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力を使うたび、誰かが俺を忘れていく —— だから怪異は、殴らずに外す  作者: 八夜巡


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15/28

第15話 一拍

 姉の部屋に入るのは、二年ぶりだった。


 入る理由が無かったからだ。用があれば廊下から呼ぶし、姉も俺の部屋には入らない。この家はそういう距離でできている。


 ドアは半分開いている。


 俺はそこで一分ほど立っていた。


 入るべきではない、というのは分かっていた。人の部屋を勝手に見るのは、理由が何であれ良くない。


 だが、机の上のノートが開いたままだった。


 閉じてあれば、たぶん俺は入らなかった。閉じたものを開ける勇気は無い。開いているものを見るだけなら、と自分に言い訳ができてしまう。


 その言い訳の薄さも、分かっていた。


 俺は部屋に入った。


 床が一度だけ鳴った。


 部屋の空気が、少し冷たかった。窓が細く開いている。姉は寝るとき必ず窓を開ける人だった。冬でもそうだ。


 ベッドの上に、洗濯物がたたんで置いてあった。俺の分も混じっている。自分でたためと言われた分が、結局この人の手でたたまれている。


 それを見た瞬間、部屋に入ったことが急に後ろめたくなった。


 だが足は止まらなかった。


   ◇


 机の上のノートは、罫線の入った普通のものだった。


 一ページに、短い行がいくつも並んでいる。


 左側に日付。右側に、文字。


 俺は最初の行を読んだ。


4/12 柊 悠


 次の行。


4/13 柊 悠


4/14 柊 悠


 俺は指を止めた。


 毎日、俺の名前が書いてある。


 同じ字で、同じ形で、同じ位置に。日付だけが一日ずつ進んでいく。


 四月。五月。六月。ページをめくる。七月。八月。


 途中、何日か字が乱れている箇所があった。


 六月の後半。三日続けて、字が大きくなって、線が震えている。


 その頃、姉は期末のレポートで徹夜していた。俺は覚えている。台所の電気は朝まで点いていて、俺の起きたときには姉がテーブルに突っ伏していた。


 疲れていても、書いている。


 九月の頭にも同じ箇所があった。バイト先が忙しかった週だ。姉が「今週は死ぬ」と言っていた。


 死ぬと言いながら、書いている。


 九月まで来て、俺は手を止めた。


 昨日の日付があった。


9/25 柊 悠


 インクの色が、他の行より少し濃い。昨日書いたばかりだからだ。


 俺は最初のページに戻った。


 四月十二日から始まっている。半年分。


 一日も飛んでいなかった。


   ◇


 俺は自分が息を止めていることに気づいて、吐いた。


 吐いた音が、思ったより大きく部屋に響いた。


 姉は知っていた。


 自分が弟の名前を思い出しにくくなっていることを、この人は知っていた。知っていて、誰にも言わず、毎日ノートに書いていた。


 書けば忘れないと思ったのだろうか。


 たぶん、そうではない。


 書いても忘れることを、この人はもう知っている。知っているから、毎日書き直している。一度書けば済むなら、二回目は要らない。


 毎日書くというのは、毎日消えていることを認めているということだ。


 俺の手が震えた。


 ページを持つ指が、紙を軽く波打たせた。


 半年。百六十日以上。


 その全部を、この人は一人でやっていた。俺が「今日は一拍だった」と数えていた、その同じ日の夜に、この人は俺の名前を書いていた。


 同じ家の、違う部屋で。


 俺は口を押さえた。


 声が出そうだった。何の声かは分からなかった。


 二年間、俺は姉を「削られている側」だと思っていた。削られて、減っていって、いつか俺を忘れる人だと。


 違った。


 この人は、戦っていた。


 武器がボールペン一本しかない状態で、相手が何なのかも分からないまま、半年間毎日、名前を書いていた。


 俺はその戦いを、一度も見ていなかった。


 見ようとしていなかった。


 姉の一拍を測ることには熱心で、姉が何をしているかは見ていなかった。


 朝、茶碗が三つしかないのを見る。声をかける。一拍待つ。数える。記録する。


 それで終わりにしていた。


 毎朝そこにいたのに、この人がどんな顔をして俺を呼んだかを、俺は一度も見ていない。


 一拍という数字だけを見ていた。


 数字は便利だ。日付をつけて並べれば、増えたか減ったかが分かる。分かった気になれる。


 だが数字にした瞬間に、その人が落ちる。


 俺は手のひらで顔を一度こすった。


 昨日、洗い物をしながら「数えるのをやめよう」と思った。思っただけで、手は数えていた。


 二年でついた癖は、思っただけでは外れない。


 だが、外さないと届かないものが、この部屋にあった。


   ◇


 俺はページをもう一度めくった。


 最後のページ。九月二十五日の行の、その下。


 空白があって、そこにもう一行あった。


 日付が入っていない。他の行とは違う位置に、少し離れて書かれている。


 俺はそれを読んだ。


 ——読めなかった。


 字はある。姉の字だ。同じボールペンで、同じ筆圧で書かれている。三文字か、四文字。


 読める。形は見えている。


 だが、頭に入らない。


 目が字面を通過して、その先に何も残らない。今読んだはずのものを、もう一度読み直そうとして、自分がどこを読んでいたか分からなくなる。


 俺は三回、同じ行を往復した。


 四回目で、指を離した。


 この形には、覚えがある。


 名簿の二年三組。写真の三列目、右から四番目。宮杜さんの前任者。


 四件目だ。


 俺は自分の膝が震えているのに気づいて、机に手をついた。


 だが、そこから先が違った。


 名簿のときは、誰も気づいていなかった。写真のときも、宮杜さんの引き継ぎ書のときも、誰も空白に気づいていなかった。


 この行は違う。


 姉は、この行を書いている。


 読めないものを、書いている。


 俺はもう一度その行を見た。


 書き方が、上の行とまったく同じだった。同じ丁寧さで、同じ大きさで。読めない字を、この人は毎日と同じ手つきで書き写している。


 日付が入っていないのは、たぶん、いつから書き始めたか分からないからだ。


 いや——違う。


 俺はページを遡った。


 四月十二日のページ。その行の下にも、同じ位置に、同じ読めない行があった。


 五月にも。六月にも。


 全部のページにあった。


 半年間、毎日。


 この人は、「柊 悠」の下に、読めない名前を書き続けていた。


 誰なのか分からないまま。


 なぜ書いているのかも、たぶん分からないまま。


 俺はその行を、指でなぞった。


 紙にわずかな凹凸があった。ボールペンの押し跡だ。強く書いている。


 読めない字を強く書くというのは、どういう気持ちなんだろう。


 書いている本人は、何を書いているか分かっていない。分からないのに、毎日同じ場所に同じ字を置いている。


 義務でも、習慣でもない。


 たぶん、この人の中には「ここに何かがある」という感覚だけが残っている。中身が抜けて、輪郭だけが残っている。


 みなもが言っていたのと、同じことだ。


 ——仲良かった「はず」っていうことだけ。


 姉は、それを毎日ノートに書き写している。


 俺は喉の奥が締まるのを感じた。


   ◇


 玄関が開く音がした。


 俺は反射的にノートを閉じかけて、そこで手を止めた。


 閉じたら、開いていた事実が消える。


 俺はノートを元の角度に戻して、部屋を出た。廊下の電気を消して、自分の部屋に入って、ドアを閉めた。


 階下で、袋の音がした。姉が買い物から戻った音だ。


 俺はベッドに座って、しばらく動けなかった。


 心臓の音が、耳の裏でずっと鳴っている。


 手が冷たかった。指先だけが冷えて、それ以外は妙に熱い。


 怖い、と思った。


 何が怖いのかを、俺はうまく言葉にできなかった。姉が忘れることが怖いのは前からだ。今の怖さは、それとは少し違う場所から来ている。


 喉が渇いていた。だが下に降りる気になれなかった。今の顔を見られたら、何かを聞かれる。


 聞かれても、答えられない。


 俺は膝を抱えて、自分の呼吸を数えた。


 十まで数えて、また一に戻る。それを三回やった。


 三回目の途中で、目の奥が熱くなった。


 泣くつもりは無かった。


 泣いてどうする、とも思った。泣いても姉のノートの行数は減らないし、読めない名前が読めるようになるわけでもない。


 だが涙が出るのは、たぶん、意思とは関係のない場所で起きる。


 悔しかった。


 悲しいのとは違った。もっと苦い、自分に向いた種類のものだった。


 半年間、同じ家にいて、俺は気づかなかった。


 怪異の理は三回聞けば絞れると言って、七人に聞き取りをして、噂の芯を取り出して、それを二年間やってきた男が、廊下の向こうの部屋で毎晩起きていたことに気づかなかった。


 恥ずかしかった。


 自分が積み上げてきたものが、急に薄っぺらく見えた。


 俺は膝に顔を押しつけて、しばらくそのままでいた。


 制服のズボンが、少し濡れた。


 階下で、姉がテレビをつける音がした。


 いつもの音量だった。


 その音を聞きながら、俺は一つだけはっきり分かったことがあった。


 姉のノートの二行目に書いてあるのは、俺の知らない誰かだ。


 だが——俺だけは、知っているかもしれない。


 二年前のあの夜、俺は名を借りていた。借りている間、俺は理の外側にいた。


 外側にいた者だけが、内側で消えたものを覚えている。


 俺は顔を上げた。


 思い出せ、と自分に言った。


 二年前。四月十七日。あの夜、俺と姉のほかに、もう一人いなかったか。

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