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力を使うたび、誰かが俺を忘れていく —— だから怪異は、殴らずに外す  作者: 八夜巡


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第20話 借りるな。外せ

 紙は、三日間、俺の机の引き出しに入っていた。


 開かなかった。


 開かなかったが、一日に何度も引き出しを開けた。中身を確認して、また閉めた。それを三日続けた。


 自分が何をしているのかは分かっていた。


 開かない自分を、毎日確認していた。


 まだ開いていない。今日も開いていない。そう思うことで、自分がまだこちら側にいると確かめていた。


 確かめなければいけない時点で、たぶんもう半分向こう側にいる。


 三日間、ろくに眠れなかった。


 眠ろうとすると、引き出しのことを考える。考えると、開けたくなる。開けたくなるのを我慢すると、目が冴える。


 朝になると、母が「顔色が悪い」と言った。姉は何も言わずに、朝飯の量を増やしていた。


 二日目の朝、味噌汁の具が二種類増えていた。


 何も聞かれなかった。この人は聞かない。ただ量を増やす。


 俺はそれを全部食べた。食べながら、少しだけ泣きそうになって、こらえた。


   ◇


 二日目の昼休みに、みなもが俺の机に来た。


「柊くん、寝てないでしょ」


「寝てる」


「三日連続で寝てるって言ってる」


 彼女は椅子を引いて、俺の正面に座った。


「あのさ。あの子のこと、進んでる?」


 俺は返事に詰まった。


 進んでいる。方法は目の前にある。引き出しの中に、四つ折りの紙が入っている。


 だがそれは、この人に言えない。


 言えば、この人は「使えばいいじゃん」と言うかもしれない。あるいは「だめだよ」と言うかもしれない。


 どちらを言われても、俺は自分で決めなくてよくなる。


 それが一番まずい。


「……調べてる」


「ふうん」


 彼女はそれ以上聞かなかった。


 聞かないでいてくれた、というほうが正確かもしれない。


「柊くん」


「なんだ」


「一人で決めなくていいからね」


 俺は顔を上げた。


「私、何も分かんないけどさ。分かんないなりに聞くことはできるから」


 彼女は自分の膝の上で指を組んだ。


「柊くん、一人で決めるとき、だいたい自分が損するほうを選ぶでしょ」


 言い返せなかった。


「今回もそうなりそうな気がしてる」


 彼女はそう言って、席に戻っていった。


 俺はしばらく動けなかった。


 この人は、俺が損するほうを選ぶことを心配している。


 だが今回、俺の目の前にある選択肢は、俺が一番得をするものだ。


 俺が損しない。姉も損しない。みなもも損しない。


 損するのは、河川敷に座っていた男だけだ。


 心配されるほうが、まだ楽だった。


 「損するほうを選ぶ人」だと思われているうちは、俺はまだまともだ。


 今の俺は、そう思われる資格が無い。


 その日の午後の授業を、俺はほとんど聞いていなかった。ノートに何も書かなかった。数学の小テストが返ってきた。赤い数字を見た。それきり頭に入らなかった。


 休み時間に、大友蓮が俺の机に来た。


「柊、これ何点」


「見るな」


「うわ、低っ。俺より低い」


 あいつは自分の答案を俺の机に並べた。確かに、あいつのほうが二点高かった。


「勝った」


「二点だろ」


「二点は二点だ」


 こいつは、こういうことで勝ちを主張してくる。


「柊さあ、最近また変だぞ」


「そうか」


「そうかじゃなくて。前に俺が休んだときあっただろ。あのときのお前も、そんな顔してた」


 俺は顔を上げた。


 あいつは自分の答案を折りたたみながら、こちらを見ていなかった。


「まあ、俺は何も分かんないけど。飯は食えよ」


 それだけ言って、自分の席に戻っていった。


 俺は答案を裏返して、しばらくそのままにしていた。


 こいつは、数えない。


 数えないのに、俺が何日おかしいかを見ている。


 入らない、という感覚が、最近やけに増えている。


 名簿の文字も、姉のノートの二行目も、そして今日は自分のテストの点数も。


 俺は少し笑いそうになって、やめた。


   ◇


 三日目の夕方、俺は河川敷に行った。


 梔子は同じ場所にいた。同じ土手の、同じ斜面の、同じ角度で座っていた。


 三日間ずっとそこにいたのかもしれない、と一瞬思った。思ってから、そんなわけがないと打ち消した。


 打ち消してから、そんなわけがあるかもしれない、とまた思った。


 この人には、行く場所が無い。


「よう」


「……返しに来ました」


 俺は紙を差し出した。


 梔子は受け取らなかった。


「開いてないな」


「……開いてません」


「なんで分かると思う」


「……分かりません」


「顔だ。開いたやつは、顔が変わる」


 彼は俺の手元を見た。


「で。返す理由は」


 俺は答えを用意してきていた。


 三日間かけて用意した。何度も並べ替えて、一番短い形にした。


 声に出す前に、一度だけ喉が詰まった。


 用意した言葉を人に言うのは、思っていたより難しい。頭の中では何度も言えたのに、口の形が決まらない。


 二年間で減ったのは、語彙ではなくこれだ。言うと決める速さ。


 俺は息を吸った。


「あんたを勘定に入れたくないからです」


   ◇


 梔子は、初めて少しだけ黙った。


「——それ、綺麗すぎないか」


「綺麗じゃないです」


 俺は首を振った。


「一回、勘定に入れました。河川敷で。あんたの前で計算しました」


「知ってる」


「だから返しに来ました。もう一回計算したら、たぶん次は買う」


 自分の声が、思ったより低いのが分かった。


「俺は、三日で二回計算しました。三回目をやったら買います。だから、その前に返します」


 梔子は何も言わなかった。


 川の音が、しばらく続いた。


「情けない理由だな」


「はい」


「立派な理由で断ったんじゃないんだな」


「違います」


 立派な理由で断れるなら、三日もかからなかった。


 三日かかったのは、俺が迷ったからだ。迷ったというのは、買う側に半分いたということだ。


 それを隠して断るのは、嘘になる。


 俺は紙を、座っている彼の膝の上にそっと置いた。


 置いてから、手を引いた。


「俺は、あんたを大事に思ってるから断るんじゃない。——自分が嫌なやつになるのが怖いから断ります」


 梔子は紙を見た。


 見て、それから少し笑った。


 初めて、温度のある笑い方だった。


「そっちのほうが信用できる」


   ◇


「じゃあ、あの子はどうする」


「外します」


 俺は言った。


「借りずに、条件を外します」


「二人目に数えさせる方法が無いって言っただろ」


「今は無いです。探します」


「見つからなかったら」


「見つかるまで探します」


「その間に、あの子は内側にいる」


 その一言は、痛かった。


 正しいからだ。


 俺が探している間、あの子は出られない。俺の三日間の躊躇には、値段がついている。


 胃のあたりが重くなった。


 悔しいのとも、怖いのとも違う。ただ、自分の手の届かない場所に誰かがいて、その理由の一部は自分の迷いだという事実だけが、重い。


 みなもは毎日、あの写真の前を通っている。


 三列目の右から四番目に、自分が隣で笑っている写真の前を。


「……分かってます」


「分かってて言ってるなら、それでいい」


 梔子は紙を上着に戻した。


 それから、少し考えるような顔をした。


「柊」


「はい」


「一つ、間違いを教えてやる」


 彼は立ち上がった。


「お前、さっき『借りずに外す』って言ったな。それ、順番が逆だ」


「逆」


「外し方が先にあって、借りるか借りないかは後の話だ」


 彼は土手の上を指した。


「借りるってのは手段だろ。手段から入るやつは、手段に飲まれる。——俺がそうだった」


 俺はその言葉を、頭の中に置いた。


「だからな」


 梔子は俺のほうを向いた。


「借りるな。外せ」


 その言い方には、教える調子が無かった。


 自分に言い聞かせている人の言い方だった。


   ◇


 彼が土手を上りかけたところで、俺は呼び止めた。


「梔子さん」


 名前で呼ぶのは、初めてだった。


 彼が振り返った。


「一つ、言い忘れました」


「なんだ」


「俺、あんたのこと覚えてます」


 彼が止まった。


「三日前に何を着てたかも、部屋に椅子が二脚あったのも、パンを半分に割ったのも、覚えてます」


 言いながら、自分が何をしているのか分かってきた。


 この人は、真名を売る代わりに「一番上に置いてくれ」と言った。


 覚えてもらうために、値段をつけていた。


 値段をつけないと、誰も覚えてくれないと思っている。


「金は払いません。名前も買いません」


 俺は言った。


「ただ、覚えてます」


 梔子は動かなかった。


 夕方の光が、土手の斜面を斜めに切っていた。彼の足元だけが、影に入っていた。


「……それは」


 彼が何か言いかけて、やめた。


 もう一度、口を開いた。


「それは、取引になってないぞ」


「なってません」


「対価が無い」


「無いです」


 俺は少し息を吸った。


「だから、成立しません」


 言ってから、自分でも遅れて意味が分かった。


 取引には条件がある。渡すものと、受け取るものが要る。片方だけなら、それは取引ではない。


 条件を、一つ外した。


 殴ってもいない。名前も借りていない。


 ただ、対価を渡さずに、この人が欲しかったものだけを置いた。


 梔子は、しばらくそこに立っていた。


 それから、何も言わずに土手を上っていった。


 途中で一度だけ立ち止まって、こちらを見なかった。


 見なかったが、止まった。


 三秒くらいだった。


 数えてしまった自分に、今回は嫌気がささなかった。


 この三秒は、たぶん残しておいていい種類のものだ。


 俺はその背中が見えなくなるまで、河川敷に座っていた。


 夕方の風が、さっきより冷たくなっていた。


 制服のズボンが、また湿っていた。三日前と同じ場所に座ったからだ。


 スマホが震えた。


 みなもだった。


まだ外?


寒いよ


 俺は少し笑った。


 今日は嘘をつかなくてよかった。


帰る


 そう打って、立ち上がった。


 膝の裏が固くなっていた。どれくらい座っていたのかは、分からない。


 帰り道で、俺は一度だけ振り返った。


 河川敷には誰もいなかった。当たり前だった。


 当たり前なのに、確かめずにいられなかった。

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