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力を使うたび、誰かが俺を忘れていく —— だから怪異は、殴らずに外す  作者: 八夜巡


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第27話 はじめまして

本日2話目です。

前話がまだの方はそちらからお読みください。

 二日間、俺は動けなかった。


 学校には行った。授業も受けた。飯も食った。


 だが、みなもに話しかけられなかった。


 教室で何度も目に入る。窓際の席で友達と喋っている。笑っている。いつもの顔だ。


 こちらを見ることは、無かった。


 見る理由が無いからだ。


 一度だけ、廊下ですれ違った。彼女は「あ」と言って、少し会釈をした。同じクラスの、名前が出てこない誰かに対する会釈だった。


 俺は会釈を返した。


 返して、そのまま歩いた。


 その日の夜、俺は自分の部屋で天井を見ていた。


 飯は食っていた。姉が作ったものを、普通に三杯食べた。


 食べられることが、少し不思議だった。


 二年前、あの夜のあとの一週間は、ほとんど何も食べられなかった。母に心配された記憶がある。


 今回は食べられる。


 慣れたのか、それとも今回のほうが軽いのか。


 軽いわけがない。


 だとすれば、慣れたのだ。


 慣れというのは、たいてい諦めの別名だ。いつだったか、そう書いた気がする。


 喉の奥を探っても、もう何も上がってこない。あの夜に使い切った。


 無いと分かっていて、探した。


 二日で三回、同じことをしている。あれば、今からでも借りるつもりなのかと自分に聞いて、答えが出なかった。


 河川敷に行けば、新しい名前が一枚買える。


 行かなかった。行かない理由を、俺はまだ言葉にできていない。


 右手の長さは、少しずつ戻っていた。三日目には、ものを掴み損ねる回数が一日二回まで減った。


 身体は戻る。


 戻らないものだけが、戻らない。


   ◇


 三日目の夜、俺は姉の部屋の前に立った。


 ドアは閉まっていた。


 中で音がしている。姉が何かを書いている音だ。ボールペンが紙を擦る、短い音。


 俺は、しばらくそこに立っていた。


 この人は二年間、これをやっている。


 毎晩、俺の名前を書いている。書いても忘れることを知りながら、それでも書いている。


 俺は自分の部屋に戻って、机の引き出しを開けた。


 二年前から使っているノートがある。日付と、姉の一拍だけが書いてあるノートだ。


 最後のページを開いた。


 最後の記録は、三週間前で止まっていた。


 俺は日付を書いた。


 その横に、「二拍」と書いた。


 書いてから、ペンを止めた。


 二年間、俺はこのノートに数字だけを書いてきた。


 姉は名前を書いていた。


 同じ二年で、同じ家で、俺たちは違うものを書いていた。


 俺はページをめくって、新しい行に書いた。


 芹沢 みなも


 それだけ書いて、しばらく見ていた。


 真似だった。姉のやり方の。


 真似で構わなかった。


 俺には他に、やり方が思いつかなかった。


 書いてみて、分かったことが一つある。


 書くのは、思っていたよりきつい。


 名前を書くというのは、その人がまだいるということを、毎回自分に確認させる作業だ。


 いるのに、届かない。


 その差を、毎晩自分の手で書く。


 姉はこれを八百八十六日やっている。


 俺は一日目で、ペンを置くまでに三分かかった。


 三分のあいだ、何をしていたのかは覚えていない。たぶん何も考えていなかった。


 俺はノートを閉じた。


 閉じてから、明日も書くと決めた。


   ◇


 四日目の朝、俺は早く学校へ行った。


 昇降口で待たなかった。教室で待った。


 自分の席に座って、鞄からノートを出して、開いた。何も書かなかった。開いていただけだ。


 八時十分に、みなもが教室に入ってきた。


 友達と喋りながら、窓際の自分の席へ行った。


 鞄を置いて、椅子を引いた。


 俺は立ち上がった。


 立ち上がってから、何を言うかを決めていないことに気づいた。


 三日間考えていた。三日間考えて、何も決まっていなかった。


 教室の音が、急に大きく聞こえた。


 誰かが誰かを呼んでいる。椅子が引かれる。鞄のファスナーが開く。


 その全部が、いつもより近かった。


 心臓が速い。手のひらが汗ばんでいる。


 情けない、と思った。


 二年前、俺は恥ずかしいという理由で「この道はやめよう」と言えなかった。


 今も同じ場所に立っている。


 だが、今日は言う。


 俺は歩いた。


 六歩だった。数えてしまった。


 彼女の席の横に立った。


 彼女が顔を上げた。


「……えっと」


 困った顔だった。


 三日前と同じだ。


 俺は口を開いた。


「はじめまして」


 自分の声が、思っていたよりも普通に出た。


 みなもが、まばたきをした。


「え」


「柊悠だ。同じクラスの」


 俺は言った。


「二年A組。席は廊下側の、後ろから二番目。四月からずっとそこだ」


 彼女は俺の顔を、上から下まで一度見た。


 それから、少し笑った。


「知ってるよ、そのくらいは」


「そうか」


「同じクラスだもん」


「そうだな」


 俺は少し言葉に詰まった。


 詰まってから、続けた。


「名前が出てこないんだろ」


 彼女の顔が、一度止まった。


「……なんで分かるの」


「顔に出てる」


 俺は言った。


 このひと月半、この人が俺に何度も言ったことだった。


「ごめん。ほんとに、なんか、出てこなくて」


 彼女は困った顔で頭を掻いた。


「三日前も言われたのに」


「言った」


「私、名前とか覚えるほうなんだけどな。得意なはずなんだけど」


 覚えるほうだった。


 この人は、四月に一度会っただけの相手の名前を、次の日には呼んでいた。


「だから、もう一回言う」


 俺は言った。


「柊悠だ」


「柊くん」


「そう」


「柊くん」


 彼女は、もう一度そう言った。


 二回言った。


 二回言うのは、覚えようとしている人のやり方だ。


 俺は自分の席に戻った。


 戻って、椅子に座って、そこで手が震えているのに気づいた。


「柊」


 後ろから声がした。


 大友蓮が、椅子の背に顎を乗せてこちらを見ていた。


「今の何」


「なにが」


「芹沢に『はじめまして』って言っただろ。同じクラスだぞ」


「聞いてたのか」


「聞こえたんだよ。教室で言うなよ、あんなの」


 俺は返事に詰まった。


「柊さあ、前から思ってたけど」


「なんだ」


「距離感がバグってる」


 言われた。


 否定できなかった。


「まあ、前よりましだけどな」


 あいつは椅子を戻して、机に伏せた。


「前は誰とも喋んなかったし」


 それだけ言って、寝る体勢に入った。


 俺はその後ろ姿を、しばらく見ていた。


 こいつは、俺を覚えている。


 名前も、去年の席順も、俺が誰とも喋らなかった二年間も、全部覚えている。


 昨日、俺は一分近く借りた。


 削れたのは、一番上にいた人だけだ。


 二番目の姉は二拍のままで、この男は何も失っていない。


 理は、きちんと順番を守った。


 守ったから、こうなった。


 一番上にいるというのは、そういうことだった。


 嬉しかった。


 名前を二回呼ばれただけだ。それだけのことで、手が震えている。


 二年前の俺なら、こんなことでは震えなかった。


 当たり前にあったからだ。


 当たり前のものが無くなって、二年経って、一度全部やり直して、それでようやく、名前を呼ばれることが嬉しいと分かった。


 遠回りだった。


 だが、分からないままよりましだと思った。


   ◇


 昼休み、彼女が俺の机に来た。


「柊くん」


 名前を呼ばれた。一拍あった。


 三日前より短い一拍だった。


「あのさ。変なこと聞いていい?」


「いい」


「私たち、前に何か話したことある?」


 俺は返事に詰まった。


 あった。ひと月半ぶん、あった。


 東階段の夜。渡り廊下の夕方。菓子パン。図書室。クラス写真。河川敷の話はしていない。だが、十三段の夜には、この人が隣にいた。


 全部言えば、この人は困る。


 困らせないために黙るのは、たぶん、俺の都合だ。


「ある」


 俺は言った。


「けっこう、たくさん」


「そうなんだ」


 彼女は少し考える顔をした。


「なんか、そんな気はしてた」


「そうか」


「うん。柊くんの顔見ると、なんか、胸のあたりが変な感じするの」


 彼女は自分の胸を、手のひらで軽く押さえた。


 つい四日前の夜、階段の前で、同じ仕草をした人だった。


 残るのは輪郭だけだ。中身が抜けたあとの、形だけが残る。


 だが、輪郭は残る。


 俺はそれを、二年かけて悪いことだと思ってきた。


「これ、根拠にならない?」


 彼女が言った。


 三日前と、同じ言葉だった。


 言った本人は、覚えていない。


 俺は口を押さえた。


 押さえないと、声が出そうだった。


「柊くん?」


「……なる」


 俺は言った。


「根拠になる」


 彼女は少し不思議そうな顔をして、それから鞄を探った。


「あ、そうだ。柊くん、昼飯食べた?」


 購買の袋を出してきた。


「これ、余ったんだけど。あんパン」


 俺は動けなかった。


「なんで」


「え? なんとなく二個買っちゃって」


 彼女は袋を俺の机に置いた。


「たまにやるんだよね、これ。なんか二個買っちゃうの」


 俺はそれを受け取った。


 受け取った手が、また震えていた。


 二年前まで、あいつも肉まんを二つ買った。俺が要らないと言っても、勝手に半分寄越した。


 人には癖がある。


 癖は、記憶より下の層にあるらしい。


「柊くん、あんパン嫌い?」


「……好きだ」


「よかった」


   ◇


 放課後、俺たちは一緒に帰った。


 彼女が「途中まで一緒に行こ」と言ったからだ。理由は聞かなかった。


 十月の夕方は、日が落ちるのが早い。


 河川敷の土手が、遠くに見えた。梔子は今日はいなかった。


「柊くん、無口だね」


「……そうか」


「そう。でも、嫌な黙り方じゃないから別にいいけど」


 俺は足を止めそうになった。


 ひと月半前、渡り廊下へ向かう廊下で、この人はまったく同じことを言った。


 覚えていないはずだ。


 だが、同じ言葉が出てくる。


 その人が持っているものは、記憶だけではないらしい。


「柊くん?」


「なんでもない」


「変な人」


 彼女は前を向いて歩き出した。


 俺は一呼吸置いてから、その隣に並んだ。


 追いながら、明日も話しかけようと思った。


 明後日も話しかける。その次も。


 姉は二年間、毎晩書いている。


 俺は、ひと月半ぶんを作り直すだけだ。


 分かれ道で、彼女が振り返った。


「じゃあね、柊くん」


 名前を呼ばれた。


 一拍は、無かった。


 俺は手を上げた。


 上げてから、上げるのが少し遅れたことに気づいた。


 二年前まで、俺はこういう動作が速かったはずだ。手を上げるとか、返事をするとか、そういうことに時間がかからない人間だった。


 いつからか、全部に一拍かかるようになった。


 姉に一拍が生まれたのと、たぶん同じ頃だ。


 彼女の背中が、角の向こうに消えた。


 俺は空を見た。


 十月の夕方は、日が落ちきる直前が一番明るい。


 家に帰ったら、ノートに書こうと思った。


 日付と、名前を。

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