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力を使うたび、誰かが俺を忘れていく —— だから怪異は、殴らずに外す  作者: 八夜巡


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第25話 三秒の値段

「私が行く」


 みなもがそう言ったのは、階段を見上げてから一分ほど経ったあとだった。


「登って、そこで呼ぶ。口が覚えてるから、たぶん出る」


 俺は彼女の腕を掴んだ。


「駄目だ」


「なんで」


「登ったら、あんたが持っていかれる」


「一人じゃないよ。柊くんがいるじゃん」


「俺が下にいても、登ってるのはあんた一人だ」


 言ってから、自分の言葉が正しいかどうか分からなくなった。


 九月のときは、俺が同じ段を登った。並んだ。


 今回、同じことをすればいい。二人で登ればいい。


 だがそれは、二人とも内側に近づくということだ。


「柊くんも一緒に登ればいいじゃん」


「駄目だ」


「なんで」


「それは、あんたを危ない場所に連れていくってことだ」


 みなもが、俺の手を見た。


 俺は彼女の腕を、思ったより強く掴んでいた。


 パーカーの布地が、指の形に歪んでいた。


 力を緩めた。緩めたが、離さなかった。


 離したら行く、と分かっていた。


 この人はそういう人だ。掃除当番を一人で三十分やって、怒りもせず、「柊くんは人のこと過大評価する」と言うような人だ。


 自分が痛い目に遭うことに、あまり抵抗が無い。


 その性質を、俺は九月のはじめに見ていた。見ていたのに、今夜まで対策を考えていなかった。


 俺の落ち度だった。


   ◇


 喉の奥に、名前があった。


 置いたままにしてある。飲み込んでいない。


 俺はそれを、上げてきた。


 舌の上に、音の形が乗った。


 ——三秒。


 九月と同じだ。三秒あれば足りる。


 腕の届く距離を書き換える。階段の下から手を伸ばして、内側に手を届かせる。


 あの子を掴んで、引き上げる。


 俺はその三秒の値段を数えた。


 削られるのは、俺の記憶ではない。俺を覚えている誰かの、俺についての記憶だ。しかも、近い順に。


 今、俺の一番上にいるのは。


 隣にいる。


 腕を掴んでいる。


 パーカーの袖を引っ張って、手のひらを隠している。


 息の吸い方が、途中で引っかかった。


 指先が冷たい。心臓だけが速い。


 九月の夜と、身体の反応が同じだった。同じ階段で、同じ名前を、同じように喉に置いている。


 違うのは、隣に人がいることだ。


 九月は一人だった。数えるのも、飲み込むのも、一人でやった。


 今夜は、俺が三秒の値段を数えているあいだ、この人が俺の顔を見ている。


 九月のときは、飲み込めた。


 あのときの一番上は姉だった。姉の一拍が二拍になるかもしれない、と思って飲み込めた。


 今夜は、飲み込めない。


 飲み込めば、この人が登る。


 登れば、この人が持っていかれるかもしれない。


 どちらを選んでも、この人が減る。


 ——違う。


 俺は目を閉じた。


 どちらを選んでも減るのではない。


 俺が名を借りれば、この人は「俺についての記憶」を失う。生きている。学校に来る。明日も購買であんパンを買う。


 この人が登れば、この人自身が持っていかれるかもしれない。


 同じではない。


 全然、同じではない。


   ◇


「柊くん」


 みなもが俺の顔を見ていた。


「何か思いついた?」


「思いついてない」


「嘘」


「……嘘だ」


 俺は目を開けた。


「一つだけ、方法がある」


「なに」


「俺が借りる」


 彼女の顔が、変わった。


「駄目だよ」


「聞いてくれ」


「駄目。絶対駄目」


 彼女は俺の袖を掴み返した。


「柊くん、二年間それ我慢してきたんでしょ。だから今も我慢してきたんでしょ」


「してきた」


「じゃあ今日もして」


 彼女の声が、少し高くなっていた。


 この人が声を荒げるのを、俺は初めて見た。


 いつも率直で、言い淀まなくて、こちらの黙り方まで見抜く人だ。その人が、今は必死だった。


 嬉しい、と思ってしまった自分を、俺は殴りたくなった。


 こんな場面で、この人に必死になってもらえたことを嬉しがっている。


 最低だ。


 俺は首を振った。


「今日は、我慢が一番楽なんだ」


 みなもが止まった。


「借りなければ、俺は何も失わない。あんたが登って、あんたが持っていかれる。俺は下で見てる」


 俺は自分の声が低くなるのを感じた。


「二年前と、同じだ」


 彼女が、俺を見た。


「あのとき、俺は動かなかった。動けなかったんじゃない。動くのが怖かった」


 言葉が、勝手に出てきた。用意していなかった。


「怖いまま立ってたら、片方が持っていかれた。それが二年前だ」


「柊くん——」


「今夜、あんたを登らせて下で待つのは、それと同じ形をしてる」


 言いながら、喉が痛くなった。


 二年間、俺はこの話を誰にもしていない。半分嘘になるから黙っていた。


 半分嘘のまま、初めて人に言った。


 言ってみたら、思っていたほど嘘ではなかった。


 あの夜、俺の足が動かなかったのは事実だ。恥ずかしくて何も言わなかったのも事実だ。


 事実だけを並べるなら、嘘にはならない。


 俺はそれを、二年かけて覚えるべきだった。


   ◇


 みなもは、しばらく何も言わなかった。


 夜の校舎に、空調のモーター音だけが響いていた。


「……ずるいよ、それ」


 彼女が言った。


「そう言われたら、止められないじゃん」


「止めなくていい」


「止めるよ」


 彼女は俺の袖を掴んだままだった。


「柊くん、私のこと忘れるんだよ」


「忘れない。あんたが俺を忘れる」


「同じでしょ」


「違う」


 俺は彼女の手を、そっと外した。


「あんたが俺を忘れても、あんたは生きてる。——俺はあんたを覚えてる」


 言ってから、少し息が詰まった。


 それは、梔子に言った言葉と同じ形をしていた。


 金は払いません。名前も買いません。ただ、覚えてます。


 あのとき俺は、それを「取引を成立させない方法」として使った。


 今は、違う意味で使っている。


「一つだけ、頼みがある」


「なに」


「明日の朝、俺が話しかけたら、無視しないでくれ」


 みなもが、口を開けた。


 開けたまま、何も言えずにいた。


 目の縁が光った。今度は拭かなかった。


「……ずるい」


「知ってる」


「そんなの、断れないじゃん」


「断らないでくれ」


 彼女は下を向いた。


 しばらく、そのままだった。


 俺は待った。急かす資格が無かった。


 この人は今、俺のために「自分が忘れることを許可する」という判断をさせられている。


 こんな役を人にやらせるのは、たぶん最低の部類だ。


 それでも他に方法が無い。


「……分かった」


 彼女は、そう言った。


 顔を上げたときには、いつもの顔に戻っていた。戻し方が上手い人だった。


「無視しない。約束する」


「ありがとう」


「あと」


「なんだ」


「あんパン、明日も買っとくから」


 俺は少し笑った。


 笑ったら、目の奥が熱くなった。


   ◇


 俺は階段を見上げた。


 十三段目が、そこにある。


「呼んでくれ」


 俺は言った。


「あんたが覚えてる音を、ここで」


 みなもは階段の一段目に立った。


 登らなかった。一段目に足を乗せただけだ。


 息を吸って、彼女は何かを言った。


 言葉には聞こえなかった。音としては出ている。だが、俺の耳がそれを言葉として処理しない。


 名前が消えるというのは、そういうことだ。


 だが——空気が、動いた。


 階段の上、踊り場の暗がりで、何かが揺れた。


 俺は喉の奥の名前を、口にした。


 息を吐いた。


 音の形が、舌の上で解けた。


   ◇


 肩が外れたような感覚がした。


 長さの感覚が壊れる。自分の腕がどこで終わっているのかが分からなくなる。


 俺は右手を伸ばした。


 階段の下から、踊り場の暗がりへ。


 十三段ぶんの距離が、そこに無かった。


 指先が、何かに触れた。


 制服の袖だった。


 冷たかった。二年ぶんの冷たさだと思った。


 俺は掴んだ。


 引いた。


 軽かった。人ひとりぶんの重さが無い。


 だが、確かに何かが降りてきた。


 十三段目が、畳まれた。


 増えていた一段が、最初からなかったもののように消えて、空気の密度が戻った。


 踊り場に、女子生徒が立っていた。


 制服のリボンの色で二年だと分かる。前髪が少し長い。


 こちらを見ていた。


 俺は口を開いて、名前を呼ぼうとした。


 呼べなかった。


 名前は、戻っていなかった。


 彼女は自分の手を見て、それから俺を見て、そして——みなもを見た。


 みなもが、階段の一段目で泣いていた。


 声を出さずに、口を押さえて。


 女子生徒は、階段をゆっくり降りてきた。


 降りて、みなもの前に立った。


 みなもが手を伸ばして、その子の腕を掴んだ。


 掴めた。


 俺はその二人を見ていた。


 右腕がまだ、正しい長さに戻っていなかった。


 指を開いて、閉じた。


 感覚が無い。自分の手が、視界の中のどのあたりにあるのかが掴めない。


 九月のときは三日かかった。今回はもっと長く借りた。何日かかるかは分からない。


 だが、それは大した問題ではなかった。


 寒い、と思った。


 十月の夜の校舎で、上着を着ているのに、身体の芯が冷えていた。


 腹も減っていた。夕飯は食べたはずだ。姉が作った肉じゃがを、三杯食べた。


 こんなときに腹が減るのか、と思った。


 九月の夜も、同じことを思った気がする。


 人間の身体は、大事な場面でも普通に空腹になる。


 俺は階段の手すりに手をついて、体重を預けた。


 膝が笑っていた。


 みなもと、名前の無い女子生徒が、そこに立っている。


 二人とも、俺のほうを見ていない。


 俺はそれでよかった。


 今の顔を見られたくなかった。


 喉の奥に、もう名前は残っていない。使ったからだ。


 空いた場所が、やけに静かだった。

明日は2話更新となります。

12:30と21:00の予定です。

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