第22話 二人に数えられない
噛み合っていないものの正体が分かったのは、翌日の朝だった。
通学路の途中、信号待ちをしているときだ。
目の前の横断歩道を、母親と子供が渡っていった。子供が三歩ぶん遅れて、母親が振り返って手を出した。
それを見た瞬間に、頭の中で線がつながった。
俺は信号が青になっても、動かなかった。
後ろの人に舌打ちされて、ようやく歩き出した。
歩きながら、心臓の速くなるのを感じた。
嬉しいのに近い感覚だった。
二年間で何度かある。分からなかったものが、急に形を持つ瞬間だ。あの感覚だけは、いつまでも古びない。
だが今回は、嬉しさの下に嫌な予感があった。
こういうときの「分かった」は、たいてい良い知らせではない。
朝飯を食べ損ねていた。姉が「食べてけ」と言ったのに、鞄を掴んで出てきた。
腹が鳴った。校門に着くまでに三回鳴った。
◇
昼休み、俺はみなもを図書室に呼んだ。
宮杜さんもカウンターから出てきた。
「分かったんですか」
「たぶん」
俺は机の上に、昨日の二つの束を並べ直した。
左に「独り」。右に「一人」。
「俺は二年間、これを人数だと思ってました」
「うん」
「一人で登ると持っていかれる。だから二人にすればいい。九月のあの夜、俺はそれで外しました」
みなもが頷いた。あの夜の当事者だ。
「外れました。だから正しいと思ってた」
俺は左の「独り」の束に、手のひらを置いた。
「でも、あの夜に俺がやったことは、二つあります」
「二つ?」
「一つは、人数を二人にしたこと」
俺は指を一本立てた。
「もう一つは——あの人を、独りでなくしたこと」
俺はもう一本立てた。
二本の指を、みなもが見ていた。
「同じじゃないの?」
「あの夜は、同じでした」
俺は指を下ろした。
「俺が横に並んだ瞬間に、両方が同時に満たされた。だから、どっちが効いたのか区別できてない」
◇
宮杜さんが「独り」の束を手に取った。
「柊くん。今回のあの子は、どっちの意味でも一人ですよね」
「はい」
「人数も一人だし、誰にも認識されてないから、独りでもある」
「はい」
「じゃあ、どっちで外しても同じでは」
俺は首を振った。
「そこが違うんです」
俺は机の上に、ペンを二本、少し離して置いた。
「人数で外すなら、隣に誰か立てばいい。数が二になる」
一本目を、二本目の横に並べた。
「でも、あの子は数に入りません」
俺は二本目を、机の下に落とした。
からん、と音がした。
「認識されないものは、数えられない。数えられないものは、一にも二にもならない。ゼロですらない」
みなもの顔から、色が引いた。
落ちたペンを、彼女は拾わなかった。拾えなかった、というほうが近い顔をしていた。
「じゃあ……最初から一人ですらないってこと?」
「そうです」
俺は自分の声が、思ったより平坦なのに気づいた。
平坦に喋るのは、たぶん逃げだった。
感情を乗せて言えば、この人を余計に傷つける。乗せずに言えば、自分が傷つかずに済む。
どちらのために平坦にしているのかを、俺は自分でも分かっていなかった。
「一人だから持っていかれた。持っていかれたから、名前が消えた。名前が消えたから、もう数えられない」
順番が、閉じている。
入口と出口が同じ場所にある形だ。
「……戻せない」
「人数の意味で外すなら、戻せません」
図書室が静かになった。
昼休みの終わりが近くて、廊下の音も少なくなっていた。
みなもが、机の下からペンを拾った。
拾って、俺の前に置いた。置く音が、やけに大きく響いた。
「柊くん」
「なんだ」
「怒っていい?」
俺は顔を上げた。
「怒っていい」
「あの子に対してじゃないよ。階段に対して」
彼女は自分の膝の上で拳を握っていた。
「あの子、何もしてないじゃん。夜に一人で階段のぼった、それだけじゃん」
「そうだ」
「なんでそれで消えるの。ルールだから?」
「ルールだからだ」
「ふざけてる。本当にふざけてる」
彼女は本気で言っていた。
俺は二年前から、怪異に対して「ふざけてる」と思ったことが無い。規則に腹を立てても意味がないと、早い段階で決めてしまった。
その決め方が、正しかったのかどうか。
この人を見ていると、少し分からなくなる。
宮杜さんがカウンターに寄りかかった。
「じゃあ、もう一つのほうは」
「『独り』のほうですか」
「はい。そっちなら、どうですか」
俺は答えられなかった。
答えられなかったのではない。
答えが、まだ形になっていなかった。
◇
放課後、俺は一人で東階段の前に立った。
昼の階段だ。十二段しかない。生徒が普通に上り下りしている。
俺は下から数えた。十二。
上から数えた。十二。
当たり前だ。
当たり前のことを、俺は三回やった。
やりながら、頭の中では別のことを考えていた。
「独り」で外すというのは、どういうことか。
あの夜、俺はみなもの隣を走った。人数が二になった。同時に、彼女は独りでなくなった。
今回は、隣に立っても数が増えない。
だが——独りでなくすることは、数と関係があるのか。
俺はそこで止まった。
止まって、階段の途中に座った。
通りかかった一年が、変な顔をして俺を避けていった。
放課後の階段は、人の流れが上から下へ一方向になる。俺はその流れの真ん中に座っていた。
邪魔だった。自分でも分かっていた。
分かっていたが、動く気になれなかった。
三日前、俺は梔子に「見つかるまで探します」と言った。
言ったときは、それが誠実な答えだと思っていた。
今は、そうでもない気がしている。
探すと言えば、その場は格好がつく。だが探して見つからなければ、それはただの先延ばしだ。
「独り」というのは、状態だ。
人数がゼロでも、一でも、百でも、独りである人はいる。
みなもは九月のはじめに言った。「仲良かったはず、っていうことだけ覚えてる」と。
中身は抜けている。だが、関係の輪郭は残っている。
だとしたら。
あの子は、独りではない。
誰かが、あの子との関係を覚えている。
俺は膝の上で手を組んだ。
組んだ手が、震えていた。
寒いからではなかった。十月の夕方は冷えるが、震えるほどではない。
怖いのでもなかった。
近い、と思っていた。答えのすぐ手前にいるときの震え方だった。二年間で、数えるほどしか経験がない。
嬉しかった。
嬉しいのに、その先が出てこない。
理屈は、そこまで来ている。
だがその先を、まだ繋げられない。
関係が残っているとして、それをどうやって階段に見せるのか。
階段は数える。数える相手がいないものを、どう数えさせるのか。
◇
夜、俺は自分の部屋で紙を広げた。
書いた。
独りで登った者 → 持っていく
あの子は独りか?
みなもが関係を覚えている → 独りではない
では、なぜ持っていかれた?
ペンが止まった。
そこだった。
喉の奥が苦くなった。
自分で書いた行に、自分で潰された。二年間で何度もあることだ。慣れているはずだった。
慣れていなかった。
今回は、待っている人がいる。
二年前も、みなもとあの子は友達だったはずだ。関係はあった。
あったのに、持っていかれた。
つまり、階段は「関係」を見ていない。
少なくとも、その時点では見ていなかった。
俺は紙を丸めようとして、やめた。
丸めたら、明日また同じところから始めることになる。
情けなかった。
二年間、俺は「調べれば解ける」でやってきた。調べて解けなかったことは、たぶん一度も無い。
解けなかったものは、最初から調べなかっただけだ。
届かないものには、手を出さずに済ませてきた。
机の引き出しを開けた。
紙は無い。三日前に返した。返してよかった、と思った。
思ってから、少しだけ、返さなければよかったとも思った。
二つの気持ちが同時にあることに、俺はもう驚かなくなっていた。
俺はスマホを見た。
みなもからメッセージが来ていた。
今日、階段に座ってたでしょ
一年の子が「変な先輩がいた」って言ってた
俺は少し笑って、返事を打った。
座ってた
行き詰まってる
打ってから、送信を押すのに三秒かかった。
行き詰まっている、と誰かに言うのは、二年ぶりだった。
怖かった。
言えば、期待させたぶんだけ落とすことになる。この人はあの子を待っている。待っている人に「行き詰まった」と言うのは、殴るのに近い。
それでも打った。
嘘をつくよりましだと思った。
既読がついた。
そっか
明日、私も座る
俺はその文を、しばらく見ていた。
六文字と、七文字。
数えてしまってから、数えた自分に呆れた。
この人は、俺が行き詰まったと言ったのに、何も聞かなかった。何が分からないのかも、いつまでかかるのかも。
聞かれれば、俺は答えられなかった。
答えられないことを聞かないのは、たぶん、簡単ではない。
喉の奥が、少し熱くなった。
嬉しい、とは少し違った。
情けない、のほうが近い。この人に気を遣わせている自分が、単純に恥ずかしかった。
責める言葉が来ると思っていた。
来なかった。
「明日、私も座る」というのは、たぶん、そういう意味ではないのだろう。何かの役に立つわけでもない。
だが、俺は少し息がしやすくなった。
腹が減っていた。夕飯は食べたのに、また減っていた。
階下に降りて、冷蔵庫から昨日の残りを出して、立ったまま食べた。
姉と同じ食べ方だった。




