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力を使うたび、誰かが俺を忘れていく —— だから怪異は、殴らずに外す  作者: 八夜巡


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第17話 間に合わなかった

 名前は、勝手に出てきた。


 考えて思い出したのではない。喉の奥に、いつの間にか置いてあった。


 俺は五人から噂を聞いて、芯を三つに絞っていた。夜。川沿いの道。三人。


 それだけだと思っていた。


 だが、理を最後まで知ってしまうというのは、その怪異の名前を知るのと同じことだったらしい。俺はそのとき初めてそれを知った。知ったというより、口が先に知っていた。


 舌の上に、音の形が乗った。


 俺は息を吐いた。


   ◇


 肩が外れたような感覚がした。


 痛みではない。長さの感覚が壊れる。自分の腕がどこで終わっているのかが分からなくなる。


 目で見た距離と、身体が知っている距離が、噛み合わなくなる。


 俺は右手を伸ばした。


 姉のほうへ。


 考えて選んだのではない。手が勝手に、近いほうへ動いた。


 姉のほうが、一メートル近かった。


 それだけの理由だった。


 俺の指が姉のパーカーの背中を掴んで、引いた。


 姉の身体が川のほうへ傾きかけていたのが、途中で止まって、こちら側へ倒れてきた。


 二人で歩道に転がった。


 肘を打った。アスファルトが冷たかった。


 姉が俺の下で「え」と言った。


 その一音を、俺は今でも思い出せる。


 驚いた声ですらなかった。何が起きたか分からない人が出す、意味の無い音だった。


 温かかった。


 人の身体というのは温かい。当たり前のことなのに、そのとき初めて知ったような気がした。


 俺はすぐに顔を上げた。


 左手を伸ばした。


 あいつのほうへ。


 左手には、何も起きていなかった。


 借りていたのは右手だけだった。理由は分からない。俺が右手を意識していたからかもしれないし、最初からそういうものだったのかもしれない。


 左手は、ただの左手だった。


 五メートル先には、届かない。


 俺は左手を伸ばしたまま、二秒くらい固まっていた。


 伸ばせば届くと思っていた。右手が届いたのだから、左手も届くはずだと。


 そんな理屈はどこにも無い。


 だが、あの瞬間の俺は、そういう考え方をしていた。一度うまくいったことは、もう一度うまくいくと思っていた。


 届かない指先を見て、俺は初めて理解した。


 借りたのは片手だ。


 片手で救えるのは、一人だ。


   ◇


 あいつは、フェンスのほうを向いていた。


 こちらに背中を向けている。


 俺は名前を呼んだ。


 呼んだはずだった。


 だが、そのとき自分が何と言ったのかを、俺は覚えていない。


 声が出たかどうかも分からない。喉は動いた。空気も震えた。だが、あいつがこちらを向くことはなかった。


 あいつの身体が、フェンスの向こうへ半歩ぶん進んだ。


 フェンスは、あった。


 あったのに、あいつはそこを通った。


 通る、というのが正しいのかも分からない。ただ、あるべき場所にあいつが居なくなった。


 音は、しなかった。


 水の音も、金属の音も、何も。


 川の流れる音だけが、さっきと同じ音量で続いていた。


 俺は歩道に座ったまま、その場所を見ていた。


 空気が、元に戻っていた。


 街灯の間隔が広い、ただの川沿いの道だった。


 怖くはなかった。


 怖いという感情が来るには、まだ何も理解していなかった。


 代わりに来たのは、混乱でもなかった。


 ——見間違いだ。


 最初にそう思った。


 そう思おうとした、というほうが正確だ。四月の夜で、暗くて、街灯が遠くて、俺は転んで肘を打っていた。だから見間違えた。あいつは先に走って行っただけだ。


 その説明は、五秒くらい持った。


 五秒後には、自分でそれを信じられなくなっていた。


 信じられなくなった瞬間に、胃の底から何かが上がってきた。


 俺は口を押さえた。


 吐かなかった。吐くほど食べていなかった。肉まんを一つ、二時間前に食べただけだ。


   ◇


 姉が俺の腕の中で身じろぎした。


「……悠?」


 声が、少し掠れていた。


 俺は姉を見た。


 姉は起き上がって、自分の膝を払って、それから周りを見た。


 俺と、姉と、誰もいない歩道。


 姉の目が、一度だけ、フェンスのほうへ動いた。


 動いて、通り過ぎた。


 視線が引っかからない、というのを、俺はそのとき初めて見た。


「なんで転んでんの、私たち」


 姉が言った。


 俺は答えられなかった。


「ちょっと。何があったの」


「……」


「悠?」


 俺は口を開いた。開いて、閉じた。


 説明する言葉が、一つも見つからなかった。


 いま何が起きたのかを、俺自身が分かっていなかった。分かっていないことを説明する方法は無い。


 姉は俺の返事を待たなかった。待つ人ではない。


 あいつがいた、と言えばいい。だが、あいつが何という名前だったのかを、俺は口に出せる。出せるのに、それを言ったところで姉には届かないことが、なぜか分かっていた。


 姉は立ち上がって、俺に手を差し出した。


「立てる?」


「……うん。立てる」


 俺はその手を取った。


 姉が引き上げてくれた。力の強い人だった。


 立ち上がってから、俺は姉の顔を見た。


 姉も、俺を見た。


 そして、止まった。


 一拍。


 まばたきが二回。焦点が、俺の顔の上で一度ずれて——


「……えっと」


 姉はそこで、一度言葉を切った。


 夜の川沿いで、街灯の下で、俺の姉が、俺を見て、言葉を探していた。


「……ああ。悠。帰ろ」


 姉はそう言って、先に歩き出した。


 何事もなかったという歩き方だった。


 俺はその背中から目を離せなかった。


 一歩も動けなかった。


 怖い、と初めて思った。


 あいつの消えたことより、姉が俺を思い出すのに一拍かかったことのほうが、怖かった。


 その順番を、俺はあとで何度も恥じることになる。


 目の前で一人いなくなったのに、俺が真っ先に怖がったのは自分の側の損失だった。


 だが、あのときの俺は中学三年で、何も分かっていなかった。姉に呼ばれるのが遅かった。それだけのことに、身体のほうが先に反応した。


「悠、早く」


 姉が振り返らずに言った。


 その呼び方には、一拍が無かった。


 俺は少しだけ息ができた。


 息ができたことに、また少し嫌になった。


   ◇


 その夜、俺は自分の部屋で三時間くらい座っていた。


 電気を点けたまま、机の前に。


 右手は、朝まで戻らなかった。ものを掴もうとすると手前で指が閉じた。二回、三回。四回目でようやく届いた。


 あいつの家に電話をかけようとして、やめた。


 かけて、何と言う。


 「今日、一緒に帰りましたか」と聞くのか。


 俺はスマホを開いて、あいつとのやり取りを探した。


 三日前にも、くだらないやり取りをしたはずだった。


 無かった。


 連絡先が、無かった。


 名前を検索した。出てこなかった。


 俺は自分の指が震えているのを見ていた。震えているのに、頭のどこかは冷静だった。冷静な部分が、勝手に数えていた。


 連絡先ゼロ件。写真ゼロ件。やり取りゼロ件。


 三つ数えて、そこで手が止まった。


 数えるものが、もう無かった。


 俺は生まれて初めて、数えても何も出てこない状況に当たった。


 三軒離れた家に、翌日行った。


 三軒隣。歩いて三十秒の距離だ。


 表札は別の名前だった。


 いや——別の名前になったのではない。最初からその名前だった。表札の日焼けの跡が、文字の形と合っていた。何年もそこにあった表札だった。


 その家に、あいつの母親がいた。


 俺の母と仲が良かったはずの人が、玄関先で俺を見て、「どちらさま?」と言った。


 顔は同じだった。声も同じだった。エプロンも、俺が覚えているのと同じ柄だった。


 その人の後ろに、玄関が見えた。


 靴が二足しか無かった。


 俺は昔、あの玄関で何十回も靴を脱いだ。三足並んでいるのが普通だった。夏はサンダルが増えて、四足になることもあった。


 二足だ。


 夫婦の分だけ。


 俺は自分の口が動いているのに気づいた。何か言おうとしていた。


 言葉は出なかった。


 その人は少し困った顔をして、「何かご用ですか」ともう一度聞いた。


 優しい聞き方だった。それが一番きつかった。


 俺はそのとき、何も言わずに帰った。


 帰り道で、一度だけ吐いた。


 家に着いたら、母が「おかえり」と言った。姉が「悠、風呂先入って」と言った。


 二人とも、何も変わっていなかった。


 変わっていたのは、姉が俺を呼ぶまでに、一拍かかるようになったことだけだ。


 その一拍だけが、あの夜に俺が払ったものだった。


 あいつを持っていったのは、あの道だ。


 俺の代償ではない。俺の代償は、姉の一拍のほうだ。


 それが分かるまでに、俺は半年かかった。


 分かってから、もっと悪くなった。


 払った代償と、失ったものが、別々に存在している。


 どちらか一方なら、まだ整理がつく。


 両方あって、しかも片方は俺のせいで、片方は俺のせいではない。


 その二つを、俺は二年間、うまく並べられずにいる。


 「あの道のせいだ」と言えば、姉の一拍の説明がつかない。


 「俺のせいだ」と言えば、あいつが消えた説明にならない。


 どちらの言い方をしても、半分が嘘になる。


 だから俺は、誰にも言わなかった。


 半分嘘の話を人にするくらいなら、黙っているほうがましだと思った。


 思っていた、というのが正しい。


 最近は、そうでもない気がしている。

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