第14話 姉の日常
姉は大学二年で、週に三日バイトをしている。
駅前のドラッグストアだ。夕方から九時まで。バイトのない日は四時過ぎに帰ってきて、そのまま台所に立つ。
母は仕事で帰りが遅い。父はもっと遅い。だからこの家の夕飯は、二年前から姉が作っている。
二年前から、というのが、俺には引っかかっている。
それ以前は母が作っていた。姉が代わったのは、大学に入ったからだと本人は言っている。時間ができたから、と。
だが時間なら、高校三年の姉にも多少はあった。
俺はその話を、姉に一度もしていない。
聞けば答えは返ってくる。返ってきた答えが本当かどうかを、俺には確かめる方法がない。
それに、聞いてどうする、という問題もある。
もし「あんたが心配だったから」と言われたら、俺はどうすればいいのか。二年前に何が起きたかを、姉は知らないはずだ。知らないまま、何かを感じ取って台所に立った。
そう考えるのは、たぶん都合が良すぎる。
俺はそういう都合の良い解釈を、ここ二年で何度もしては捨ててきた。
◇
金曜日は、姉のバイトが休みだった。
俺が帰ったとき、台所からはもう油の音がしていた。
玄関に姉の靴があった。揃えて脱いである。
この人は靴だけは必ず揃える。部屋は多少散らかっていても、玄関だけは整っている。
いつからそうなのかは、覚えていない。
鞄を置いて、制服のまま台所を覗く。
換気扇の音がうるさかった。窓が少し開いていて、外の空気が入ってくる。九月の終わりの夜の匂いがした。
姉はフライパンに向かって、右手で菜箸を動かしながら、左手でスマホをスクロールしていた。
「危ないだろ、それ」
「見てるだけ」
「見てるだけでも危ない」
「五年やってて一回も焦がしてない」
五年、と姉は言った。
俺の記憶では二年だ。だが訂正はしなかった。姉の中では五年なのかもしれないし、単に大げさに言っただけかもしれない。
どちらなのかを確かめる方法が、やはり無い。
「悠。米」
「炊いてある」
「え」
姉が初めてこちらを向いた。
「炊いといたのか」
「朝、タイマーにした」
「……ふうん」
彼女はスマホを置いて、菜箸を持ち直した。
「明日もやって」
礼は言わなかった。この人はそういう人だ。
だが「明日もやって」は、この人にとってはたぶん礼に近い。当てにする、という形の礼だ。
◇
俺は自分の部屋に鞄を置いて、着替えて、戻ってきた。
テーブルに皿が四枚並んでいる。姉が出したのか、俺が昨日出したままなのかは分からない。
姉は炒め物を皿に移していた。背中を向けたまま言う。
「悠。醤油」
「ん」
冷蔵庫から出して、テーブルに置く。
「あと箸」
「ん」
用件しか言わない人だった。昔からそうだ。
「ありがとう」も「ごめん」も、あまり言わない。その代わりに、次の用件を渡してくる。
二年前も同じだった。そこは変わっていない。
変わったのは、名前を呼ぶまでの時間だけだ。
俺は箸を四膳出して、テーブルに置いた。
置いてから、姉のほうを見た。
「姉ちゃん」
声をかけた。
姉はフライパンを持ち上げたまま、動きを止めた。
一拍。
まばたきが二回。焦点が、俺の顔の上で一度ずれる。
二拍目。
「……ああ。なに」
俺は自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
伸びている。
二拍。はっきりと二拍だった。
一拍目のあと、彼女の目が一度だけ天井のほうへ動いた。何かを思い出そうとするときの動きだ。それから戻ってきて、そこで焦点が合った。
その「天井のほうへ動く」が、以前は無かった。
いつからだ。
昨日は一拍だった。一昨日も一拍だった。それは確かめている。毎日確かめている。
だが「一拍」と俺が呼んでいるものが、本当に同じ長さなのかを、俺は測っていない。
目盛りが荒すぎた。
俺はずっと「一拍か、そうでないか」だけを見てきた。一拍の中で少しずつ伸びていく分を、拾えていなかった。
名簿の文字と同じだ。
毎日見ているのに、頭に入っていなかった。目は働いていた。記録もしていた。日付をつけてノートに書いていた。
それでも取りこぼした。
測る、という行為には、必ず先に「何を測るか」の選択がある。その選択を間違えれば、どれだけ丁寧に測っても、測っていないものは永久に見えない。
俺は自分の指を握った。爪が手のひらに食い込んだ。
「悠?」
「……いや。皿、置いた」
「見れば分かる」
姉は炒め物をテーブルに置いて、エプロンを外した。
その動作の途中で、俺の顔を一度見た。
「あんた、寝てる?」
「寝てる」
「顔がひどい」
「そうか」
「そうかじゃなくて。倒れられたら私が困る」
心配している、とは言わない人だった。
この人の心配は、いつも「私が困る」の形で来る。
昔からそうだった。俺が高熱を出した中学のときも、この人は「明日部活休むことになるから早く治して」と言った。
その日の夜、姉が二回起きて俺の額を触りに来たことを、俺は知っている。二回目のときに起きていたからだ。
言わない人なのであって、無い人ではない。
それは分かっている。分かっているのに、その人が俺を思い出すのに二拍かかるようになったという事実だけが、他のすべてを塗り潰そうとする。
◇
夕飯のあと、姉はリビングのソファに座って、スマホを見ていた。
俺は洗い物をしていた。皿が四枚。茶碗が四つ。箸が四膳。
昨日と同じ数だ。一昨日も同じだった。
数えるのをやめようと思った。
思ったが、手が勝手に数えていた。二年でついた癖は、思っただけでは外れない。
水の音に混じって、姉が何かを書いている音が聞こえた。
ボールペンが紙を擦る音だ。短く、途切れて、また短く。
振り返る。
姉はソファの前のローテーブルに、ノートを開いていた。
スマホを左手に持って、画面を見ながら、右手で何かを書き写している。
大学の課題だろうか、と最初は思った。
だが、姉の書き方が妙だった。
スマホを見る。ノートに一行書く。またスマホを見る。また一行書く。
その一行が、毎回とても短い。
課題なら、もっとまとまった量を書くはずだ。あの書き方は、単語を書き写すときの動きだった。
「何それ」
聞いてから、聞くべきではなかったかもしれないと思った。
姉は顔を上げずに答えた。
「メモ」
「何のメモ」
「いろいろ」
それで終わりだった。
この人は、答えたくないことを黙らない。短い言葉で塞ぐ。
俺は蛇口を止めた。
止めてから、自分がまだ振り返ったままだったことに気づいて、慌てて前を向いた。
◇
九時前に、姉が立ち上がった。
「コンビニ行く。何かいる?」
「いらない」
「そう」
彼女はノートを閉じて、財布とスマホを持って玄関へ向かった。
閉じたノートは、ローテーブルの上に置いたままだった。
玄関が閉まる音がした。
鍵をかける音。それから、足音が遠ざかっていく音。
リビングに、俺一人が残った。
テレビはついていない。冷蔵庫の音だけがしている。
俺はノートを見た。
表紙に何も書いていない、どこにでもある大学ノートだ。宮杜さんが使っているのと同じ形をしている。
開けば分かる。
開かなければ、分からない。
俺はその場から動かなかった。
動かないまま、別のことを考えていた。
——姉は、もう一拍じゃない。二拍だ。
だとしたら。
喉の奥に、名前が上がってきた。
二年前に一度だけ借りた、あの怪異の名。
いま俺が抱えている問題は、たぶんあれを使えば片がつく。名簿の文字を読む方法も、あの子を戻す道筋も、借りれば見えるかもしれない。
削られるのは、一番上にいる人だ。
今の一番上は、みなもだ。姉ではない。
——だが。
もし削るのが姉だとしても、と俺は思った。
二拍が三拍になったところで、何が変わる。
一拍が二拍になったとき、姉は変わったか。飯を作っている。米を炊けと言う。倒れられたら困ると言う。何も変わっていない。
だったら、三拍でも同じではないか。
もう十分に削れているのだから、あと少し削っても——
俺はそこで、自分の思考を止めた。
止めたのに、心臓が速くなっていた。
今のは、二年間で一番危ない考え方だった。
「もう削れているから、もう少し削っても同じ」。この理屈は、どこまでも伸びる。三拍でも同じなら四拍でも同じで、四拍でも同じなら五拍でも同じだ。
止まるところが無い。
俺は自分の手のひらを見た。
汗をかいていた。
名前を口にしていないのに、口にしたときと同じ量の汗をかいている。
俺は洗面所に行って、顔を洗った。冷たい水が、こめかみの内側まで届いた。
タオルで顔を拭いて、リビングに戻った。
ノートは、まだそこにある。
俺は手を伸ばさなかった。
代わりに、二階の姉の部屋の前まで行って、そこで立ち止まった。
ドアは半分開いていた。
電気が点いたままだ。姉は消し忘れたらしい。
中を覗く。
ベッドと、机と、本棚。散らかってはいない。姉は片付けが得意なほうではないが、散らかす前に捨てるタイプだ。
机の上に、ノートがもう一冊あった。
開いたままだった。




