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力を使うたび、誰かが俺を忘れていく —— だから怪異は、殴らずに外す  作者: 八夜巡


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18/28

第18話 俺だけが

 翌朝、俺は姉より先に起きた。


 寝ていなかった、というほうが近い。三時頃に一度眠って、五時前に目が覚めて、そのまま天井を見ていた。


 六時に台所へ降りた。


 米を炊いて、味噌汁を作った。作れる料理は多くないが、これは二年前から作れる。姉が忙しい日に、たまに代わったことがある。


 七時前に姉が降りてきた。


「なにこれ。誰が」


「作った」


「なんで」


「……なんとなく」


 姉は俺の顔を見て、それから鍋の中を見た。


「豆腐、切るの下手すぎ」


「食えれば同じだ」


「同じじゃない。大きさが揃ってないと火の通りが違う」


 この人は、そういうところだけ細かい。


「じゃあ今度教えて」


 言ってから、自分でも驚いた。


 そんなことを言うつもりは無かった。口が勝手に動いた。


 姉も、少し驚いた顔をした。


「……気持ち悪」


「そこまで言うか」


「言う。あんたが料理習いたいとか言い出すの、気持ち悪い」


 そう言いながら、姉は自分の分の味噌汁をよそった。


 よそってから、一口飲んだ。


「まあ、飲めるけど」


 俺は何も言い返さずに、茶碗を四つ出した。


 出しながら、耳の熱くなるのを感じた。


 褒められたわけでもない。「飲めるけど」と言われただけだ。


 それでも熱かった。


   ◇


 姉が大学へ出たあと、俺は二階へ上がった。


 姉の部屋のドアは閉まっていた。


 昨日と同じだ。昨日も、閉じたドアの前で一分立っていた。


 俺は開けた。


 机の上に、ノートは無かった。


 鞄に入れて持っていったのだろう。毎日書いているなら、そうするのが自然な形だ。


 俺はしばらく机の前に立っていた。


 それから、机の引き出しを開けた。


 開けてから、自分が今この瞬間に何をしているのかを考えた。


 人の部屋で、人の引き出しを開けている。理由が何であれ、これは駄目な行為だ。


 閉めようとして、手が止まった。


 引き出しの中に、同じノートが三冊入っていた。


 古いものだ。表紙が少し波打っている。


 一番上の一冊は、角が擦り切れていた。何度も出し入れした跡だ。


 俺はその一番下を取った。


 手が汗ばんでいた。ノートの表紙に、指の跡が薄く残った。


 拭こうとして、袖で擦って、余計に広げた。


 こういうところが、俺は昔から駄目だ。


 開いた。


   ◇


 一ページ目の日付が、二年前の五月だった。


 あの夜の、三週間後。


5/8 柊 悠


5/9 柊 悠


 最初の何行かは、字が乱れていた。


 急いで書いたというより、震えていた。書き慣れていない人の字だった。


 姉は字がきれいなほうだ。この乱れ方は、姉の字ではないみたいに見えた。


 俺はページをめくった。


 六月。七月。少しずつ字が落ち着いていく。


 書くことに慣れていく過程が、紙の上に残っていた。


 慣れる、というのは、そういうことだ。


 二年半近く。


 三冊で、二年と五ヶ月分。


 一日も飛んでいなかった。


 八百七十三日。


 俺は反射的にその数を出して、出した自分に少し嫌気がさした。


 数えたところで、この人が何を思って書いていたかは出てこない。


 だが数えなければ、八百七十三という重さも出てこない。


 俺は数えることしかできない。それが自分の全部だと、この二年で分かっている。


 俺はそれを確かめるのに、三十分かかった。


 途中で何度も手が止まった。止まるたびに、自分が何を確かめようとしているのか分からなくなった。


 確かめても、何も変わらない。


 変わらないのに、確かめずにいられなかった。


 最後の一冊の、最後のページを開いた。


 今朝の日付があった。


9/26 柊 悠


 今朝、俺が米を炊いている間に、この人はこれを書いていた。


 俺は自分の膝が笑うのを感じて、床に座った。


 フローリングが冷たかった。


 その冷たさだけが、しばらく現実だった。


   ◇


 二行目を見た。


 どのページにもある、読めない行。


 俺は昨日、これを三回往復して、四回目で諦めた。


 今日は、違った。


 読めた。


 橘 陽向


 三文字と二文字。姉の字で、少し右上がりに書かれている。


 俺は息を止めた。


 目の奥が熱くなった。


 二年前、俺はこの名前を毎日呼んでいた。呼びすぎて、意味なんて考えたこともなかった。


 名前というのは、そういうものだ。あるときは何とも思わない。


 それが紙の上に一行だけ載っていて、姉の字で書かれていて、俺以外の誰にも読めない。


 俺は指でその字をなぞった。


 なぞってから、なぞったところで何も起きないことを確認して、手を引いた。


 止めてから、自分が息を止めていることに気づいて、吐いた。


 読めた。


 昨日は読めなかった。今日は読める。


 何が変わったか。


 俺は昨日、これを読もうとした。ただの他人の字として、目で追った。


 今朝は違う。


 昨日の夜、俺はあの日のことを最初から最後まで思い出した。四月十七日。川沿いの道。肉まん。手袋。二人で一組。


 思い出したあとで、この字を見た。


 ——記憶の側から来れば、読める。


 名簿は読めなかった。写真も読めなかった。宮杜さんの引き継ぎ書も読めなかった。


 あれは全部、記録の側から入ろうとしていた。


 俺だけが、この名前に記憶の側から入れる。


 なぜなら、あの夜、俺は名を借りていたからだ。


 借りている間、俺の身体はその怪異の性質になっていた。理の内側ではなく、外側にいた。


 あの道の理は、その場にいた三人のうち一人を持っていく。持っていかれた者の名前は、全員の中から消える。


 「全員」の中に、俺は入っていなかった。


 外側にいたからだ。


 だから俺だけが残っている。


 俺は自分の手のひらで顔を覆った。


 覆った手が濡れた。


   ◇


 その日、俺は学校を休んだ。


 母に「熱がある」と言った。実際に測ったら三十七度二分あった。嘘ではなかったことになる。


 三日続けて四時間睡眠なら、そうもなる。身体のほうが先に音を上げた。


 昼過ぎに、みなもからメッセージが来た。


休み? 大丈夫?


 俺はしばらく画面を見ていた。


 返す言葉を三つ考えて、全部消した。


 言いたいことがあった。


 二年前に何があったか。姉が二年間何をしていたか。俺だけが読める名前があること。


 全部、この人になら言える気がした。


 言えば、たぶん楽になる。


 だが、言えばこの人はそれを覚える。


 覚えれば、この人の中に一つ増える。増えたものは、俺が次に名を借りたときに、真っ先に削られる場所に置かれる。


 俺はスマホを置いた。


 置いてから、五分後にまた取った。


熱。明日は行く


 それだけ送った。


 既読がすぐについて、返事が来た。


プリント持ってく


あと購買のパン何がいい


 俺は少し笑った。


 笑ってから、なぜ笑ったのか分からなくなって、また泣きそうになった。


あんパン


 そう返した。


渋いな


了解


 やり取りはそれで終わった。


 やり取りの画面を、俺はもう一度上から読み直した。


 文字数にすれば、全部で三十字も無い。


 休み? 大丈夫? 熱。明日は行く。プリント持ってく。あんパン。渋いな。了解。


 それだけだ。


 中身は何も無い。情報として残るものが一つも無い。


 なのに、消せない。


 二年前まで、俺のスマホにはこういうやり取りが何百件もあった。全部消えた。消えたというより、最初から無かったことになった。


 残っているのは、今日の九往復だけだ。


 俺はスマホを胸の上に置いて、天井を見た。


 熱のせいで、天井の木目が少し滲んで見えた。


 この人は、あんパンを買ってくる。


 それだけのことが、今日はやけに大きく感じた。


 二年前まで、俺の周りには当たり前にこういうものがあった。手袋の片方を寄越すやつがいた。肉まんを二つ買うやつがいた。俺の嫌いなものを勝手に覚えているやつがいた。


 当たり前だったから、数えたことが無い。


 数え始めたのは、無くなってからだ。


   ◇


 夕方、俺は姉のノートを元の引き出しに戻した。


 三冊、順番どおりに。角の向きも合わせた。一番上の、擦り切れた一冊が上に来るように。


 開いていたことがバレる形で戻すか、バレない形で戻すかを、俺は少し迷った。


 バレる形で戻せば、姉は何かを言うかもしれない。言えば、話が始まるかもしれない。


 俺はバレない形で戻した。


 まだ、話す準備ができていなかった。


 姉が「これ何」と聞いてきたとき、俺は答えられない。答えるには、あの夜のことを全部説明しなければならない。


 説明したところで、姉には橘陽向が読めない。


 自分の字で二年間書き続けたものが、自分には読めない。


 それを本人に伝えるのが、正しいことなのかどうか。


 俺には分からなかった。


 分からないことは、まだやらない。二年間、俺はそうやってきた。


 引き出しを閉めて、部屋を出た。


 閉める音が、思ったより大きく鳴った。誰もいない家なのに、俺は一度身をすくめた。


 廊下は暗かった。まだ夕方なのに、この家の廊下は窓が無いので早く暗くなる。


 階段の途中で、俺は立ち止まって、口の中で言ってみた。


 二年ぶりだった。


 名前を音にするのは。


 その音が、思ったより普通に出た。


 変わっていなかった。二年前と同じ発音で、同じ長さで、同じ形をしていた。


 二年間、俺はこの音を出さないようにしてきた。


 出せば減る気がしていた。使うほど擦り切れると思っていた。


 そんなことは無かった。


 二年放っておいても、名前は減らなかった。


 減らないものを、俺は減ると思って抱えていた。


 階段の途中に座って、俺はもう一度言った。


 三回言った。


 三回とも、同じ形をしていた。


 俺だけが、あいつを覚えている。

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