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力を使うたび、誰かが俺を忘れていく —— だから怪異は、殴らずに外す  作者: 八夜巡


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第26話 誰だっけ

本日は2話更新予定です。

次は21:00更新となります。

 その夜のことを、俺は順番に思い出せる。


 階段から降りてきた女子生徒は、何も喋らなかった。


 喋れなかったのだと思う。名前を持たない人間が、どうやって自分を名乗るのか。名乗れないまま二年近く、あの内側にいた。


 みなもがその子の腕を掴んで、離さなかった。


 俺たち三人は、校門まで歩いた。


 女子生徒は、自分の足で歩いた。足取りはしっかりしていた。制服のまま、二年前の制服のまま、リボンの色だけが今年のものと違っていた。


 校門を出たところで、みなもが聞いた。


「家、分かる? 場所」


 女子生徒は、少し間を置いてから頷いた。


 二年ぶりの夜道だった。分かるほうが不思議かもしれない。


 言葉ではなく、頷きだった。


「送るよ。夜だし、一人で歩くのはやめておこう」


 みなもがそう言って、二人で歩き出した。


 一人はやめよう、という言い方を、この人は自然に使った。


 俺は少し離れて後ろを歩いた。


 右腕はまだ長さを失っていて、歩くたびに手の当たる位置がずれた。


 三十分ほど歩いた。住宅街に入って、みなもが「ここ?」と聞いて、女子生徒がまた頷いた。


 インターホンを押したのは、みなもだった。俺は押せなかった。


 出てきたのは中年の女性で、玄関の明かりの中で、その人は自分の娘を見て、二秒くらい止まった。


 それから、名前を呼んだ。


 俺には聞こえなかった。


 音は出ていた。口も動いていた。だが、俺の耳がそれを言葉として処理しない。


 母親が娘を抱きしめた。


 二人とも泣いていた。


 母親のほうが声を上げて泣いていた。娘は声を出さずに、ただ母親の背中に手を回していた。


 玄関の明かりが、二人の輪郭を白く縁取っていた。


 俺とみなもは、少し離れたところに立っていた。


 みなもも泣いていた。


 俺は泣かなかった。


 泣けなかった、というほうが近い。


 自分が今、何を失いつつあるのかを、頭のどこかが計算し続けていた。この場面でそれをやっている自分が、少し嫌だった。


 嫌なのに、止まらない。二年でついた癖だ。


 誰も俺たちを見なかった。


 当たり前だ。この家の人にとっては、娘が帰ってきたという事実だけがある。


 俺は、それでいいと思った。


   ◇


 帰り道、俺とみなもは並んで歩いた。


 十一時を過ぎていた。街灯の間隔が広い道で、影が伸びたり縮んだりした。


「柊くん」


「なんだ」


「あの子、名前戻らないんだよね」


「戻らない。もう戻らない」


「お母さんは呼んでたけど」


「あの人は忘れてなかった。——家族は、たぶん最後まで残る」


 俺は自分の言葉が正しいかどうか分からなかった。


 だが、玄関先であの人が呼んだ音を、俺は聞き取れなかった。聞き取れないのは、俺の側の問題だ。


 あの母親の中には、名前がある。


「私も、いつか呼べるようになるかな」


 みなもが言った。


「分からない」


「そっか」


 彼女は少し笑った。


「まあ、いいや。呼べなくても、隣にいたし」


 俺は返事をしなかった。


 返事の代わりに、右手を開いて、閉じた。


 まだ長さが戻らない。


 この人が、明日の朝どうなっているかを、俺は知らない。


 二年前、姉は翌朝から一拍かかるようになった。あのときは、次の日にはもう分かった。


「柊くん」


「なんだ」


「明日、学校で会おうね」


 彼女は前を向いたまま、そう言った。


「うん」


「約束したから。無視しないって」


「した」


「じゃあ大丈夫」


 俺はその横顔を見ていた。


 大丈夫ではないことを、この人は知っている。知っていて、そう言っている。


 分かれ道で、俺たちは別れた。


 彼女は一度振り返って、手を振った。


 俺も振った。振った手が、まだ正しい長さではなかった。


 角を曲がるまで、俺はそこに立っていた。


 曲がったあと、しばらく動かなかった。


 覚えておこう、と思った。


 今夜のこの人の顔を。手の振り方を。「まあ、いいや」と言ったときの声を。


 明日、この人が俺を忘れたとして、俺のほうは覚えている。


 それは公平ではない。


 だが、公平でなくていい。


 梔子に言ったのと同じことだ。俺はこの人を覚えている。それは取引ではない。


 家に着いたのは、十一時半だった。


 姉はもう寝ていた。台所に、ラップのかかった皿が一枚残っていた。


 俺はそれを立ったまま食べた。


 味は、あまりしなかった。


   ◇


 翌朝、俺は六時に起きた。


 眠れなかった。三時頃に一度眠って、五時前に目が覚めて、そのまま天井を見ていた。


 姉が降りてきたのは七時前だった。


「悠、味噌汁」


 一拍。


 二拍目。


 そこで焦点が合った。


 二拍のままだった。伸びていない。


 肩から力が抜けるのが、自分で分かった。


 姉は俺の顔を見て、何か言いかけて、やめた。


「顔、ひどいけど」


「知ってる」


「学校行くの」


「行く」


 行かなければならなかった。


 確かめるためだ。


 確かめたくないから、行きたくない。だが行かなければ、いつまでも確かめられない。


 俺は制服に着替えて、鞄を持って、家を出た。


 十月の朝は、思ったより寒かった。


 息が白かった。今年初めて見た気がする。


 通学路を歩きながら、俺は何度も同じことを考えた。


 一番上にいたのは、間違いなくこの人だった。


 だから削られたのは、この人の中の俺だ。


 どれくらい削られたのかは、分からない。九月の数十秒で三秒だった。昨日は、たぶん一分近く借りている。


 三秒の二十倍が何秒になるのか、俺には計算できない。


 目盛りを知らない。二年間ずっと知らないままだ。


 校門が見えたところで、足が止まりかけた。


 止まりかけて、無理に進めた。


 止まったら、今日は行けない気がした。


   ◇


 下駄箱で、俺は待った。


 みなもが来るのは、いつも八時十分頃だ。ひと月半も見ていれば、それくらいは分かる。


 八時九分に、彼女が校門をくぐった。


 友達と喋っていた。いつもの顔だった。


 昇降口に入ってきて、下駄箱の前で靴を履き替えた。


 俺は数歩の距離に立っていた。


 彼女が顔を上げた。


 目が合った。


 俺は口を開いた。


「おはよう」


 二年ぶりに、俺のほうから挨拶をした。


 みなもが、俺を見た。


 見ていた。


 まばたきが二回。


 焦点が、俺の顔の上で一度ずれて——


「……ごめん」


 彼女が言った。


「えっと」


 俺は待った。


 三秒。


 四秒。


 五秒。


 数えていた。数えるつもりはなかったのに、数えていた。


 六秒。七秒。


 喉が渇いた。心臓が、耳の裏で鳴っていた。


 九月のときは、三秒で戻った。


 あのときの俺は、その三秒を「一瞬名前が出てこない程度」だと判定した。軽いほうだと思った。


 軽くなかった。


 三秒でも、こんなに長い。


「柊くん、だっけ」


 彼女は少し首を傾げた。


「……ごめん、誰だっけ」


 昇降口の音が、遠くなった。


 朝の昇降口というのは、うるさい場所だ。上履きの音がする。誰かが誰かを呼ぶ。鞄のファスナーが開く。


 その全部が、薄い膜の向こうへ移った。


 三秒では戻らなかった。


 五秒でも、十秒でも、戻らなかった。


 彼女は困った顔をして、「あ、ごめん、同じクラスだよね」と言った。


 困った顔だった。悪いことをした、という顔ですらなかった。


 名前が出てこない相手に対する、ごく普通の反応だった。


 クラスメイト、という単位でだけ、俺はまだそこにいた。


「うん」


 俺は言った。


「同じクラスだ」


「だよね。ごめん、名前が出てこなくて」


 彼女は笑って、それから友達に呼ばれて、そちらへ行った。


 行きながら、一度もこちらを振り返らなかった。


 振り返る理由が、無かったからだ。


   ◇


 俺はその場から動けなかった。


 どれくらい立っていたのかは、数えていない。


 予鈴が鳴って、昇降口から人がいなくなって、それでもしばらく立っていた。


 右手を開いて、閉じた。


 長さは、まだ戻らない。


 二年前と同じだった。


 二年前、俺は姉を助けて、姉に一拍を作った。


 昨日、俺はあの子を助けて、この人に——


 俺は数え直そうとして、やめた。


 数えても、何も出てこない。


 喉の奥に、名前は無い。使ってしまった。


 あるのは、約束だけだった。


 明日の朝、俺が話しかけたら、無視しないでくれ。


 この人は、無視しなかった。


 「ごめん、誰だっけ」と言った。それは、無視ではない。


 約束は、守られている。


 俺は自分の靴を見た。


 上履きに履き替えていないことに、そこで気づいた。


 下駄箱の前に立ったまま、俺は靴を脱いだ。


 手が震えていて、二度落とした。


 二度目を拾ったとき、床の冷たさが指に来た。


 泣かなかった。


 泣きたいとも思わなかった。悲しいという形をしていなかった。


 もっと平たいものだった。予定どおりのことが予定どおりに起きた、というだけの平たさだ。


 覚悟していたことは、覚悟していたとおりに起きる。


 覚悟していても、痛い。


 その二つは両立する。俺はそれを、今日初めて知った。


 鞄の中で、何かが当たる音がした。


 開けた。


 あんパンが入っていた。


 昨日の帰りに、俺が自分で買ったものだった。


 この人が買ってくると言っていたので、要らないと言うつもりで、それでも一応買っておいた。


 俺はそれを、しばらく見ていた。


 教室の方向から、二時間目の予鈴が鳴った。

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