第28話 今日も増えている
名前を持たない生徒が、学校に戻ってきた。
二年三組の教室に、机と椅子が一つ増えた。
誰も驚かなかった。
名簿に名前がある。写真も残っている。だから、そこに生徒が一人いても、何もおかしくない。
おかしくないのに、誰も彼女を呼ばない。
出席を取るとき、担任は名簿を読み上げる。彼女の行で、一瞬だけ間があく。それから次の名前に移る。
彼女は返事をしない。
誰も、それを変だと思わない。
昼休みに、彼女は一人で弁当を食べている。
母親が作った弁当だ。中身が日によって違う。
二年近く、あの家の台所では弁当が作られていなかったはずだ。作る相手がいなかったのだから。
今は作られている。
卵焼きが入っている日と、入っていない日がある。
そういう当たり前のことが、あの家に戻っている。
周りに人はいる。話しかける人はいない。
いじめられているわけではない。無視されているわけでもない。
ただ、視線が引っかからない。
人の目は、視界に人がいれば必ず一度は止まる。彼女には、それが起きない。
梔子と同じだった。
◇
俺とみなもは、昼休みにその教室へ行くようになった。
最初は俺が一人で行った。二日目からみなもがついてきた。
「なんで柊くん、あの教室行くの?」
彼女はそう聞いた。当然の質問だった。
俺は説明できなかった。
説明するには、二年ぶんの話がいる。この人が忘れたひと月半ぶんの話がいる。
「知り合いがいる」
俺はそう言った。
「ふうん。彼女?」
「違う」
「即答だ」
「即答した」
「ムキになるとこが怪しい」
そういうやり取りを、俺たちは毎日やっている。
ひと月半前とは違う会話だ。
だが、形は似ている。
この人の喋り方は、記憶が抜けても変わらない。
俺はそれを、少し不思議に思う。
不思議に思いながら、少し嬉しい。
ひと月半ぶんの会話は消えた。だが、この人がどういう人かは消えていない。
消えたのは、俺という中身だけだ。
輪郭は残っている。
輪郭が残っているなら、中身はもう一度入れられる。
十日でそれを覚えた。
覚えるのに二年かからなかったのは、たぶん、二年前とは違って一人でやっていないからだ。
その日、俺たちは三人で弁当を食べた。
彼女は何も喋らない。声を出すこともある。だが、それが言葉として俺の耳に届かない。
届かないまま、俺たちは三人で座っている。
みなもは平気で話しかける。
「それ、玉子焼き? 甘いほう? しょっぱいほう?」
彼女が指を一本立てた。
「甘いほうか。私もそっち派」
会話になっている。
なっていないのに、なっている。
俺はそれを横で見ていた。
この人は、名前が呼べない相手と、平気で友達をやる。
二年間、俺にはできなかったことだった。
俺は名前を失った人間と、どう関わればいいのか分からなかった。だから関わらないことにした。
この人は、最初からその問題を持っていない。
「柊くん、なに笑ってんの」
「笑ってない」
「笑ってたよ」
俺は自分の口元に触った。
触った指が、少しだけ動いていた。
◇
夕方、俺は河川敷へ行った。
梔子は土手に座っていた。上着の裾が地面に触れる直前で止まっている、いつもの座り方だった。
「よう」
「……いたんですか」
「いた」
俺はその横に座った。
草はもう湿っていなかった。十月の後半で、空気が乾いている。
「あの子、出たな」
「出ました」
「借りたのか」
「借りました」
梔子は少し黙った。
「一番上は」
「削れました」
彼は何も言わなかった。
責める言葉も、慰める言葉も無かった。
この人は、そういうことをしない。
しばらく、川の音だけがしていた。
夕方の河川敷は、犬を散歩させている人がいて、ランニングをしている人がいる。誰も俺たちのほうを見ない。
俺は鞄からペットボトルを出した。二本入っていた。
一本を、隣に置いた。
「なんだこれ」
「水です」
「見りゃ分かる」
「じゃあ、水です」
梔子は少し黙って、それを取った。
蓋を開けて、一口飲んだ。
「お前、変なやつだな」
「よく言われます」
実際には、このひと月半で二回しか言われていない。
二回とも、同じ人からだった。
「一つ聞いていいですか」
「聞け」
「あんたの真名、使わなかったのに、なんで出せたと思いますか」
梔子は川のほうを見た。
「条件が、俺の思ってたのと違ったんだろ」
「はい」
「人数じゃなかったのか」
「独りかどうかでした」
梔子は「へえ」と言った。
それだけだった。
「あんたも間違えてたってことです」
「そうだな」
彼は素直に認めた。
「二十年やってても間違える。むしろ、長くやってるほど直せない」
彼はペットボトルの蓋を、指先で二回まわした。
「お前、いいもの持ってるよ。二年で直せたんだから」
「直したのは俺じゃないです」
「そうか」
「隣にいた人です」
梔子は俺のほうを見なかった。
見なかったが、少し笑った気配がした。
◇
その夜、俺は姉の部屋の前を通った。
ドアの隙間から明かりが漏れている。
ボールペンが紙を擦る音がした。
俺は自分の部屋に戻った。机の上に、ノートはもう出したままにしてある。
開いた。
新しいページに、日付を書いた。
その下に、名前を書いた。
芹沢 みなも
十日目だった。
十日ぶん、同じ名前が並んでいる。
俺はそれを、上から見た。
姉の分は、八百九十五日になっているはずだ。
勝てる気がしなかった。
勝つ必要も無かった。
俺はノートを閉じて、机の上に置いた。
置いてから、引き出しに戻すのをやめた。
隠す理由が、もう無い気がした。
腹が減っていた。
階下に降りて、冷蔵庫を開けた。
ラップのかかった皿が一枚あった。姉の分ではない。俺の分だ。俺が今日帰りが遅いと言ったから、取ってある。
俺はそれを持って、テーブルに座った。
立ったままではなく、座って食べた。
姉が二階から降りてきた。
「起きてたのか」
「起きてた」
「食べる?」
「食べた」
姉は麦茶を出して、俺の向かいに座った。
「父さんと母さん、今日も遅いのか」
「遅い。今週ずっと」
姉はコップの縁を指でなぞった。
「あんた、最後にあの二人と喋ったのいつ」
俺は答えを探した。
探して、出てこなかった。
「……分からない」
「私も分かんない」
姉はそれだけ言って、麦茶を飲んだ。
二年前まで、この家には四人分の会話があった。
減った理由を、俺は知っている。姉は知らない。
知らないまま、この人はさっき「私も分かんない」と言った。
同じことに気づいている人が、この家にもう一人いる。
それが分かっただけで、今夜は十分だった。
二人でしばらく黙っていた。
この人が何を書いているかを、俺は知っている。
知っていることを、この人は知らない。
いつか言うのだろうか、と思った。
今日ではない。
◇
翌朝、下駄箱でみなもに会った。
「おはよ、柊くん」
一拍は無かった。
この十日で、一拍が出たのは三回だけだ。三回とも短かった。
戻りつつある、と思っていいのかは分からない。
消えたものは戻らない。ルールはそうなっている。
だが、新しく積んだ分は、消えたわけではない。
俺はそれを、この十日で覚えた。
「柊くん、今日昼どうする?」
「二年三組」
「だよね」
彼女は笑った。
「私、あの子と喋れるようになってきた気がする」
「そうか」
「なんとなくだけど。目でわかるようになってきた」
俺は少し驚いた。
驚いてから、驚くほどのことではないと思い直した。
この人はそういう人だ。
◇
校門を出たところに、男が立っていた。
制服ではない。教師でもない。
梔子ではなかった。
もっと年上に見えた。四十代くらいだろうか。地味なコートを着て、鞄を提げている。
その人が、俺のほうを見た。まっすぐに。
「柊 悠くん」
名前を、正確に呼ばれた。
フルネームだった。姓も名も、一音も濁らずに発音された。
俺は足を止めた。
みなもも止まった。
「……どちらさまですか」
男は少し笑った。
温度のある笑い方だった。梔子のそれとは違う。
人に慣れている人間の笑い方だ、と思った。
「返却の件で来ました」
「返却」
「ええ。借りたものは、いつか返してもらう決まりになっていまして」
言い方が、事務的だった。
図書室の延滞を知らせに来た人のような口調だった。
彼は鞄を持ち直した。革の擦れる音がした。
「二回ぶん、こちらの記録に残っています」
俺の背中が、冷たくなった。
この二年で、俺が名を借りたのは二回だ。
二年前の川沿いと、九月の渡り廊下と——
いや。
三回だ。
十三日前の、東階段が三回目になる。
「二回?」
俺は聞いた。
男は鞄から手帳を出して、開いた。
「ええ。二件です」
彼はページを指でなぞった。
その手帳を、俺は見ようとした。
文字が並んでいるのは分かる。日付らしきものも見える。
読めなかった。
名簿と同じだった。字はある。目に入っている。頭に入らない。
「一件目は、二年前の四月十七日」
俺は息を止めた。
朝から何も食べていなかった。腹は減っているはずなのに、胃の縮んだような感じがした。
「二件目は、今年の九月」
彼は顔を上げた。
「先週の分は、まだこちらに上がってきていません」
その言い方が、引っかかった。
まだ、と言った。
上がってくる、と言った。
誰が、どこへ、上げているのか。
「あなたは」
俺は言った。
「何を管理してるんですか」
男は手帳を閉じた。
閉じる音が、思ったより小さかった。
「名前です」
風が吹いた。
十月の終わりの、乾いた風だった。
隣で、みなもが俺の袖を掴んだ。
この人には、この男が見えている。
梔子のときとは違う。
それが何を意味するのかを、俺はまだ知らない。
本日で第1部完結となります。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
第2部以降は反響次第で進めようと考えています。
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