第18話 俺だけが
翌朝、俺は姉より先に起きた。
寝ていなかった、というほうが近い。三時頃に一度眠って、五時前に目が覚めて、そのまま天井を見ていた。
六時に台所へ降りた。
米を炊いて、味噌汁を作った。作れる料理は多くないが、これは二年前から作れる。姉が忙しい日に、たまに代わったことがある。
七時前に姉が降りてきた。
「なにこれ。誰が」
「作った」
「なんで」
「……なんとなく」
姉は俺の顔を見て、それから鍋の中を見た。
「豆腐、切るの下手すぎ」
「食えれば同じだ」
「同じじゃない。大きさが揃ってないと火の通りが違う」
この人は、そういうところだけ細かい。
「じゃあ今度教えて」
言ってから、自分でも驚いた。
そんなことを言うつもりは無かった。口が勝手に動いた。
姉も、少し驚いた顔をした。
「……気持ち悪」
「そこまで言うか」
「言う。あんたが料理習いたいとか言い出すの、気持ち悪い」
そう言いながら、姉は自分の分の味噌汁をよそった。
よそってから、一口飲んだ。
「まあ、飲めるけど」
俺は何も言い返さずに、茶碗を四つ出した。
出しながら、耳の熱くなるのを感じた。
褒められたわけでもない。「飲めるけど」と言われただけだ。
それでも熱かった。
◇
姉が大学へ出たあと、俺は二階へ上がった。
姉の部屋のドアは閉まっていた。
昨日と同じだ。昨日も、閉じたドアの前で一分立っていた。
俺は開けた。
机の上に、ノートは無かった。
鞄に入れて持っていったのだろう。毎日書いているなら、そうするのが自然な形だ。
俺はしばらく机の前に立っていた。
それから、机の引き出しを開けた。
開けてから、自分が今この瞬間に何をしているのかを考えた。
人の部屋で、人の引き出しを開けている。理由が何であれ、これは駄目な行為だ。
閉めようとして、手が止まった。
引き出しの中に、同じノートが三冊入っていた。
古いものだ。表紙が少し波打っている。
一番上の一冊は、角が擦り切れていた。何度も出し入れした跡だ。
俺はその一番下を取った。
手が汗ばんでいた。ノートの表紙に、指の跡が薄く残った。
拭こうとして、袖で擦って、余計に広げた。
こういうところが、俺は昔から駄目だ。
開いた。
◇
一ページ目の日付が、二年前の五月だった。
あの夜の、三週間後。
5/8 柊 悠
5/9 柊 悠
最初の何行かは、字が乱れていた。
急いで書いたというより、震えていた。書き慣れていない人の字だった。
姉は字がきれいなほうだ。この乱れ方は、姉の字ではないみたいに見えた。
俺はページをめくった。
六月。七月。少しずつ字が落ち着いていく。
書くことに慣れていく過程が、紙の上に残っていた。
慣れる、というのは、そういうことだ。
二年半近く。
三冊で、二年と五ヶ月分。
一日も飛んでいなかった。
八百七十三日。
俺は反射的にその数を出して、出した自分に少し嫌気がさした。
数えたところで、この人が何を思って書いていたかは出てこない。
だが数えなければ、八百七十三という重さも出てこない。
俺は数えることしかできない。それが自分の全部だと、この二年で分かっている。
俺はそれを確かめるのに、三十分かかった。
途中で何度も手が止まった。止まるたびに、自分が何を確かめようとしているのか分からなくなった。
確かめても、何も変わらない。
変わらないのに、確かめずにいられなかった。
最後の一冊の、最後のページを開いた。
今朝の日付があった。
9/26 柊 悠
今朝、俺が米を炊いている間に、この人はこれを書いていた。
俺は自分の膝が笑うのを感じて、床に座った。
フローリングが冷たかった。
その冷たさだけが、しばらく現実だった。
◇
二行目を見た。
どのページにもある、読めない行。
俺は昨日、これを三回往復して、四回目で諦めた。
今日は、違った。
読めた。
橘 陽向
三文字と二文字。姉の字で、少し右上がりに書かれている。
俺は息を止めた。
目の奥が熱くなった。
二年前、俺はこの名前を毎日呼んでいた。呼びすぎて、意味なんて考えたこともなかった。
名前というのは、そういうものだ。あるときは何とも思わない。
それが紙の上に一行だけ載っていて、姉の字で書かれていて、俺以外の誰にも読めない。
俺は指でその字をなぞった。
なぞってから、なぞったところで何も起きないことを確認して、手を引いた。
止めてから、自分が息を止めていることに気づいて、吐いた。
読めた。
昨日は読めなかった。今日は読める。
何が変わったか。
俺は昨日、これを読もうとした。ただの他人の字として、目で追った。
今朝は違う。
昨日の夜、俺はあの日のことを最初から最後まで思い出した。四月十七日。川沿いの道。肉まん。手袋。二人で一組。
思い出したあとで、この字を見た。
——記憶の側から来れば、読める。
名簿は読めなかった。写真も読めなかった。宮杜さんの引き継ぎ書も読めなかった。
あれは全部、記録の側から入ろうとしていた。
俺だけが、この名前に記憶の側から入れる。
なぜなら、あの夜、俺は名を借りていたからだ。
借りている間、俺の身体はその怪異の性質になっていた。理の内側ではなく、外側にいた。
あの道の理は、その場にいた三人のうち一人を持っていく。持っていかれた者の名前は、全員の中から消える。
「全員」の中に、俺は入っていなかった。
外側にいたからだ。
だから俺だけが残っている。
俺は自分の手のひらで顔を覆った。
覆った手が濡れた。
◇
その日、俺は学校を休んだ。
母に「熱がある」と言った。実際に測ったら三十七度二分あった。嘘ではなかったことになる。
三日続けて四時間睡眠なら、そうもなる。身体のほうが先に音を上げた。
昼過ぎに、みなもからメッセージが来た。
休み? 大丈夫?
俺はしばらく画面を見ていた。
返す言葉を三つ考えて、全部消した。
言いたいことがあった。
二年前に何があったか。姉が二年間何をしていたか。俺だけが読める名前があること。
全部、この人になら言える気がした。
言えば、たぶん楽になる。
だが、言えばこの人はそれを覚える。
覚えれば、この人の中に一つ増える。増えたものは、俺が次に名を借りたときに、真っ先に削られる場所に置かれる。
俺はスマホを置いた。
置いてから、五分後にまた取った。
熱。明日は行く
それだけ送った。
既読がすぐについて、返事が来た。
プリント持ってく
あと購買のパン何がいい
俺は少し笑った。
笑ってから、なぜ笑ったのか分からなくなって、また泣きそうになった。
あんパン
そう返した。
渋いな
了解
やり取りはそれで終わった。
やり取りの画面を、俺はもう一度上から読み直した。
文字数にすれば、全部で三十字も無い。
休み? 大丈夫? 熱。明日は行く。プリント持ってく。あんパン。渋いな。了解。
それだけだ。
中身は何も無い。情報として残るものが一つも無い。
なのに、消せない。
二年前まで、俺のスマホにはこういうやり取りが何百件もあった。全部消えた。消えたというより、最初から無かったことになった。
残っているのは、今日の九往復だけだ。
俺はスマホを胸の上に置いて、天井を見た。
熱のせいで、天井の木目が少し滲んで見えた。
この人は、あんパンを買ってくる。
それだけのことが、今日はやけに大きく感じた。
二年前まで、俺の周りには当たり前にこういうものがあった。手袋の片方を寄越すやつがいた。肉まんを二つ買うやつがいた。俺の嫌いなものを勝手に覚えているやつがいた。
当たり前だったから、数えたことが無い。
数え始めたのは、無くなってからだ。
◇
夕方、俺は姉のノートを元の引き出しに戻した。
三冊、順番どおりに。角の向きも合わせた。一番上の、擦り切れた一冊が上に来るように。
開いていたことがバレる形で戻すか、バレない形で戻すかを、俺は少し迷った。
バレる形で戻せば、姉は何かを言うかもしれない。言えば、話が始まるかもしれない。
俺はバレない形で戻した。
まだ、話す準備ができていなかった。
姉が「これ何」と聞いてきたとき、俺は答えられない。答えるには、あの夜のことを全部説明しなければならない。
説明したところで、姉には橘陽向が読めない。
自分の字で二年間書き続けたものが、自分には読めない。
それを本人に伝えるのが、正しいことなのかどうか。
俺には分からなかった。
分からないことは、まだやらない。二年間、俺はそうやってきた。
引き出しを閉めて、部屋を出た。
閉める音が、思ったより大きく鳴った。誰もいない家なのに、俺は一度身をすくめた。
廊下は暗かった。まだ夕方なのに、この家の廊下は窓が無いので早く暗くなる。
階段の途中で、俺は立ち止まって、口の中で言ってみた。
二年ぶりだった。
名前を音にするのは。
その音が、思ったより普通に出た。
変わっていなかった。二年前と同じ発音で、同じ長さで、同じ形をしていた。
二年間、俺はこの音を出さないようにしてきた。
出せば減る気がしていた。使うほど擦り切れると思っていた。
そんなことは無かった。
二年放っておいても、名前は減らなかった。
減らないものを、俺は減ると思って抱えていた。
階段の途中に座って、俺はもう一度言った。
三回言った。
三回とも、同じ形をしていた。
俺だけが、あいつを覚えている。




