第15話 一拍
姉の部屋に入るのは、二年ぶりだった。
入る理由が無かったからだ。用があれば廊下から呼ぶし、姉も俺の部屋には入らない。この家はそういう距離でできている。
ドアは半分開いている。
俺はそこで一分ほど立っていた。
入るべきではない、というのは分かっていた。人の部屋を勝手に見るのは、理由が何であれ良くない。
だが、机の上のノートが開いたままだった。
閉じてあれば、たぶん俺は入らなかった。閉じたものを開ける勇気は無い。開いているものを見るだけなら、と自分に言い訳ができてしまう。
その言い訳の薄さも、分かっていた。
俺は部屋に入った。
床が一度だけ鳴った。
部屋の空気が、少し冷たかった。窓が細く開いている。姉は寝るとき必ず窓を開ける人だった。冬でもそうだ。
ベッドの上に、洗濯物がたたんで置いてあった。俺の分も混じっている。自分でたためと言われた分が、結局この人の手でたたまれている。
それを見た瞬間、部屋に入ったことが急に後ろめたくなった。
だが足は止まらなかった。
◇
机の上のノートは、罫線の入った普通のものだった。
一ページに、短い行がいくつも並んでいる。
左側に日付。右側に、文字。
俺は最初の行を読んだ。
4/12 柊 悠
次の行。
4/13 柊 悠
4/14 柊 悠
俺は指を止めた。
毎日、俺の名前が書いてある。
同じ字で、同じ形で、同じ位置に。日付だけが一日ずつ進んでいく。
四月。五月。六月。ページをめくる。七月。八月。
途中、何日か字が乱れている箇所があった。
六月の後半。三日続けて、字が大きくなって、線が震えている。
その頃、姉は期末のレポートで徹夜していた。俺は覚えている。台所の電気は朝まで点いていて、俺の起きたときには姉がテーブルに突っ伏していた。
疲れていても、書いている。
九月の頭にも同じ箇所があった。バイト先が忙しかった週だ。姉が「今週は死ぬ」と言っていた。
死ぬと言いながら、書いている。
九月まで来て、俺は手を止めた。
昨日の日付があった。
9/25 柊 悠
インクの色が、他の行より少し濃い。昨日書いたばかりだからだ。
俺は最初のページに戻った。
四月十二日から始まっている。半年分。
一日も飛んでいなかった。
◇
俺は自分が息を止めていることに気づいて、吐いた。
吐いた音が、思ったより大きく部屋に響いた。
姉は知っていた。
自分が弟の名前を思い出しにくくなっていることを、この人は知っていた。知っていて、誰にも言わず、毎日ノートに書いていた。
書けば忘れないと思ったのだろうか。
たぶん、そうではない。
書いても忘れることを、この人はもう知っている。知っているから、毎日書き直している。一度書けば済むなら、二回目は要らない。
毎日書くというのは、毎日消えていることを認めているということだ。
俺の手が震えた。
ページを持つ指が、紙を軽く波打たせた。
半年。百六十日以上。
その全部を、この人は一人でやっていた。俺が「今日は一拍だった」と数えていた、その同じ日の夜に、この人は俺の名前を書いていた。
同じ家の、違う部屋で。
俺は口を押さえた。
声が出そうだった。何の声かは分からなかった。
二年間、俺は姉を「削られている側」だと思っていた。削られて、減っていって、いつか俺を忘れる人だと。
違った。
この人は、戦っていた。
武器がボールペン一本しかない状態で、相手が何なのかも分からないまま、半年間毎日、名前を書いていた。
俺はその戦いを、一度も見ていなかった。
見ようとしていなかった。
姉の一拍を測ることには熱心で、姉が何をしているかは見ていなかった。
朝、茶碗が三つしかないのを見る。声をかける。一拍待つ。数える。記録する。
それで終わりにしていた。
毎朝そこにいたのに、この人がどんな顔をして俺を呼んだかを、俺は一度も見ていない。
一拍という数字だけを見ていた。
数字は便利だ。日付をつけて並べれば、増えたか減ったかが分かる。分かった気になれる。
だが数字にした瞬間に、その人が落ちる。
俺は手のひらで顔を一度こすった。
昨日、洗い物をしながら「数えるのをやめよう」と思った。思っただけで、手は数えていた。
二年でついた癖は、思っただけでは外れない。
だが、外さないと届かないものが、この部屋にあった。
◇
俺はページをもう一度めくった。
最後のページ。九月二十五日の行の、その下。
空白があって、そこにもう一行あった。
日付が入っていない。他の行とは違う位置に、少し離れて書かれている。
俺はそれを読んだ。
——読めなかった。
字はある。姉の字だ。同じボールペンで、同じ筆圧で書かれている。三文字か、四文字。
読める。形は見えている。
だが、頭に入らない。
目が字面を通過して、その先に何も残らない。今読んだはずのものを、もう一度読み直そうとして、自分がどこを読んでいたか分からなくなる。
俺は三回、同じ行を往復した。
四回目で、指を離した。
この形には、覚えがある。
名簿の二年三組。写真の三列目、右から四番目。宮杜さんの前任者。
四件目だ。
俺は自分の膝が震えているのに気づいて、机に手をついた。
だが、そこから先が違った。
名簿のときは、誰も気づいていなかった。写真のときも、宮杜さんの引き継ぎ書のときも、誰も空白に気づいていなかった。
この行は違う。
姉は、この行を書いている。
読めないものを、書いている。
俺はもう一度その行を見た。
書き方が、上の行とまったく同じだった。同じ丁寧さで、同じ大きさで。読めない字を、この人は毎日と同じ手つきで書き写している。
日付が入っていないのは、たぶん、いつから書き始めたか分からないからだ。
いや——違う。
俺はページを遡った。
四月十二日のページ。その行の下にも、同じ位置に、同じ読めない行があった。
五月にも。六月にも。
全部のページにあった。
半年間、毎日。
この人は、「柊 悠」の下に、読めない名前を書き続けていた。
誰なのか分からないまま。
なぜ書いているのかも、たぶん分からないまま。
俺はその行を、指でなぞった。
紙にわずかな凹凸があった。ボールペンの押し跡だ。強く書いている。
読めない字を強く書くというのは、どういう気持ちなんだろう。
書いている本人は、何を書いているか分かっていない。分からないのに、毎日同じ場所に同じ字を置いている。
義務でも、習慣でもない。
たぶん、この人の中には「ここに何かがある」という感覚だけが残っている。中身が抜けて、輪郭だけが残っている。
みなもが言っていたのと、同じことだ。
——仲良かった「はず」っていうことだけ。
姉は、それを毎日ノートに書き写している。
俺は喉の奥が締まるのを感じた。
◇
玄関が開く音がした。
俺は反射的にノートを閉じかけて、そこで手を止めた。
閉じたら、開いていた事実が消える。
俺はノートを元の角度に戻して、部屋を出た。廊下の電気を消して、自分の部屋に入って、ドアを閉めた。
階下で、袋の音がした。姉が買い物から戻った音だ。
俺はベッドに座って、しばらく動けなかった。
心臓の音が、耳の裏でずっと鳴っている。
手が冷たかった。指先だけが冷えて、それ以外は妙に熱い。
怖い、と思った。
何が怖いのかを、俺はうまく言葉にできなかった。姉が忘れることが怖いのは前からだ。今の怖さは、それとは少し違う場所から来ている。
喉が渇いていた。だが下に降りる気になれなかった。今の顔を見られたら、何かを聞かれる。
聞かれても、答えられない。
俺は膝を抱えて、自分の呼吸を数えた。
十まで数えて、また一に戻る。それを三回やった。
三回目の途中で、目の奥が熱くなった。
泣くつもりは無かった。
泣いてどうする、とも思った。泣いても姉のノートの行数は減らないし、読めない名前が読めるようになるわけでもない。
だが涙が出るのは、たぶん、意思とは関係のない場所で起きる。
悔しかった。
悲しいのとは違った。もっと苦い、自分に向いた種類のものだった。
半年間、同じ家にいて、俺は気づかなかった。
怪異の理は三回聞けば絞れると言って、七人に聞き取りをして、噂の芯を取り出して、それを二年間やってきた男が、廊下の向こうの部屋で毎晩起きていたことに気づかなかった。
恥ずかしかった。
自分が積み上げてきたものが、急に薄っぺらく見えた。
俺は膝に顔を押しつけて、しばらくそのままでいた。
制服のズボンが、少し濡れた。
階下で、姉がテレビをつける音がした。
いつもの音量だった。
その音を聞きながら、俺は一つだけはっきり分かったことがあった。
姉のノートの二行目に書いてあるのは、俺の知らない誰かだ。
だが——俺だけは、知っているかもしれない。
二年前のあの夜、俺は名を借りていた。借りている間、俺は理の外側にいた。
外側にいた者だけが、内側で消えたものを覚えている。
俺は顔を上げた。
思い出せ、と自分に言った。
二年前。四月十七日。あの夜、俺と姉のほかに、もう一人いなかったか。




