第16話 二年前
俺は自分の部屋の床に座って、天井を見ていた。
姉のノートの二行目。読めない三文字か四文字。
思い出せ。
さっき自分に言った言葉を、もう一度言った。
二年間、俺はあの夜のことを思い出さないようにしてきた。思い出しても何も変わらないからだ、と自分に説明していた。
嘘だった。
思い出すのが怖かっただけだ。
時計は十一時を回っていた。階下で姉がテレビを消す音がした。
俺は目を閉じた。
順番に並べる。それが俺のやり方だ。噂を並べるのと同じように、あの日を頭から並べる。
朝から。
二年前の四月、俺は中学三年だった。
その朝のことを、俺は正確に覚えている。
二年間、何度も思い返したからだ。思い返すたびに少しずつ形が変わっている可能性はある。だが、いくつかの点は変わっていない。
台所に立っていたのは母だった。
姉は高校三年で、朝が弱くて、いつもぎりぎりに降りてきた。その日も同じだった。髪を後ろで適当に結びながら、階段を二段飛ばしで降りてきた。
「悠、パン取って」
一拍が、無かった。
当たり前だ。当たり前だった。
俺はトースターからパンを出して、皿に乗せて渡した。姉はそれを立ったまま食べた。座らない人だった。朝は。
その日は暖かかった。四月の中旬で、制服のブレザーがもう暑い時期だ。
俺は前の晩に宿題を終わらせていなかった。数学のワークが半分残っていて、朝のうちに片付けるつもりで早く起きた。結局、姉に話しかけられて手が止まった。
そういう、どうでもいい記憶まで残っている。
残っているのが、少し腹立たしい。
テーブルには茶碗が四つ並んでいた。
誰も数えていなかった。数える理由が無かった。
四人家族だから四つある。それだけのことに、名前をつける必要は無い。
数えるようになったのは、その数が合わなくなってからだ。
◇
俺には幼馴染がいた。
同じ町内で、同じ保育園で、同じ小学校で、同じ中学だった。家は三軒離れていて、母親同士の仲が良かった。
名前を、ここには書かない。
書けないのではない。俺には書ける。俺だけは書ける。
だが、この二年で俺は、心の中でもあいつを名前で呼ばなくなった。
いつからそうなったのかは覚えていない。たぶん、呼ぶたびに何かが減る気がしたからだ。
だからここでは「あいつ」と書く。
あいつは、俺と正反対だった。
背が高くて、声が大きくて、何も考えずに人の輪に入っていく。俺が三回聞いてから話すことを、あいつは一回目で口に出した。
中学の頃、俺はよく怒られていた。何を聞かれても「わからない」と答えるからだ。実際には見当がついていることも多かったが、確かめてから言いたかった。
あいつはその逆で、確かめずに言って、よく間違えて、間違えても平気だった。
「悠は考えすぎ」
あいつはよくそう言った。
「考えてる間に終わっちゃうじゃん」
「終わってから直せばいい」
「直すの面倒じゃん」
そういうやり取りを、たぶん何百回もした。
中学の給食で、あいつは俺の嫌いなものを黙って取っていった。俺が嫌いだと言った覚えは無い。何回か残したのを見て、覚えたらしい。
礼を言ったことは一度も無い。言う空気ではなかった。
冬に手袋を片方なくしたときは、あいつが自分の片方をよこしてきた。「二人で一組」と言って。左右が合っていなくて、俺は右手を二つ持つことになった。
馬鹿だと思った。思ったが、そのままひと冬使った。
あの手袋が、今どこにあるのかを俺は知らない。
俺が今でも人と話すのを苦手にしているのは、あの頃あいつに全部やってもらっていたからかもしれない。俺が黙っていても、あいつの喋りで場は回った。
便利だった。
便利だと思っていたことを、俺は後から何度も悔やんだ。
◇
その頃、俺はもう噂を集めていた。
力のことは何も知らない。名を借りるとか、代償とか、そんな言葉は聞いたこともなかった。
ただ、噂の集め方だけは、なぜか自分で見つけていた。
きっかけは、小学生の頃に近所であった話だ。
「あの角を曲がると同じ道に戻る」という噂を、みんな怖がっていた。俺は三人に聞いて、共通しているところだけを抜き出した。夜であること。一人であること。傘を差していること。
傘を差していると、視界が狭くなって、曲がる角を一つ飛ばす。
それだけの話だった。
怖くもなんともなかった。
そのとき俺は、噂には芯があると知った。芯を抜けば、たいてい怖くなくなる。
中学に上がってからも、その癖は続いた。ノートを作って、左に聞いたまま、右に芯を書いた。宮杜さんに教わるより、ずっと前からだ。
あいつはそのノートを見て笑った。
「悠、それ何が面白いの」
「面白くはない」
「じゃあなんでやってんの」
「……分からないと、落ち着かない」
「変なやつ」
変なやつ、と言いながら、あいつはよく噂を持ってきた。
どこそこの公園に何が出るとか、誰それが何を見たとか。自分では調べないくせに、持ってくるのは早かった。
四月に入ってから、あいつが持ってきた噂が一つあった。
駅の北口から家に向かう途中に、川沿いの細い道がある。
その道の話だった。
「三人で通ると、一人減る」
◇
四月十七日は、水曜だった。
姉が予備校で遅くなる日で、母に「駅まで迎えに行って」と頼まれた。九時過ぎだった。
一人で行くつもりだったが、あいつが勝手についてきた。
「暇だから」
「暇じゃないだろ。明日テストだ」
「暇だって言ってるじゃん」
「勉強しろ」
「悠がやってないの知ってる」
図星だった。俺も数学のワークを半分残していた。
「なんで知ってる」
「顔。焦ってるとき、悠は口の端が下がる」
余計なことをよく見ているやつだった。
俺が黙ると、あいつは満足そうに笑った。笑いながらコンビニに寄って、肉まんを二つ買った。
「食う?」
「いらない」
「いる顔してる」
結局もらった。
四月にしては暖かい夜で、肉まんは少し重かった。半分残そうと思ったのに、全部食べた。
そういうやつだった。
駅で姉と合流した。姉は俺たちを見て、一瞬だけ驚いた顔をした。
「二人で来たの」
「こいつが、ついてきた」
「ふうん」
姉は特に何も言わなかった。あいつが家に出入りするのは、当たり前のことだったからだ。
三人で歩き出した。
川沿いの道に入ったのは、そこが一番近いからだ。
俺は歩きながら、頭の中で三つ数えた。
夜であること。川沿いの道であること。三人であること。
噂の芯は、その三つだった。俺は五人から聞いて、三つに絞っていた。
絞ってはいたが、信じてはいなかった。
今までの噂は全部、芯を抜けば怖くなくなった。この噂も同じだと思っていた。
だから俺は、何も言わなかった。
「一人で先に行ったほうがいい」とも、「別の道にしよう」とも言わなかった。
言えば、あいつに笑われる。姉に呆れられる。中学三年の俺は、それが少し嫌だった。
恥ずかしかったのだ。
怪談を本気にしている中学生だと思われるのが。
そんな理由だった。
その一つの判断を、俺は二年間、毎日思い出している。
思い出すたびに、胃の底が冷える。
あの日の俺は、五人から聞き取って理を三つに絞れる程度には賢かった。だが、絞った理を信じる度胸が無かった。
調べるのは得意で、使うのが下手だった。
今もそうかもしれない、と思うことがある。
◇
道の真ん中あたりで、音の返り方が変わった。
街灯の間隔が広い場所だった。左は川で、右はフェンス。逃げ場が無い形をしている。
俺は立ち止まった。
姉が三歩先で振り返った。あいつはその横で、スマホを見ながら歩いていた。
「悠?」
姉の声が、遠く聞こえた。
空気の密度が違う。壁が近くなったような、天井が低くなったような。あとで俺は何度もこの感覚に出会うことになるが、そのときは初めてだった。
初めてなのに、俺はすぐに分かった。
——本物だ。
噂の芯が、目の前で立ち上がっていた。
「姉ちゃん、止まって」
声が出た。
姉が止まった。あいつも止まった。
三人が、その道の上に並んでいる。
俺の頭の中で、数字が動いた。
三人。
理は「三人で通ると、一人減る」。
外すには、三人でなくすればいい。誰かがこの道から出ればいい。
俺は後ろを見た。二十メートルほど戻れば、街灯の明るい交差点がある。来た方向へ戻れば、道から出られる。
だが、俺の足は動かなかった。
動かなかったのではない。動かせなかった。
膝から下の感覚が無かった。生まれて初めての恐怖というのは、そういう形で来る。頭は回っているのに、身体が言うことを聞かない。
俺は自分に「走れ」と言った。三回言った。三回とも動かなかった。
喉が渇いた。舌が上顎に張りついて、剥がれなかった。
あとで何度も考えた。あの三回ぶんの時間は、秒にしてどれくらいだったのか。二秒か、三秒か。
測っていない。
測る余裕が無かった、というのは言い訳だ。俺はあの日から、測れなかったものを測るようになった。
その間に、道の空気がさらに重くなった。
姉の身体が、少し傾いた。
川のほうへ。
同時に、あいつの身体も傾いた。
フェンスのほうへ。
二人だった。
二人が、同時に持っていかれようとしていた。
俺は初めて自分の足が動くのを感じた。
動いた足は、一歩しか出なかった。
姉とあいつの間は、五メートル離れていた。
俺は真ん中にいた。
どちらへ走っても、片方には届かない。
その計算を、俺は一秒でやった。
一秒でやってしまったことを、俺は今でも許していない。
◇
俺は目を開けた。
床に座ったまま、右手を見ていた。
二年前のあの夜、この手が何をしたかを、俺はこれから思い出すことになる。
思い出したくない。
だが、姉のノートの二行目は、そこから先にしか無い。
階下は静かだった。姉はもう寝たらしい。
俺は膝を抱え直して、もう一度目を閉じた。




