第6話 八つ目
九月に入って、教室の空気が少し変わった。
夏休みが終わって二週間。最初の一週間は誰もが気だるそうにしていたが、二週目に入ると、みんなそれぞれの位置に戻っていく。誰が誰と喋るか、昼をどこで食べるか、そういうものが決まってくる。
俺の位置は、変わっていない——はずだった。
腹は減っている。眠くもある。昨日も三時間しか寝ていない。
嫌な疲れ方だった。身体は重いのに、頭の奥だけが妙に冴えている。
「柊、それ何」
大友蓮が、俺の机の上を覗き込んだ。
同じクラスの男子だ。背が高くて、声が大きくて、誰にでも同じ距離で話しかける。二年生になってから半年、俺が彼と交わした言葉は、たぶん十回に満たない。
「なんでもない」
「なんでもなくないだろ。ノート開いて何も書いてないじゃん。何十分そうしてんの」
「……三十分」
「数えてたのかよ」
彼は声を出して笑った。悪意のない笑い方だった。
「柊っておもしれえな。前から思ってたけど」
「そうか」
「そこで『そうか』って返すのが特におもしれえ」
大友は俺の机に肘をついた。
「昨日の数学、当たったろ。柊」
「……当たった」
「答えられてなかったよな。ぼーっとしてたし」
俺は黙った。
その通りだった。プリントは白紙のまま出して、授業中は半分寝ていた。
「なんかあった?」
「寝てないだけだ」
「あー、分かる。俺も昨日ゲームで三時。目がしょぼしょぼ」
「夜更かしすんなよ。ゲーム?」
「……そんなところだ」
嘘をついた。嘘をつくと、少しだけ胃のあたりが重くなる。
こういう笑い方をする人間が、俺は少し苦手だった。距離を詰めているつもりがないのに、勝手に近くまで来る。悪気がないぶん、押し返す理由も作れない。
二年前までは、俺もこちら側にいた気がする。誰かの机を覗き込んで、何も考えずに「それ何」と聞くような。
今の俺には、その動作ができない。覗き込む前に、覗き込んだあとの会話を三手先まで考えてしまう。
俺は開いたままのノートを閉じた。左のページに聞き取りを書いて、右に芯を書く。宮杜さんに教わった書式を真似して、俺も同じ形で書き始めていた。だが今日は、左のページに一行も書けていない。
書けないのは、聞くべき噂が無いからではない。
多すぎるからだ。
「なあ柊、七不思議って知ってる?」
俺は顔を上げた。
「うちの学校の」
「そう。俺、昨日サッカー部の先輩に聞いてさ。面白かったから誰かに話したくて」
彼は勝手に前の席の椅子を引いて、後ろ向きに座った。背もたれに顎を乗せる。
俺は少し考えて、ノートを開き直した。
◇
「一つ目。東階段が夜になると十三段になる」
俺の手が止まった。
「知ってる?」
「……ああ」
「有名らしいな。二つ目、音楽室のピアノが夜中に鳴る。これはベタすぎ。三つ目、体育館の裏の花壇に何か埋まってる。四つ目、三階のトイレの三番目の個室」
蓮は指を折りながら数えていった。
「五つ目が、渡り廊下で後ろに立たれるやつ」
俺は書く手を止めなかった。止めれば、蓮が気づく。
三日前、俺はその渡り廊下で名を借りた。あの日から俺の右腕は、時々ものを掴み損ねる。今朝も洗面所でコップを一度弾いた。
それが、七不思議の五つ目として、ここに並んでいる。
当事者になった話が、誰かの口から「面白い噂」として出てくるのは、奇妙な感じがした。
「六つ目が、プールの底に手形。七つ目が——なんだっけ、あ、そうそう、図書室の郷土資料の棚」
俺はペンを止めた。
「図書室?」
「なんか、あの棚の前に立ちすぎると、記録に残らなくなるとか。誰も借りてないのに本が減ってる、みたいな話もあったかな」
背筋の後ろを、細いものが通った気がした。
宮杜さんが言った言葉と、同じ形をしている。あの人は貸出履歴の話をしていた。ただの事務的な指摘だった。
それが、噂になっている。
あるいは、噂のほうが先にあった。
「で、ここまでが七つ」
蓮は折った指を全部立て直した。
「なんだけどさ。先輩が言うには、八つ目があるらしいんだよ」
俺はノートに「七不思議」と書いて、その下に一から七まで番号を振った。
振り終えて、八の欄が空いているのを見た。
空欄というのは、埋めたくなるようにできている。
「八つ目は、何なんだ」
「それがさ、聞いた人によって違うんだって」
◇
放課後、俺は聞き取りを始めた。
いつもの手順だ。同じ話を三人から聞く。ばらけた部分を捨てて、残ったところが芯になる。
一人目は、蓮に話したというサッカー部の三年だった。
部室棟の前で、スパイクの泥を落としているところを捕まえた。彼は面倒くさそうな顔もせず、手を動かしたまま答えた。
「八つ目? ああ、渡り廊下の突き当たりの窓な。あそこ、たまに開いてるんだよ。誰も開けてないのに。俺、去年の冬に見たもん。閉めても翌朝また開いてる」
俺はそれを左のページに書いた。
二人目は、図書委員の二年だった。
図書室の返却棚を整理している最中で、彼女は本を抱えたまま少し考えた。
「八つ目は、放送室の椅子です。誰も座ってないのに、朝来ると位置が動いてるって。放送委員の子が言ってました。私は見てないですけど」
書いた。
三人目は、購買のおばさんだった。
シャッターを半分下ろした売店の中で、パンのケースを拭いていた。
「八つ目? そんなのあったかしらねえ」
彼女は布巾を持った手を止めて、天井のほうを見た。
「ああ、そういえば、体育倉庫のマットが一枚多いって話は聞いたことあるけど。先生たちが数え間違えたんじゃないの、あれ」
書いた。
三人分の証言を、俺は並べて見た。
窓。椅子。マット。
共通するところが、一つも無い。
場所が違う。現象が違う。時間帯も違う。ばらけている、というより、そもそも別の話だ。
俺は右のページを見た。空白のままだ。
これは、三回法が効かない形をしている。
脚色が乗っているなら、芯が残るはずだ。三人が同じ怪異について語れば、場所か、時間か、条件か、どれか一つは重なる。重ならないなら、それは同じものを見ていない。
だが三人とも、「八つ目」という言葉には迷わなかった。
誰も「そんなものは無い」と言わなかった。存在は共有されているのに、中身だけが人によって違う。
——三人が三人とも、別々のものを見ているということになる。
いや。
俺はペンの尻で、こめかみを一度押した。
別の可能性がある。
三人が別々のものを見ているのではなく、三人が数えたから、三つ出てきた。
◇
俺はもう一度、蓮の話を頭の中で再生した。
——一つ目。二つ目。三つ目。
彼は指を折って数えていた。七つ数えて、それから「八つ目があるらしい」と言った。
俺は今日、何人から聞いた。
三人。そして三人とも、俺に八つ目を教えてくれた。
俺は自分のノートを開いた。
「七不思議」と書いて、一から七まで番号を振ってある。八の欄には、今日聞いた三つが書かれている。
八、九、十。
番号は、十まで伸びていた。
俺はペンを置いた。
置いた手が、机の上でわずかに震えているのが自分で分かった。
放課後の教室には、俺しかいない。窓の外はまだ明るくて、グラウンドから吹奏楽部の音が切れ切れに届いていた。同じフレーズを何度も繰り返している。上手くいかないところだけを、繰り返し練習しているのだろう。
その音を、俺は何回聞いただろう。
考えかけて、やめた。
今、数えてはいけない気がした。根拠は無い。ただ、そういう予感だけがあった。
俺はノートを閉じて、それからもう一度開いた。
番号を、上から確認する。
一、二、三、四、五、六、七——
八。九。十。
十一。
俺は手を止めた。
十一など、書いた覚えが無い。
だがそこには、俺の字で一行書かれていた。
十一つ目・音楽準備室のメトロノーム。誰も触っていないのに動いている
喉が鳴った。
怖い、と口に出しかけて、飲み込んだ。飲み込んだ拍子に、肩が跳ねた。
誰もいない教室でよかった、と思った。こんな顔を誰かに見られたら、たぶん一生からかわれる。
俺は自分の字を見た。
筆圧も、癖も、間違いなく俺のものだ。「メ」の一画目が長い。「ノ」と「ム」の間が詰まっている。二年間、噂を書き取り続けてきた俺の字だ。
今日、俺が書いた。書いた記憶が無いだけで。
インクの色も、上の行と同じだった。同じペンで、続けて書いている。
いつ書いた。
三人目から聞いた後か。その前か。
思い出そうとして、思い出せなかった。
喉が渇いていた。
鞄の水筒は空だ。朝から何も飲んでいない。腹も減っている。
こういうときに身体のことに気づくのは、たいてい良くない兆候だった。心臓が速い。速いのに、指先だけが冷たい。
嫌な汗が、首の後ろを伝った。
俺は椅子を引いて立ち上がった。立ち上がってから、自分がどこへ行こうとしているのか分からないことに気づいた。
誰かに聞きに行こうとしたのだ。八つ目のことを。
——それが、まずい。
俺はゆっくり座り直した。椅子の脚が床を擦る音が、教室の後ろまで届いて返ってきた。
落ち着け。
条件を絞る。それが手順だ。俺は二年間、それだけをやってきた。
この怪異は、何をしたときに成立する。
夜か。場所か。人数か。
十三段は「夜」「東階段」「一人」だった。後ろの正面は「背後」「振り返る」だった。どれも、条件が形になっている。手で触れる形をしている。
だが今回は違う。
窓も、椅子も、マットも、メトロノームも、場所がばらばらだ。時間もばらばらだ。共通しているのは、それが「八つ目」と呼ばれていることだけ。
名前だけが共通している。
俺はそこで、手を止めた。
名前だけが共通していて、中身が人によって違うもの。それは、怪異の性質ではない。
——数え方の性質だ。
——数えるたびに、増えている。
俺はノートの一行目に、指を置いた。
そこから下へ、順に数えていく。
一。二。三。四。五。六。七。八。九。十。十一。
十二。
指が、止まった。
十二行目に、俺の字で一行書かれていた。さっきまで、そこには何も無かった。
窓の外で、吹奏楽部が同じフレーズをもう一度繰り返した。
俺は、それを数えなかった。




