えて、戻るものを数えなかった。数える対象を自分で選んで、選んだ結果だけを見てきた。


 二年間ずっとだ。


 喉の奥が、少し詰まった。


 俺は戸棚を開けて、茶碗を四つ出した。

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