第8話 数えない
「柊くん、最近ずっと変だよ」
放課後の教室で、みなもが俺の机の前に立った。
窓の外は雨だった。昼から降り出して、夕方になっても止む気配が無い。校庭の水たまりに、部活のできなくなった連中の足跡が乱れている。
俺は傘を持っていなかった。三日連続で忘れている。
窓際の席はもう西日が回っていて、彼女の輪郭が逆光で暗い。制服の肩のあたりだけが、白く光っていた。
「そうか」
「そうだよ。ここ三日、ずっと下向いてる。あと、ものを数えてる」
俺は顔を上げた。
「数えてるの、気づかれてないと思ってた?」
「……思ってた」
「口が動いてるんだよ。声は出てないけど」
彼女は自分の口元を指さした。
俺は自分の唇に触れた。何も感じなかった。感じないから、止められない。
「けっこう恥ずかしいよ、それ」
「言うな」
「言うよ。三時間目、隣の席の子が引いてたもん」
顔が熱くなった。
二年ぶりに、俺は自分がどう見えているかを気にしていた。
「……あと、何か言われてたか」
「うわ、気にするんだ」
「気にする」
「かわいいとこあるじゃん」
俺は返す言葉を失った。
彼女はそれを見て、満足そうに机に頬杖をついた。
「何を数えてるの」
「……七不思議」
「七不思議?」
「今は、二十三ある」
みなもは前の席の椅子を引いて、俺の正面に座った。
この人は、俺の話を「そう」と言って聞く。信じるとも信じないとも言わずに、まず最後まで聞く。東階段の夜も、渡り廊下の夕方も、そうだった。
図書室で言われたことを、俺は覚えている。
——みんなね、「気のせいだよ」か「こわ〜い」のどっちかなの。真ん中が無いの。
真ん中にいるのは、この人のほうだ。
俺は説明した。
蓮が七つ数えたこと。八つ目が人によって違うこと。三人に聞いたら三つ増えたこと。書いていない行が増えていること。宮杜さんが数えたら、その場で増えたこと。
そして、蓮が三日休んでいること。
「蓮くん、それでか」
「電話で『数が合わない』って言ってたらしい」
「うん、聞いた。友達が心配してた」
彼女は机の木目を指でなぞった。
「柊くんは、どうやって解くの。いつもの」
「噂を三回聞いて、共通するところを見つける。それが理で、条件を一つ外せば崩れる」
「じゃあ、今回は」
「聞くたびに増える」
俺は自分のノートを机に置いた。開かなかった。開けば、また増える。
「調べる方法が、そのまま餌になってる」
みなもはノートを見た。手は伸ばさなかった。
「開いたら増えるんだよね」
「たぶん」
「たぶんって」
「確かめると、増える」
彼女は口の端を少し下げた。
「それ、いちばん困るやつじゃん。確かめられないと、合ってるかも分からないでしょ」
「そうだ」
そこが、三日間ずっと詰まっているところだった。
仮説を立てても、検証すると悪化する。検証しなければ、仮説のまま置いておくしかない。俺のやり方は、検証できることを前提に組み上がっている。
土台のほうが抜けている。
◇
みなもはしばらく黙っていた。
教室の外を、運動部の生徒が走っていく音がした。三人。四人。俺の頭が勝手に足していく。
「ねえ」
「なんだ」
「その怪異、何が目的なの?」
俺は少し考えた。
「目的は無い。怪異は化け物じゃなくて、規則だから。夜に来いと決めたら昼には来ない。数えたら増える、と決まってるだけだ」
「じゃあ、増えてどうなるの」
俺は答えられなかった。
それを、俺は考えていなかった。
十三段は、十三段目を踏んだ者の名前を消す。後ろの正面は、振り返った者を次の「後ろ」にする。どちらも、何が起きるかがはっきりしている。
八つ目は、増えるだけだ。
増えた先に何があるのか、誰も言っていない。蓮も、サッカー部の三年も、図書委員も、購買のおばさんも、「増える」としか言わなかった。
「……分からない」
「分からないんだ」
「ああ」
「じゃあ、たぶん」
みなもは机の上で手を組んだ。
「増えること自体が目的じゃないんじゃない?」
俺は彼女を見た。
「柊くん、さっき『規則だ』って言ったじゃん。夜に来いって決まってるやつは、夜にしか来ないんでしょ」
「そうだ」
「じゃあ、数えたら増えるやつは、数えなかったらどうなるの」
俺の思考が、一度止まった。
「……増えない」
「うん。それだけじゃない?」
彼女はあっさりと言った。
「増えないなら、居ないのと一緒じゃん」
◇
俺は口を開いて、そのまま何も言えなかった。
あまりに簡単だったからだ。
俺は三日間、この怪異の「理」を探していた。成立条件を特定して、それを一つ外す。それが俺のやり方で、二年間それだけをやってきた。
だが今回、条件は最初から目の前にあった。
数えると増える。
蓮が最初にそう言った。俺はそれを「現象の説明」として聞いていた。条件だとは思っていなかった。条件はもっと隠れているものだと、勝手に決めていた。
「柊くんはさ」
みなもが言った。
「数えるのが上手いから、数えないっていう選択肢が無いんだよ」
その一言が、正確すぎた。
息が止まった。
悔しい、と思った。悔しさの中身は、自分でもよく分からなかった。三日間かけて辿り着けなかったところに、この人は五分で着いた。
そのことが嫌なのではない。
嫌なのは、三日間ずっと一人で抱えていた自分のほうだった。
「なんか怒ってる?」
「怒ってない」
「顔が怒ってるよ」
「……悔しいだけだ」
「あ、素直」
彼女は嬉しそうに笑った。笑われて、余計に恥ずかしくなった。
「二年間それでやってきたんでしょ。だったら、それを捨てるって発想が出てこないの、当たり前だと思う」
「……でも」
「でも?」
「数えないと、条件が絞れない」
「絞らなくてもいいんじゃない?」
彼女は肩をすくめた。
「だって、もう分かってるじゃん。数えたら増えるって。それ以上、何を絞るの」
俺は自分のノートを見た。
閉じたままの表紙を、二年ぶりくらいの気持ちで眺めた。
この中に、二十三行ある。あるいは、もっと増えているかもしれない。確かめるには、開いて数えるしかない。
だから確かめない。
喉の奥に、名前が上がってきた。
借りれば、距離の感覚が壊れる。長さが分からなくなる。分からなくなれば、数えられない。
それは今も、正しい理屈のままだ。
だが今、目の前にもっと簡単な答えがある。
——数えなければいい。
借りる必要が、無い。
俺は喉の奥のそれを、飲み込んだ。今度は焼けなかった。飲み込むというより、勝手に下りていった。
二年間、俺は「借りずに済む方法」を必死で探してきた。探し方だけが上手くなって、探しているものが目の前にあることに気づけなくなっていた。
「みなも」
名前で呼んだのは、初めてだった。彼女が一瞬まばたきをした。
「なに」
「このノート、預かっててくれるか」
「え?」
「俺が持ってると、開く。開けば数える」
彼女はノートを見て、それから俺を見た。
「柊くんが数えなくても、私が数えたら増えるんじゃないの?」
「増える。だから、開かないでほしい」
「……それ、けっこう試されてるよね、私」
彼女は少し笑って、ノートを鞄に入れた。
◇
翌日、俺は数を数えなかった。
廊下の蛍光灯を見ても、数えない。すれ違う生徒を見ても、数えない。頭の中で数字が立ち上がりかけたら、そのたびに別のことを考えた。
難しかった。二年間の癖は、思っていたより深いところに根を張っていた。
昼休み、みなもが俺の机に来た。
「開いてないよ」
「ああ」
「一回だけ開きそうになった。ごめん」
「開いてないなら、いい」
放課後、蓮が学校に来た。
四日ぶりだった。少し痩せて見えたが、教室に入るなり「腹減った」と言って、誰かのパンを取り上げようとしていた。
「大友、それ人のだろ」
「うるせえ、四日ぶりの飯なんだよ」
「家で食ってただろ」
「気持ちの問題な」
友達に小突かれて、あいつは大げさに転ぶ真似をした。
教室が少し笑った。
俺はその音を聞いていた。四日前、この教室にこの音は無かった。
俺は自分の席から、それを見ていた。
治った、という言い方が正しいのかは分からない。
俺が数えるのをやめた日と、あいつの登校した日は、一日ずれている。因果があるのかどうかを確かめるには、条件を変えて何度か試すしかない。
試せない。試すには、また数えることになる。
こういう終わり方は、初めてだった。
東階段のときは、段が畳まれるのを目で見た。渡り廊下のときは、空気の密度が戻るのを感じた。どちらも、外れた瞬間が分かった。
今回は、何も見ていない。
ただ、数えるのをやめて、二日経って、あいつが戻ってきた。それだけだ。
あいつが俺のほうを見た。
「柊」
「……ああ」
「なんか俺、変な夢見てた気がするんだよな。ずっと何か数えてる夢」
「そうか」
「なんだったんだろ。覚えてねえや」
彼はそれ以上何も言わずに、友達のところへ行った。
俺は机の上を見た。
何も無い。数えるものが、何も無い。
放課後、俺とみなもは校門を出た。
「これ、返す」
彼女が鞄からノートを出した。
俺はそれを受け取って、表紙のまま鞄に入れた。開かなかった。
「開けないの?」
「開けない」
「一生?」
「……そうかもな」
彼女は「うわ」と言って笑った。
俺も少し笑った。二年ぶりだった。
笑ったら、頬のあたりが変にこわばった。使っていない筋肉が、久しぶりに動いたときの感覚だった。
「柊くん、笑い方下手だね」
「うるさい」
「怒った?」
「怒ってない」
怒ってはいなかった。恥ずかしかっただけだ。
「傘、入る?」
「え」
「雨。柊くん、傘忘れたでしょ」
断る理由を、俺は三つくらい考えた。
どれも言わなかった。
夕方の道は、街灯が点き始めていた。何本あるかは、分からない。分からないままで、俺は歩いた。
分からないまま歩くのは、思っていたより悪くなかった。
二年間、俺は全部を数えてきた。段も、噂も、姉の一拍も、三秒の値段も。数えれば安心できたからだ。数字にすれば、少なくとも自分がどこにいるかは分かる。
今日、その道具を一つ手放した。手放しても、世界は普通に暮れていった。
校門の角を曲がったところで、男が立っていた。
制服ではない。教師でもない。二十代なのか三十代なのか、どちらとも判断がつかない顔をしていた。
その男が、俺を見て言った。
「柊」
名字を、正確に呼ばれた。
俺は足を止めた。みなもも止まった。
「……どちらさまですか」
男は答えなかった。代わりに、少し首を傾げた。
「いや。まだ払ってないんだな、お前」
俺の隣で、みなもが「え」と言った。
男は、彼女のほうを見なかった。




