第21話 洗い直す
十月に入った。
朝の空気が変わった。制服のブレザーがちょうどよくなって、朝の食卓で味噌汁の湯気が見えるようになった。
姉は相変わらず立ったまま食べる。
俺は相変わらず、姉が俺を呼ぶまでの時間を数えている。
二拍のままだった。伸びても縮んでもいない。
それを確認してから、俺は家を出るようになった。
少しだけ、安心する。
安心してから、いつも同じことを思う。
この人は毎晩、俺の名前をノートに書いている。俺はそれを知っていて、知らないふりをして、代わりに秒を数えている。
どちらが誠実なのかは、考えないようにしている。
今朝は寒かった。姉が「上着出しといて」と言って、俺の分まで出してきた。自分の分だけ出せばいいのに、二枚出す人だった。
◇
放課後の図書室に、資料が積まれていた。
二年分の記録だ。宮杜さんのノートと、前任者の箱の中身と、俺が二年かけて作ったノート。三つの山が、閲覧席の机を占領している。
「柊くん、これ全部やるんですか」
「やります」
「今日中に?」
「今日中は無理です」
「そうですよね。私、一応言っておきますけど、閉館は六時です」
「知ってます」
「知ってて居座る気ですよね」
「……はい」
「まあ、いいですけど」
彼女は事務室から椅子をもう一脚持ってきた。
自分の分だった。
俺は少し驚いた。驚いたことを顔に出さないようにして、失敗した。
「なんですか、その顔」
「いえ」
「手伝わないとでも思いました?」
「……少し」
「失礼な」
そう言いながら、彼女は自分のノートを机に置いた。
俺は鞄から自分のノートを出して、東階段のページを開いた。
この項目は、二年前から書いてある。最初に書いたのは中三の秋だ。高校に入ってから、ようやく現場を見た。
左のページに、聞いたままの証言。右のページに、芯。
夜。東階段。一人で登った者。
三行だけだ。
俺はその三行を、二年間信じてきた。九月のあの夜、この三行を使って、みなもを助けた。
外れた。だから正しい。
正しいはずだった。
「宮杜さん」
「はい」
「三行で足りると思いますか」
彼女はカウンターから出てきて、俺の手元を覗いた。
「足りる、というのは」
「これで理を全部書けているか」
「……足りないと思います」
即答だった。
「なんでですか」
「短すぎるので」
彼女は自分のノートを机に置いた。
「十年集めてると、たまに気づくんですけど。芯が三行で済む怪異って、たいてい小物なんです」
「小物」
「一晩でいなくなるようなやつ。何十年も同じ場所にいるものは、もっと条件が細かい」
彼女は東階段の項目を指した。
「これ、記録に出てくる一番古いものが何年前か知ってますか」
「……知りません」
「二十二年前です。私が生まれる前ですね」
俺は顔を上げた。
「二十二年、同じ形で残ってるんです。それが三行で説明できるとは、私は思わない」
俺は机の上の、自分の三行に目を落とした。
悔しかった。
二年間、俺はこの三行を宝物みたいに扱ってきた。この三行があるから、あの夜みなもを助けられた。
その三行が、十年集めた人には「短すぎる」と一言で判定された。
「怒りました?」
「怒ってません」
「悔しがってる顔してますよ」
「……はい」
「素直でいいですね」
彼女は少し笑った。
俺は耳が熱くなるのを感じて、ノートに顔を伏せた。
◇
俺たちは、記録を年代順に並べ直した。
二十二年前から、今年まで。
東階段に言及した記述は、全部で四十七件あった。宮杜さんが三十一件、前任者が十六件持っていた。
みなもが来たのは、その途中だった。
「うわ、何これ」
「洗い直してる」
「手伝う」
彼女は返事を待たずに椅子を引いた。
「私、何すればいい?」
「日付順に並んだ束から、『一人で』という表現が出てくるものだけ抜いてくれ」
「りょーかい」
彼女は鞄からペットボトルを二本出して、一本を俺の前に置いた。
「水筒、また空でしょ」
「……なんで分かる」
「柊くんが水筒に何か入れてきた日を、私は見たことがない」
図星だった。
宮杜さんが小さく笑った。
「芹沢さん、鋭いですね」
「柊くん、分かりやすいだけです」
二人に笑われた。
俺は反論する言葉を探して、見つからなかったので、ペットボトルの蓋を開けた。
喉が渇いていた。実際、朝から何も飲んでいなかった。
三人で作業を始めた。
紙をめくる音と、宮杜さんがペンで印をつける音だけがしばらく続いた。
窓の外は暗くなり始めていた。十月は日が短い。
グラウンドで、野球部が声を出している。同じ掛け声を一定の間隔で上げて、そのたびに金属音を鳴らしている。
その音を数えないようにした。数えると、進まない。
みなもは黙って作業をしていた。
この人は、こういうときに喋らない。喋りたいことがあっても、こちらが手を動かしている間は待つ。
二年前の俺なら、その静けさが気詰まりだった気がする。
今は、そうでもなかった。
宮杜さんが途中で一度、事務室からお茶を持ってきた。三人分あった。
「腹減りませんか」
「減りました」
「素直」
「柊くん、腹減ったって言うようになったよね」
みなもが顔を上げずに言った。
俺は返事をしなかった。
言われるまで、自分でも気づいていなかった。
夕方の図書室で、腹が減ったと口に出す。二年前の俺は、それを言う相手がいなかった。
「柊くん」
三十分ほど経って、みなもが手を止めた。
「これ、全部『一人で』じゃないよ」
俺は顔を上げた。
「どういうことだ」
「古いほうの、こっち。十年以上前のやつ」
彼女が指した束を、俺は受け取った。
十四年前の記述だった。前任者が、さらに前の記録から書き写したものらしい。字が二重に写されている。
夜、東階段を「独りで」のぼると、十三段目がある
「独り」
「そう。字が違うでしょ」
俺は自分の書いた三行に目を落とした。
俺が書いてきたのは「一人」だ。人数の一人。
「新しいほうは、全部『一人』になってる」
みなもが束を並べ替えた。
「八年前くらいから、みんな『一人』って書いてる。それより前は『独り』が多い」
俺は二つの束を、机の上に並べた。
左に「独り」。右に「一人」。
境目が、八年前あたりにある。
俺は両方の束を数えた。
「独り」が十九件。「一人」が二十八件。
混ざっている時期が三年ほどあって、そこから先は完全に「一人」になっている。
「八年前に、何かありましたか」
宮杜さんが自分のノートをめくった。
「……この学校、八年前に校舎を建て替えてます」
「建て替え」
「東階段だけ、古い校舎のものを残したんです。工事の記録に載ってました」
俺は顔を上げた。
「残した理由は」
「予算だと思います。あそこだけ構造が違うので、壊すのに金がかかったんでしょう」
身も蓋もない答えだった。
だが、たぶん本当だ。怪異が残る理由は、たいてい怪異と関係がない。
「じゃあ、八年前に新しい生徒が入ってきて」
「古い階段だけが残ってるのを見て、新しく噂を作り直した」
宮杜さんは自分のノートに何か書き足した。
「そのときに、字が変わった可能性はありますね」
俺は「独り」の束をもう一度見た。
古いほうが元だ、とは限らない。だが、古いほうが手つかずである可能性は高い。
「柊くん、これ」
みなもが古いほうの束から、一枚を抜いた。
「この人、助かってる」
俺は受け取った。
十七年前の証言だった。二年女子。夜、東階段を独りで上って、十三段目の手前で止まった。
「後ろから名前を呼ばれた気がして、振り返った。誰もいなかった。でも、段が減っていた」
「誰もいないのに、外れてる」
俺は紙を持つ指に力が入るのを感じた。
二人になっていない。人数は一人のままだ。
なのに、外れている。
「宮杜さん、これ、同じ形のものは他にありますか」
彼女は自分のノートを繰った。三十秒ほどかかった。
「……二件あります。二十年前と、十一年前」
「どちらも一人ですか」
「一人です。——どちらも『呼ばれた気がした』と書いてあります」
俺は三枚を並べた。
三件とも、人数は増えていない。三件とも、外れている。
二年間、俺が信じてきた三行では、この三件が説明できない。
説明できないものが三件あるということは、俺の三行のどこかが間違っているということだ。
◇
俺はしばらく、その二つの字を見ていた。
「宮杜さん」
「はい」
「噂って、字が変わりますか」
「変わります」
彼女は当然という顔で答えた。
「口で伝わるものなので。書き取る人が、自分の知ってる字を当てるんです」
「じゃあ、どっちが元なのか分からない」
「分からないですね。——ただ」
彼女は「独り」の束を手に取った。
「口で言うぶんには、どっちも『ひとり』です。音は同じ」
「音は同じ」
「はい。だから、書いた人の解釈が入ってるだけかもしれない」
俺はペンを置いた。
俺の三行は、「一人で登った者」だった。
人数だと思っていた。数の話だと思っていた。
だから九月のあの夜、俺は「二人にする」ことで外した。
外れた。
だから、その解釈で正しかったはずだ。
——本当にそうか。
二年間の三行が、根元から怪しくなった。
こういうとき、答えを持っている人間が一人だけいる。河川敷に座って、聞かれるのを待っている。
「独り」の意味を聞けば、たぶん一言で返ってくる。
値段も、たぶん一言で提示される。
俺は自分の右手を見た。
あの夜、俺は走った。彼女の背中を追って、同じ段を、同じ速さで登った。
俺がやったのは、人数を二人にすることだ。
だが同時に、俺はもう一つのことをしていた。
彼女を、独りでなくしていた。
二つは、同じ行為に見える。あの夜は、二つとも同時に満たされた。
どちらが効いたのかを、俺は区別していない。
「柊くん?」
みなもの声がした。
俺は顔を上げなかった。
頭の中で、二年間積み上げてきたものが、一箇所だけ音を立てていた。
「……一つだけ、噛み合ってない」
「なにが」
俺は答えられなかった。
噛み合っていない、という感覚だけがあって、それが何なのかはまだ形になっていない。
こういうときは、たいてい正しい。二年でそれは知っている。
だが今回に限って、正しくないでほしいと思った。
窓の外は、もう完全に暗くなっていた。
六時を五分過ぎている。宮杜さんは何も言わなかった。




