第24話 関係は消えていない
十三段目は、踊り場の手前にあった。
増えた一段は、他の段より少しだけ色が濃い。九月に見たときと同じだ。
俺とみなもは、階段の下に立っていた。
空気が重い。息を吸うと、喉の奥に薄い膜がかかるような感じがする。
寒かった。十月の夜の校舎は、思ったより冷える。
みなもは私服のパーカーの袖を引っ張って、手のひらを隠していた。俺は上着を持ってきていた。持ってきていたのに、渡すという発想が出てこなかった。
出てきたときには、もう十分くらい経っていた。
渡そうとして、手が止まった。
今それをやったら、たぶん場違いだ。そう思って、やめた。
やめてから、場違いかどうかを気にする自分に少し呆れた。
「上に、誰かいる?」
みなもが、ほとんど息だけの声で聞いた。
「いない」
俺は階段を見上げた。
踊り場まで、人影は無い。九月のときは女子生徒が登っていた。今夜は誰もいない。
当たり前だ。今夜は誰も持っていかれていない。
持っていかれた子は、二年近く前から内側にいる。
「柊くん、これ、これからどうすればいいの」
「分からない」
俺は正直に言った。
「壁は分かってる。あの子は数えられない。だから二人にできない」
「うん」
「でも、階段が『何を』数えてるかは、確かめてない」
俺は一段目に足を乗せた。
乗せて、すぐに下ろした。靴底が段を擦る音がした。
登ってはいけない。俺が一人で登れば、次に持っていかれるのは俺のほうだ。
「柊くん」
みなもが俺の袖を掴んだ。
「登らないで。絶対」
「登らない」
「約束して」
「約束する」
彼女は手を離さなかった。
握られている袖の感触が、やけにはっきり伝わってきた。
この人は、俺が一人で行くことをずっと警戒している。今日の夕方も、校門の外で俺が出てくるのを待っていた。
警戒されるだけの前科が、俺にはある。
二年前、俺は一人で判断して、一人で失敗した。誰にも相談しなかった。相談する相手はいたのに、恥ずかしいという理由で言わなかった。
同じ形を、この人は嗅ぎ取っている。
嗅ぎ取られていることが、少しだけ、ありがたかった。
◇
俺は階段の前に座った。
みなもも座った。二人並んで、下から二段目に。
誰も来ない。夜の校舎は静かで、遠くで自動販売機のモーターが唸っている音だけがした。
その音を、俺は数えないようにした。
「柊くん、九月のとき」
みなもが言った。
「私、階段のぼってたんだよね」
「登ってた」
「全然覚えてない。気づいたら踊り場にいて、柊くんがいた」
彼女は自分の膝を抱えた。
「柊くん、あのとき、何て言った?」
「……一人じゃなくなったから、って」
「そう。それ」
彼女は少し笑った。
「私、あれからずっと考えてたの。一人じゃなくなったって、どういうことなんだろうって」
「人数の話だと思ってた」
「柊くんはね」
彼女は俺のほうを見た。
「私は、そう思ってなかった」
俺は彼女を見返した。
「あのとき、私、後ろから足音が来たの。覚えてる。誰かが同じ段を、同じ速さで上ってきた」
彼女は自分の耳のあたりを指した。
「顔は見えなかった。振り返れなかったし。誰かも分かんなかった」
彼女はそこで一度、言葉を切った。
「でも、一人じゃないって分かった」
「……」
「数えたわけじゃないよ。二人になったなー、とか思わなかった。数えてる余裕なんてなかったし」
彼女は膝の上で指を組み直した。
「ただ、一人じゃないって思った。それだけ」
◇
俺は自分の呼吸が止まっているのに気づいた。
息を吐いた。
背中を、汗が一筋伝った。寒いのに、汗が出ていた。
心臓が速い。速いのに、頭の中だけが妙に静かだった。
二年間で、この感覚は数えるほどしかない。答えが手前まで来ていて、あと一歩で形になるときの静けさだ。
階段は、数える。
だが——数えるのは、外から見た人数だとは限らない。
あの夜、みなもは俺を認識していなかった。顔も見ていない。誰かも分からない。
だが「一人じゃない」と感じた。
感じたのは、みなも本人だ。
「芹沢」
「なに」
「階段は、たぶん、本人がどう感じてるかを数えてる」
彼女が顔を上げた。
「本人?」
「登ってる本人だ。周りに何人いるかじゃなくて、その人が独りかどうか」
俺は自分の指を数えた。数えながら、頭の中で並べ直した。
二十二年前の記録は「独り」と書いていた。
八年前から「一人」に変わった。
書き換えたのは、噂を伝えた側だ。人数の話だと解釈した誰かが、字を当て直した。
理は変わっていない。解釈だけが変わった。
そして俺は、その解釈のほうを二年間信じてきた。
悔しかった。
自分で調べて、自分で絞って、自分で信じた三行だ。そのうちの一行が、他人の誤読だった。
だが、悔しさより先に来たものがある。
外れた。
二年ぶんの前提が一つ外れて、その向こうに道が見えている。
こんな気持ちになるのは、初めてだった。
「じゃあ」
みなもの声が、少し震えていた。
「あの子が、独りじゃないって思えれば」
「外れる」
俺は言った。
「数える必要が無い。あの子が独りでなければ、条件が満たされない」
◇
みなもは、しばらく黙っていた。
「でも、どうやって」
彼女が言った。
「あの子は、中にいるんだよね。私たちの声、届くの?」
「分からない」
「顔も名前も分からないのに、独りじゃないって思わせられる?」
俺は答えを探した。
探しながら、九月のはじめに彼女が言ったことを思い出していた。
——一緒にいたときの感じだけは、残ってるの。
中身が抜けた輪郭。名前も顔も消えて、それでも残ったもの。
「芹沢」
「うん」
「あんた、あの子のこと、なんて呼んでた」
彼女が止まった。
「……名前は、思い出せない」
「名前じゃない。呼び方だ」
俺は自分の声が急いでいるのに気づいた。
「あだ名でも、下の名前でも、なんでもいい。呼んでたときの音を、覚えてないか」
みなもは口を開けた。
開けて、閉じた。
眉を寄せて、視線を落とした。思い出そうとする顔ではない。もっと奥のほうを探っている顔だった。
十秒くらい、そうしていた。
俺は待った。急かしたら消える種類のものだと分かっていた。
もう一度、彼女が口を開けた。
「……あ」
彼女の手が、自分の口元に行った。
「音、ある」
「あるのか」
「意味は分かんない。何て言ってたか分かんない。字にもできない」
彼女は自分の喉のあたりを押さえた。
「でも、口が覚えてる」
彼女は自分の唇を触った。
「毎日呼んでたから。たぶん、何百回も」
彼女の目が、少し潤んでいた。
嬉しいのか、悲しいのか、俺には判別できなかった。たぶん本人にも分かっていない。
二年近く、この人は「仲良かったはず」だけを抱えてきた。
その「はず」の中に、まだ音が残っていた。
俺は自分の心臓が跳ねるのを感じた。
記録の側からは入れない。名簿の文字も、写真も、書き取りも、全部落ちた。
だが、記憶の側からなら入れる。
十日ほど前に、俺は自分でそれを確かめている。二年前を全部思い出したあとで、姉のノートの二行目が読めた。
みなもの中には、名前ではないものが残っている。
二年間、口が覚えている音が。
「それを、あそこで言えるか」
俺は階段を指した。
みなもが、階段を見上げた。
しばらく、見上げていた。
「……言える」
彼女は立ち上がった。
「でも、それだけじゃ足りないよね」
俺は答えられなかった。
足りない。分かっていた。
あの子が「独りじゃない」と感じたとして、その次がある。
感じたところで、あの子はまだ内側にいる。
条件が外れることと、外へ出られることは、別だ。
鍵が開いても、扉は自分では動かない。
二年前の川沿いでも同じだった。理は分かっていた。三人でなければいい。分かっていて、俺の足が動かなかった。
条件を知ることと、動かすことのあいだには、必ず距離がある。
その距離を埋めるものが、たぶん今夜も要る。
俺は自分の右手を見た。
九月に借りた手だ。三日間、ものを掴み損ねた手だ。
俺は自分の喉の奥に、何かが上がってくるのを感じた。
二年前に一度だけ喉に乗せた、あの怪異の名。
腕の届く距離を書き換えるやつだ。
九月のあの夜、俺はこれを飲み込んだ。三秒の値段を数えて、姉の一拍を思い浮かべて、飲み込んだ。
今夜は、飲み込まなかった。
飲み込む代わりに、喉の奥に置いたまま、階段を見上げた。
怖かった。
名前をそこに置いておくというのは、使う可能性を自分に許すということだ。
二年間、俺はそれをやらなかった。上がってきたら即座に飲み込んだ。飲み込めば安全だった。
今夜は、安全ではいられない。
みなもが、俺の顔を見ていた。
「柊くん」
「なんだ」
「怖い顔してる」
「怖いからだ」
言ってから、自分で少し驚いた。
二年間、俺は怖いと口に出したことがほとんど無い。
「そっか」
彼女はそれだけ言って、俺の隣に立った。
立って、階段を見上げた。
二人で、同じものを見上げていた。




