第23話 それでも行く
翌日、みなもは本当に階段に座った。
放課後の東階段の、下から三段目。鞄を膝に乗せて、通る生徒に「ごめん」と言いながら足を寄せていた。
「邪魔だぞ」
「柊くんが昨日やってたことじゃん」
「俺は邪魔だと自覚してた」
「私もしてる」
彼女は隣を叩いた。
俺は少し迷って、座った。
二人並ぶと、階段の幅がちょうど埋まった。通る生徒が全員、俺たちを避けていく。
「柊くん、何が分かんないの」
「あの子を、階段に数えさせる方法」
「うん」
「関係は残ってる。あんたが覚えてる。だからあの子は独りじゃない」
「うん」
「でも、それを階段に見せる方法が無い」
俺は自分の指を一本ずつ折って、また開いた。
「関係っていうのは、目に見えない。触れない。証明できない」
「そうだね」
「階段は数える。数えるには、数えられる形になってないといけない」
みなもは口を開きかけて、やめた。
「柊くんってさ」
「なんだ」
「見えないと数えられないって、思ってる?」
俺は彼女を見た。
「思ってる」
「そっか」
彼女はそれ以上言わなかった。
言わなかったが、その一言が引っかかった。
引っかかったまま、俺は三日過ごした。
授業中に思い出した。飯を食っているときに思い出した。風呂で思い出した。
見えないと数えられないと、思っているか。
思っている。それは間違いなく思っている。
だが、それは俺の話だ。階段の話ではない。
階段が何を数えているかを、俺は一度も確かめたことがない。
人数を数えていると勝手に決めて、二年やってきた。
◇
その週、俺は何度か東階段へ行った。
昼に行った。夕方に行った。放課後の遅い時間にも行った。
段は十二のままだった。
夜に来なければ増えない。分かっていることを、俺は何度も確かめた。
確かめるのは、進んでいる気がするからだ。
実際には、何も進んでいなかった。
三日目には、自分でも嫌になった。
同じ階段を、同じ角度から見て、同じ数を数える。それを進捗と呼ぶのは、さすがに無理がある。
寝る時間が減った。飯の時間も減った。
姉が二回、俺の顔を見て何か言いかけて、やめた。
言いかけてやめるのは、俺の癖だと思っていた。姉にもある癖だった。
似ているところが、こういうところしかない。
宮杜さんが、途中で一度だけ声をかけてきた。
「柊くん」
「はい」
「今週、うちの棚の前に十一回立ってます」
「……数えてるんですね」
「司書ですから」
彼女はカウンターに肘をついた。
「同じ棚に十一回立って、何か新しいものが出ましたか」
「出てません」
「じゃあ、十二回目も出ないですね」
正しかった。
正しいことを、この人は容赦なく言う。
「宮杜さんなら、どうしますか」
「私なら、諦めます」
俺は顔を上げた。
「諦めて、記録します。分からなかった、と書いて残す」
彼女は自分のノートを軽く叩いた。
「十年やってると、そういうページが何十枚もあります。右のページが空白のまま終わったやつ」
「……気持ち悪くないですか」
「気持ち悪いですよ」
彼女はあっさり言った。
「でも、埋めるために間違ったことを書くよりましです」
◇
その夜、俺は自分の部屋で、二年分のノートを全部出した。
中学のときのものから、今のものまで。全部で五冊あった。
右のページが埋まっているものを数えた。
三十一件。
右が空白のまま終わったものを数えた。
四件。
思っていたより少なかった。
少なかったのは、俺が優秀だからではない。
解けそうなものしか、手を出してこなかったからだ。
俺は五冊を机に積んで、しばらく眺めていた。
一番下が、中学のときのものだ。表紙に鉛筆で落書きがある。俺の字ではない。
あいつが勝手に描いたやつだった。何を描いたのかは、今も分からない。犬にも猫にも見えない何かだ。
消さなかった理由を、俺は覚えていない。
当時は、消すほどのことでもないと思っていたはずだ。今は、消さなくてよかったと思っている。
同じ結果でも、理由は変わる。
二年分だ。三十一件解いた。
その三十一件のうち、誰かが救われたものが何件あるのかは、数えていない。
ほとんどは、噂の芯を抜いて、怖くなくなって、それで終わりだった。
俺がやってきたのは、たぶん、そういう仕事だ。
人を助けたことは、二回しかない。
一回目は、二年前。姉だけを助けて、片方を落とした。
二回目は、先月のことだ。みなもを引き戻して、それは間に合った。
三回目が、今、目の前にある。
俺はノートを閉じた。
行こう、と思った。
解けていない。方法も無い。
だが、金曜日の夜だ。
あの子は、二年近くあそこにいる。
俺が三日迷えば、三日ぶん長くなる。
それを「解けるまで待つ」と呼ぶのは、たぶん誠実ではない。
解けないまま行くなら、持っていくものは一つしかない。
喉の奥に、二年前の名前がある。あれを口に乗せれば、今夜のうちに終わる。終わって、明日の朝、この人が俺を忘れている。
俺はその天秤を、もう何度も持ち上げていた。持ち上げるたびに、少しずつ軽くなっている気がする。
軽くなっていることのほうが、怖かった。
怖かった。
行っても何もできない可能性が高い。何もできずに帰ってきたら、次に行く理由が減る。
だが、行かない理由を数えるのは、もうやめたかった。
出る前に、スマホを一度見た。
宮杜さんからメッセージが入っていた。図書委員の連絡用に交換した番号だ。私用で使われたのは、これが初めてだった。
今日、棚の前に立ちませんでしたね
十一回目の次が無かったので、何か動いたんだと思います
右のページ、埋まったら見せてください
俺は画面を持ったまま、玄関で立っていた。
この人は、今日俺が図書室に来なかったことから、そこまで読んでいる。
行ってきます
それだけ返した。
既読はすぐについた。返事は来なかった。
来ないほうが、たぶん正しい。
俺は上着を掴んで、階段を降りた。
台所に姉がいた。
「どこ行くの」
「ちょっと」
「九時だけど」
「……ちょっと」
姉はしばらく俺を見ていた。
「鍵、持った?」
「持った」
「じゃあいい」
それだけだった。
この人は、行くなとは言わない。
言われたら、俺は行かなかったかもしれない。
◇
夜、九時。
校門の錠は、相変わらず押しながら引けば外れた。
みなもは校門の外にいた。私服だった。
「来ると思った」
「なんで」
「柊くん、今日ずっと時計見てたから」
俺は自分の癖に、また気づかされた。
「危ないから、帰ってくれ」
「無理」
「頼む」
「無理」
二回とも、間を置かずに返ってきた。
彼女は鞄の紐を肩に掛け直して、こちらへ半歩詰めた。
「柊くん、一人で行くつもりでしょ」
「そのつもりだ」
「じゃあ余計に無理」
彼女は俺の横を通って、先に校門をくぐった。
俺は少し遅れて、後を追った。
追いながら、自分が少し安心しているのに気づいて、それを恥じた。
一人で行くのが怖かった。
二年前から、俺は夜の学校に何度も一人で入っている。怖いと思ったことは、ほとんど無い。
今夜だけは、朝から胃が重かった。
解けていないまま行くというのが、こんなにきついとは思わなかった。二年間、俺は答えを持ってから動く人間だった。
その安全な足場を、今夜は外している。
この人が横にいることに、俺は明らかに助けられている。
助けられているのに、「帰ってくれ」と二回言った。
情けない。
◇
校門をくぐる直前、俺は一度だけ振り返った。
道の向こう。街灯の切れた暗がりに、人が一人立っていた。
上着の裾の長さで分かった。
こちらを見ている。近づいてはこない。
俺は少しだけ手を上げた。
向こうは動かなかった。動かないまま、そこにいた。
「柊くん、なに見てんの」
「……なんでもない」
みなもの目は、その暗がりを素通りした。
あの人は、今夜も見ているだけだ。
借りるな、外せ、と言った本人が、俺が外せないまま行くのを見ている。
止めには来なかった。
止めないことが、たぶんこの人なりの答えなのだろう。
◇
昇降口を抜けて、廊下に入った。
非常口の緑の灯りだけが点いている。上履きの音が、二人ぶん響いた。
東階段の下に着いたのは、九時十五分だった。九月のあの夜より、十五分だけ遅い。
空気は、まだ普通だった。
俺は下から数えた。
十二。
「まだだ。十二のままだ」
「そうなんだ」
みなもは俺の隣に立った。
俺たちはしばらく、そこで待った。
十分。二十分。時計を見るたびに、数字だけが進んだ。
窓の外で、遠くを車が通る音がした。校舎の中は静かで、換気扇のモーター音だけが上の階から聞こえてくる。
「柊くん」
「なんだ」
「解けてないんだよね」
「解けてない」
「じゃあ、今日は何しに来たの」
俺は答えを探した。
用意していなかった。
用意していない答えを口に出すのは、俺には難しい。難しいが、このひと月半で少しはできるようになった。
「——あの子に、まだ誰かが来てるって、知らせに来た」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
「意味は無い。向こうには聞こえてないと思う」
「聞こえてるかもよ」
「根拠が無い」
「根拠、いる?」
俺は返事をしなかった。
みなもは階段を見上げた。
「私、あの子の名前を思い出せないの。でも、階段の前に来ると胸のあたりが痛くなる」
彼女は自分の胸を、手のひらで軽く押さえた。
「これ、根拠にならない?」
俺は喉が詰まるのを感じた。
嬉しかった。
こんな場面で嬉しいと思うのは間違っている気もしたが、実際に嬉しかった。
俺は二年間、数えられるものだけを信じてきた。秒。段。回数。日付。
この人が今、数えられないものを根拠として差し出している。
それを笑わずに受け取れる自分でいたかった。
俺は何か言おうとして、口を開いた。
開いたところで、音の返り方が変わった。
壁が近くなったような、天井が低くなったような。
俺は反射的に、みなもの腕を掴んだ。
空気が重くなる。
温度が下がったわけではない。だが、肌の上を撫でていくものの質が変わった。
「柊くん」
「動くな。——喋るのはいい」
俺は階段を見た。
一段目の位置が、わずかに下がっていた。
踊り場の手前に、あるはずのない一段が挟まっている。
俺は数えた。
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二——
十三。
段が、十三に増えていた。
二年ぶりでも半年ぶりでもない。九月にこの階段を外してから、まだ一月も経っていない。
あのときは、彼女を助けるために走った。
今夜は、走る先が分からない。
俺は自分の手が汗ばんでいるのに気づいた。
みなもの腕を、まだ掴んだままだった。




