第7話 数えるほど増える
翌朝、俺はノートを開かなかった。
鞄の中に入れたまま、一日そのままにしておいた。開けば数える。数えれば増える。そこまでは分かっている。
分かっているのに、昼休みには開いていた。
確認するだけだ、と自分に言った。増えているかどうかを確かめないと、仮説が正しいか分からない。確かめるのは調査であって、数えることとは違う。
そんな言い訳が通らないことも、開く前から分かっていた。
一行目から順に、指を下ろしていく。
一。二。三。四。五。六。七。
ここまでは、蓮が指を折って教えてくれた七つだ。順番も、彼が言ったとおりに並んでいる。
八。九。十。
昨日、三人から聞いた分。
十一。
書いた覚えのない、メトロノーム。
十二。十三。十四。
昨日の夜は十二までだった。一晩で二つ増えている。俺は一度もノートを開いていないのに。
十三行目には「音楽室の譜面台が一台多い」と書いてあった。十四行目は「保健室のベッドのカーテンが、閉めていないのに閉まっている」。
どちらも、俺は誰からも聞いていない。
——俺が数えなくても、増える。
だとすれば、条件は「俺が数えること」ではない。
背中が冷たくなった。
寒いのではない。汗が冷えているのでもない。もっと内側の、胃の裏あたりから来る冷たさだった。
怖い、と思った。
二年間、怪異を怖いと思ったことはほとんど無い。規則は怖くない。譲らないだけだ。理さえ分かれば、こちらの立ち位置を変えればいい。
だが今回は、理を分かった上で、それを自分のほうへ伸ばしてしまっている。
俺は昨日の推論を、線を引いて消した。消した上から、新しい行を書こうとして、ペンが止まった。
書けば、それも数えたことになるのではないか。
ペン先が紙に触れたまま、インクが一点だけ滲んだ。
滲みが紙の繊維に沿って、少しずつ広がっていく。俺はそれを見ていた。見ているうちに、滲みの直径が何ミリになったかを測ろうとしている自分に気づいて、ノートを閉じた。
◇
放課後、俺は図書室へ行った。
宮杜さんはカウンターで返却処理をしていた。バーコードを読ませる電子音が、一定の間隔で鳴っている。
「柊くん。顔色」
「悪いですか」
「悪いです。座って」
俺は言われるまま、カウンター前の椅子に座った。
「学校の七不思議のことなんですが」
「ああ、あれ」
彼女はスキャナを置いて、こちらを向いた。
「今年に入ってから、急に聞くようになりましたね。前は五つくらいしか無かったんですよ」
「五つ」
「私が来たときは五つでした。三年前かな。それが去年、七つになって」
「増えた二つは、何ですか」
「渡り廊下と、図書室です」
俺は膝の上で指を一度握った。
渡り廊下は、三日前に俺が名を借りた場所だ。図書室は、宮杜さんが「記録に残らないタイプ」と言った場所。
どちらも、去年より前には存在しなかったことになる。
「不思議なんですよね」
彼女は返却済みの本を一冊、脇に寄せた。
「怪談って、増えるときは一気に増えるんです。何年も五つのままだったのに、ある年から毎年増える。民俗学だと『語りの場が温まる』って言い方をしますけど」
「温まる」
「話しても笑われない空気になると、みんな話し始める。そうすると、今まで一人で抱えてた小さい違和感が、全部『七不思議』の棚に載るんですよ」
俺は自分のノートを出しかけて、やめた。
「宮杜さんのノートには、いくつ載ってますか」
「うちのは項目ごとに分けてるので、七不思議って括りでは書いてないんです。でも」
彼女はカウンターの下から自分のノートを出した。表紙の角が丸くなった、あの大学ノートだ。
「たぶん、今なら——」
ページをめくり始めた。
「あ、待ってください」
俺の声が、思ったより鋭く出た。
彼女の手が止まった。
「どうしました」
「……いえ」
言えなかった。
「数えないでください」と言えば、理由を聞かれる。理由を説明するには、俺が何をしているかを話さなければならない。
宮杜さんは俺の顔を二秒ほど見て、それからページをめくった。
「一、二、三……」
やめてくれ、と喉まで出かかった。
だが止める言葉が見つからなかった。
「……九つ、ですね」
彼女は顔を上げた。
「あれ。おかしいな」
ノートに目を落として、もう一度指でなぞる。
「十。……十一?」
彼女の指が、ページの上で止まった。
「柊くん」
「はい」
「私、いま数え直したら増えたんですけど」
俺は答えられなかった。
答える代わりに、自分の膝の上で拳を握った。
握った手のひらが、汗で滑った。
情けなかった。悔しいのとも違う。ただ、自分がここに来たせいでこの人を巻き込んだという事実だけが、胃のあたりに重く残った。
謝りたかった。だが謝れば、理由を説明しなければならない。説明できないことを謝るのは、ただの自己満足だ。
俺が来たせいだ。
俺が七不思議の話を持ち出したから、この人は数えた。数えたから、増えた。
二年間、俺は「調べること」で怪異を外してきた。調べるという行為が、それ自体で誰かを巻き込むことなど、一度も無かった。
調べるのは安全な作業だった。噂を聞いて回っても、聞かれた側には何も起きない。相手はただ「怖い話をした」と思うだけで、翌日には忘れる。
だから俺は、二年間ずっと、この方法だけを使ってきた。名を借りずに済む唯一のやり方だったからだ。
今回は、逆だ。
調べれば調べるほど、こいつは太る。
「柊くん」
宮杜さんがノートを閉じた。
「これ、話したくないなら話さなくていいんですけど」
「……はい」
「あなた、いま、私に数えさせないようにしましたよね」
俺は顔を上げた。
「さっき『待ってください』って言ったとき。あれ、私が数えるのを止めようとした」
この人は、見ている。
貸出履歴を覚えている人だ。誰が何の棚の前に立ったかを覚えている人だ。
「……はい」
「じゃあ、もう数えません」
彼女はノートをカウンターの下に戻した。引き出しを閉める音が、思ったより静かだった。
「理由は聞かないでおきます。聞いたら、たぶん私が数えたくなるので」
俺は頭を下げた。
この人は、十年かけて集めたものを、今この場で置いた。理由も聞かずに。
◇
次の日、大友蓮が学校を休んだ。
朝のホームルームで担任が「大友は体調不良」と言っただけだった。誰も気に留めなかった。九月に風邪をひくやつは毎年いる。
俺は自分の席で、それを聞いていた。
だが俺は、気に留めた。
昼休み、蓮の友達が話しているのが聞こえた。
「蓮、なんか変なんだよ。昨日の夜に電話したんだけどさ」
「なんて?」
「『数が合わない』って何回も言うの。何の数って聞いても答えないの。ずっと数えてんだよ、電話の向こうで」
「こわ」
「こわいって。あいつ、そういうタイプじゃないじゃん」
そういうタイプではない。
あいつは俺の机の前で笑っていた。「そこで『そうか』って返すのが特におもしれえ」と言って、勝手に椅子を引いて座った。
その顔を思い出したら、耳の奥が熱くなった。
怒りだった。二年ぶりに、俺は怪異に対して腹を立てていた。
俺は弁当の蓋を閉じた。
母が久しぶりに作った弁当だった。三日前に「たまには」と言われて、断る理由が見つからなくて受け取った。
二日連続で、手をつけずに持ち帰っている。
情けなかった。
教室を出て、廊下の窓際に立った。
九月の風が入ってくる。グラウンドで体育の授業をやっていて、笛の音が二度鳴った。
二度。
数えてしまった自分に、俺は気づいた。
もう、数えることをやめられなくなっている。
窓枠のサッシの傷が三本。前を通った生徒が四人。廊下の蛍光灯が九本。数えるつもりのないものまで、視界に入った端から数字がついていく。
これが、蓮に起きていることだ。
あいつは俺の机の前で、指を折って七つ数えた。それだけだ。それだけで、こちら側に入った。
俺が持ち込んだ話ではない。あいつが自分から話してきた。だが俺は、それを書き取った。三人に聞きに行った。宮杜さんにも話した。
増やしたのは、俺だ。
窓の下で、体育の列が並び直していた。教師が号令をかけて、生徒が番号を言っていく。
いち。に。さん。
三十人分の声が、順番に上がってくる。
俺はその場を離れた。離れながら、二十七まで聞こえていたことに気づいた。
聞いていたのではない。数えていた。
階段を下りる。段数を数えないように、二段ずつ飛ばした。飛ばしても、頭の中では半分の数が積み上がっていく。
昇降口で足を止めて、俺は呼吸を整えた。
手が震えていた。
情けない、と思った。怖いのが情けないのではない。怖いことを誰にも言えないのが情けなかった。
みなもに言えばいい、と一瞬思って、すぐに打ち消した。
言えば、あの人が数える。数えれば、増える。
助けを求めることが、そのまま相手を巻き込む形になっている。こんな苦しい話があるか、と思った。
落ち着け。条件を絞れ。それが手順だ。
だが、条件を絞るには、事例を並べて数えるしかない。
俺の方法は、この怪異に対してだけ、根本から噛み合っていない。
◇
喉の奥に、名前が上がってきていた。
二年前に一度だけ借りた名だ。腕の届く距離を、勝手に書き換えるやつ。
あれを借りれば、たぶん数えなくて済む。
根拠はある。借りている間、俺の身体はその怪異の性質になる。距離の感覚が壊れる。長さが分からなくなる。
——長さが分からなくなれば、数えられない。
数えられなければ、増えない。
理屈は通っていた。通りすぎているくらいだった。
俺は口を半分開いて、そこで止めた。
削られるのは、俺の記憶ではない。
三日前に確かめたばかりだ。今、俺の一番上にいるのは姉ではない。
昼休みに菓子パンを置いていった人だ。あの日、袋の端が潰れていたのを、俺は今でも覚えている。覚えているという事実そのものが、彼女を一番上に置き続けている。
三秒払えば、彼女はまた三秒俺を思い出せなくなる。
次は五秒かもしれない。十秒かもしれない。ある日、思い出さなくなるかもしれない。
俺は口を閉じた。
閉じてから、自分が何秒開けていたかを数えようとして——やめた。
やめられなかった。
二秒。
数えた。
俺は廊下の壁に背中を預けて、目を閉じた。
目を閉じても、まぶたの裏で数字が動いていた。
息が浅い。心臓が、耳の裏で鳴っている。
怖かった。認めたくないが、怖かった。
二年間で初めて、自分の手持ちの道具が全部効かない相手に当たった。
三。四。五。
止め方が、分からない。
二年間、俺を助けてきた癖が、今は俺を削っている。数えることでしか怪異を外せない人間が、数えてはいけない怪異に当たった。
手持ちの道具が、全部そのまま毒になっている。




