第19話 取引
梔子は、河川敷に座っていた。
学校からの帰り道だった。俺は熱が下がって、二日ぶりに登校した日の夕方に、そこを通りかかった。
通りかかった、というのは正確ではないかもしれない。
いつもの道は駅前を抜ける。河川敷は少し遠回りになる。なぜそちらへ足が向いたのかを、俺は自分でうまく説明できなかった。
土手の斜面に、上着を着た男が一人で座っていた。
夕方の河川敷には、犬を散歩させている人と、ランニングをしている人がいる。誰も彼のほうを見なかった。
「よう」
俺は少し離れたところで足を止めた。
「……呼んでませんけど」
「呼ばれてない。勝手に来た」
彼は膝の上で手を組んでいた。
「熱、下がったのか」
俺は言葉に詰まった。
「なんで知ってるんですか」
「学校の前を通ったら、お前がいなかった。二日」
「見に来てたんですか」
「暇なんだよ」
嘘だ、と思った。
嘘というより、そう言うしかないのだろう。この人は自分の行動に理由をつけるのが下手だ。つけたところで、誰も覚えていない。
俺は少し離れた場所に座った。
草が湿っていて、制服のズボンが冷たくなった。
鞄の中で、あんパンの袋が潰れる音がした。
今日、みなもが持ってきてくれた分だ。休んだ日のプリントと一緒に、朝いちばんで渡された。
「昨日の分も買ってあったんだけど、賞味期限で捨てた」
そう言われた。
「悪い」
「別にいいよ。百二十円だし」
百二十円だし、と言いながら、この人は二日連続で買っていた。
その袋を、俺はまだ食べていない。腹は減っている。減っているのに、食べる気になれない日というのがある。
河川敷の風は少し冷たかった。九月の終わりで、日が落ちるのが早くなっていた。
◇
「あの子のことだ」
梔子はそう切り出した。
「取り戻す方法がある」
俺は顔を上げた。
「本当ですか」
「嘘は言わない。——嘘をついたところで、俺には得が無いからな」
それはそうだった。この人が嘘をつく理由が、俺には思いつかない。
「聞きます」
「あの階段は、持っていった相手を、内側に置いてる」
「内側」
「消したんじゃない。しまってある」
彼は川のほうを見ながら言った。
「怪異ってのは、基本的に捨てない。ルールで動くものは、ルールに書いてないことをしない。『名前を消す』とは書いてあるが、『捨てる』とは書いてない」
俺はそれを頭の中で並べた。
十三段の理は、「一人で登った者を持っていく」。
持っていく、で終わっている。その先が無い。
「じゃあ、出せる」
「出せる。条件を外せばな」
「条件は分かってます。一人で登った者。二人にすればいい」
「そこまでは分かるよな」
梔子は俺のほうを見た。
「じゃあ、あの子を二人目にどう数えさせる」
俺は黙った。
そこが、詰まっているところだった。
あの子は、誰にも認識されない。名前を呼ぼうとしても、呼ぶ音が出てこない。認識されないものは、数に入らない。
二人にしようにも、一人しかいないことになる。
「それが壁だ」
「はい」
「その壁を、名前で越える」
◇
梔子は上着の内側から、一枚の紙を出した。
四つに折られた、コピー用紙。折り目が新しい。今日折ったものだ。
角がきれいに揃っていた。乱暴に折られてはいない。この人は、これを丁寧に扱っている。
前は口で言おうとした。今日は紙で出してきた。
その違いが何を意味するのかを、俺はすぐには考えられなかった。
「これは、あの階段の理を数える怪異の名だ」
俺は顔を上げた。
「——あの子の名前じゃないんですか」
梔子の指が、紙の上で止まった。
「前に言いましたよね。あの子の名前も知ってるって」
「言った」
「じゃあ、それを売ってください」
「売らない」
「なんで」
「売っても、お前は使えないからだ」
彼はこちらを見なかった。
「名前ってのは、呼ぶ相手がいて初めて意味がある。前に言ったろ」
言った。初めて会った日に、自分の呼び名について、そう言った。
「あの子の名前を、俺がお前に言ったとする。お前は聞く。——で、頭に入るか?」
俺は口を開いて、そのまま止まった。
名簿は読めなかった。写真も読めなかった。書き取っても、録音しても、残らなかった。
壊れているのは記録ではなく、記録を受け取る側だ。俺は自分でそう書いた。
だとしたら、耳から入れても同じだ。
「……入りません」
「そうだ」
梔子は紙を折り直した。
「消えたのは名前じゃない。名前を受け取る側だ。だから名前を渡しても、お前の中では素通りする」
彼は少し肩を落とすような動きをした。
「俺だけが読める。読めても、他人には渡せない。——だから売り物にならない」
その言い方に、初めて少し疲れが混じっていた。
持っているのに渡せないものを、この人は二年以上、抱えたままでいるらしい。
「数える怪異」
「そういうのがいる。数を扱う理は、けっこうな数ある」
彼は紙を指で挟んだまま続けた。
「これを借りれば、階段に『二人いる』と数えさせられる。実際に何人いるかは関係ない。数えるほうを書き換えるからな」
俺は自分の指が冷たくなるのを感じた。
理屈は、隙間なく通っていた。通りすぎていると思うくらいに。
俺は二年間、条件を外すことでやってきた。外側から状況を変えて、怪異のほうが噛み合わなくなるように仕向ける。
この方法は違う。
これは、怪異の数え方そのものに手を入れる。
「——効きます、それ」
「効く」
「確実に?」
「確実だ。俺が保証する」
保証、という言葉を、この人が使うのは初めてだった。
俺は紙を見た。
あれを開けば、俺はもう一つ名前を知る。知れば使える。使えば、あの子が戻る。
喉が渇いた。
水筒は空だった。今日も入れてくるのを忘れていた。
二年間で、こんなに欲しいと思ったものは無かった。
欲しい、と自分で思ったことに驚いた。
俺はこれまで、何かを欲しがったことがあまり無い。欲しがると失うのが怖いからだ。二年前にそれを覚えた。
なのに今、目の前の紙が欲しい。
あの子を戻したいからだ、と自分に言った。
言ってから、それだけではない気もした。
二年間ずっと、俺は「解けない」を抱えていた。解けるものだけを解いて、解けないものは棚に上げてきた。
棚に上げたものが、今、手の届くところに置かれている。
◇
「対価は」
俺は聞いた。
梔子はすぐには答えなかった。
川の音がした。夕方の風が、土手の草を一度なでていった。
「言うぞ」
「はい」
「言ったら、お前は計算する。それでもいいか」
「……いいです」
彼は紙を膝の上に置いた。
「俺を、一番上に置け」
意味が、すぐには入ってこなかった。
「一番上」
「お前の中の順番だ。今、誰が一番上にいる」
答えなかった。答える必要も無かった。
「そいつを二番目に落として、俺を一番上に置く。それが対価だ」
俺は口を開けたまま、しばらく何も言えなかった。
頭の中で、いくつかの線が同時につながった。
一番上にいる者が、最初に削られる。
梔子を一番上に置く。真名を使う。削られるのは——
「あんたが、削られる」
「そうだ」
「俺が使えば、俺はあんたを忘れる」
「そうだ」
彼は表情を変えなかった。
「俺はもう払い切ってるからな。俺についての記憶は、この世にほとんど残ってない。お前の中にある分は、たぶん今この世で一番多い」
彼は自分の膝を軽く叩いた。
「それを持っていかれる。それが値段だ」
◇
俺は動けなかった。
冷たい草の上に座ったまま、自分の呼吸だけを聞いていた。
計算が、勝手に始まっていた。
止めようとしても止まらない。二年でついた癖だ。数える。並べる。比べる。
——今の一番上は、みなもだ。
真名を買えば、順番が入れ替わる。梔子が一番上に来る。みなもは二番目に下がる。
つまり。
俺が真名を使っても、みなもは削られない。
削られるのは、梔子だ。
みなもを守れる。姉も守れる。あの子を取り戻せる。
払うのは、目の前に座っている男についての、俺の記憶だけだ。
全部の条件が、綺麗に揃っていた。
俺は自分の手を見た。
震えていなかった。
震えていないことが、いちばん怖かった。
九月のあの夜、東階段の下で、俺は三秒の値段を数えて手が震えた。
渡り廊下で借りたときも震えた。十日ほど前にこの人の口を塞ごうとしたときも、耳から下ろした指が細かく動いていた。
今は、動いていない。
嫌な汗が、背中を一度だけ伝った。
自分の身体が、この取引を「安い」と判定している。
身体は正直だ。俺が二年間かけて作った理屈より、ずっと正直に、目の前の値段を読んでいる。
二年間、俺は借りるのを我慢してきた。我慢できたのは、代償が姉やみなもに落ちるからだ。
落ちる先が、この人になった途端に、手が震えなくなっている。
——俺は今、この人を勘定に入れた。
勘定に入れるというのは、そういうことだ。
「柊」
梔子が言った。
俺は顔を上げられなかった。
「今、計算しただろ」
「……」
「顔に出てる」
俺は目を閉じた。
顔が熱かった。
恥ずかしい、というのが一番近かった。悔しいのでも、怖いのでもない。
この人は、初めて会った日から俺を見ていた。信号が変わるのを数えている俺を、遠くから見ていた。
その人に、今、いちばん見られたくない顔を見られた。
喉の奥が苦かった。空腹のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。
「言っただろ。言ったらお前は計算するって」
梔子の声は、責める調子ではなかった。
だから余計にきつかった。
「別に責めてない。全員そうする。俺もそうした」
俺は顔を上げた。
「あんたも?」
「したよ」
彼は少しだけ間を置いた。
「俺に真名を売ったやつがいた。そいつを一番上に置いて、使って、忘れた」
「……名前も?」
「顔も、声も。売ったやつがいたって事実だけが残ってる」
彼はそれを、天気の話をするのと同じ温度で言った。
二度目だった。この人が同じ温度で重い話をするのを見るのは。
初めてあの部屋に呼ばれた夜、「相手がいた。もういない」と言ったときも、同じ顔だった。
あれは、そういう意味だったのか。
俺は聞かなかった。
聞けば、この人はたぶん答える。答えたところで、俺には返す言葉が無い。
彼は立ち上がった。上着の裾が、いつものように地面の手前で止まった。
いつか見たのと同じ動作だった。
「答えは今じゃなくていい」
紙を、俺の横の草の上に置いた。
「開くまでは、まだ何も起きてない」
彼はそう言って、土手を上っていった。
俺はその紙を、しばらく見ていた。
風で、少しだけ端が持ち上がった。
俺は手を伸ばして、飛ばないように、その上に石を置いた。
置いてから、自分が「飛ばないように」したことに気づいた。
嫌だと思っているなら、飛ばせばよかった。
鞄からあんパンを出して、袋を開けた。
空腹だった。食べたら、少しだけ落ち着いた。
落ち着いてしまったことが、また嫌だった。




