第5話 二年前の日付
二年前の、四月十七日。
俺はその数字を、三回読み直した。
読み違いではなかった。角ばった字で、ページの上の隅に、はっきりとそう書いてある。四の横棒が長い。十七の七が、少し斜めに倒れている。
「柊くん?」
宮杜さんの声が、少し遠くから聞こえた。
「どうかしました?」
「……いえ」
俺は指をページに置いたまま、動けなかった。
落ち着け、と自分に言った。
日付が一致することに、意味は無い。一年は三百六十五日ある。二年前の四月に何かを書いた人がいるというだけで、それが俺と関係あるとは限らない。四月は新学期で、新しいことを始める人が多い月だ。ノートを書き始めるにも、ちょうどいい。
筋は通る。通るのに、俺の親指はその数字の上を二回なぞっていた。
左のページには、証言が書きかけで残っていた。
四月十七日(水) 三年女子 A
「校舎の裏の、フェンスのところ。夜になると、そこに——」
そこで途切れている。
文の途中だった。ペンが止まって、そのまま続きが書かれなかったという止まり方だ。書き終えて次に移ったのではない。最後の一画から、次の文字へ向かう線が、少しだけ紙に残っている。
俺はページをめくった。
次のページは、白紙だった。その次も。その次も。
残りのページを、親指で一気に送った。全部、白かった。
ノートは、ここで終わっていた。
◇
「前任の方は、どうして辞めたんですか」
俺が聞くと、宮杜さんは段ボールの中身を並べ替えながら答えた。
「知らないんです。私、引き継ぎをしてないので」
「引き継ぎを」
「四月からいきなり配属になって、来たら誰もいなかった。カウンターの上に鍵だけ置いてあって」
彼女は手を止めて、少し笑った。笑ったが、目は笑っていなかった。
「変な話でしょ。でも、そういうこともあるんですよ、この仕事。年度末に急に辞める人はいるので」
「名前は」
「え?」
「前任の方の、お名前は」
宮杜さんは口を開いて、そのまま止まった。
まばたきが二回。
俺は、その二回を見ていた。
数えるつもりはなかった。もう身体が勝手に数える。
「……あれ」
彼女は自分の額に手を当てた。
「おかしいな。書類は見てるはずなんですけど。引き継ぎ書に、名前、書いてあったと思うんですけど」
「思い出せませんか」
「思い出せない、っていうか」
彼女は言葉を探していた。指がこめかみのあたりで一度止まって、それから下りた。
「読んだのは覚えてるんです。斜め読みじゃなくて、ちゃんと目を通した。読んだのに、入ってこない。——なんだろう、これ」
彼女は事務室のほうを見た。それから、行くのをやめた。
「行っても、たぶん同じですね」
「同じ、というのは」
「今、書類を見に行ったら、名前は書いてあると思います。書いてあるのを読んで、また忘れる気がする」
俺は箱の中を見た。
書類がある。判子が押してある。日付がある。全部、残っている。
残っているのに、中身だけが抜けている。
この形を、俺は知っている。
◇
「柊くん」
背中から声がして、俺は振り返った。
図書室の入口に、みなもが立っていた。鞄を肩にかけたまま、片手で扉の縁を掴んでいる。息が少し上がっていた。
「やっぱりいた。教室にも下駄箱にもいないから」
「探してたのか」
「探すでしょ。今日、掃除当番だったの忘れてるでしょ」
「忘れてた」
「でしょうね」
「……悪い」
「別にいいけど。私がやっといたし」
俺は顔を上げた。
「一人で?」
「一人で。三十分」
「悪かった」
「二回言った」
彼女は俺の顔を見て、それから鞄を床に置いた。
「怒ってないよ。柊くん、たまに人のこと過大評価するよね。私、掃除くらいで怒んないって」
過大評価という言葉が、うまく飲み込めなかった。
俺は今まで、誰かを怒らせないことばかり考えてきた。怒らせなければ、忘れられるまでの時間が少し延びる気がしていた。
彼女は中に入ってきて、俺の手元のノートを覗き込んだ。近づいたとき、埃と汗の混じった匂いがした。校舎を一周してきたのだろう。
「なにそれ」
「学校の怪談の記録」
「ふーん」
みなもはページに顔を近づけて、それから顔を上げた。
「これ、二年前?」
「そう」
「二年前かあ」
彼女は少し考える顔をした。窓の外で、野球部が声を揃えている。
「私、その頃はまだ中学だったな。……あ、でも」
彼女の声が、途中で変わった。
「あの子、二年前からいたのかな」
俺は彼女を見た。
「あの子?」
「言ったじゃん。二年の子で、誰も名前を思い出せない子」
彼女は棚に背中を預けて、天井のあたりを見た。蛍光灯の一本が、切れかけて細かく点滅している。
窓の外が、少し暗くなっていた。雨が来る前の色だった。
傘を持ってきていない。今朝、天気予報を見る余裕が無かった。
「うち、中高一貫じゃないから、高校で初めて会ったはずなんだよ。私が高一のときにその子も高一で、去年同じクラスだったの。それは覚えてる」
「名前は」
「覚えてない」
彼女は即答した。もう何度も自分に聞いた質問なのだろう。
「顔も、正直あんまり。写真見ても『誰これ』って思う。卒業アルバムじゃないから、集合写真しかないんだけどね。でも」
彼女は自分の胸のあたりを、手のひらで軽く押さえた。
「一緒にいたときの感じだけは、残ってるの。教室のどのへんにいたとか、笑い方がうるさかったとか、体育のとき絶対いちばん後ろに並んでたとか。そういうのは分かるのに、その真ん中が抜けてるの」
残るのは輪郭だけだ。中身が抜けたあとの、形だけが残る。
俺は、その感覚の名前を知っている。
だが、それを彼女に言うことはできない。言えば、次に「なんで柊くんが知ってるの」が来る。
「柊くんはさ」
みなもが天井を見たまま言った。
「そういうの、信じる人?」
「そういうの」
「誰かが、まるごといなくなるみたいなこと」
俺は少し黙った。
窓の外で、野球部の声が止んだ。誰かが打ったらしい。金属音が一つ響いて、それから声が戻ってきた。
「信じるとか信じないの話じゃないと思う」
「え?」
「起きてるかどうかの話だから」
みなもは天井から視線を下ろして、俺を見た。
しばらく、何も言わなかった。
「……そういうこと言う人、初めて会った」
「そうか」
「うん。みんなね、『気のせいだよ』か『こわ〜い』のどっちかなの。真ん中が無いの」
彼女は棚から背中を離した。制服の背中に、埃が薄く付いていた。
「柊くん、真ん中にいるね」
◇
「宮杜さん」
俺は司書のほうを向いた。
「うちの二年に、名簿には載ってるのに、誰も名前を思い出せない生徒がいるらしいんですけど」
宮杜さんはカウンターの椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
それから立ち上がって、事務室のほうへ入っていった。書類の擦れる音が続いて、引き出しが二回開いた。
戻ってきたとき、手には図書委員の名簿を持っていた。
「二年生の、図書委員名簿です。去年のもの」
彼女はページを開いて、カウンターに置いた。
クラスごとに、名前が並んでいる。印刷された、ただの名簿だ。
図書委員は、各クラスから二人ずつ出る。二年は八クラスあるから、十六人。
その十六人の中に、その子がいる。
図書委員だったのか、と俺は思った。当たり前のことだが、その子には生活があった。委員を決めるホームルームがあった。手を挙げたか、押し付けられたか、じゃんけんで負けたか。とにかく何かの経緯を経て、この紙に名前が載った。
その経緯を、今は誰も知らない。
俺は上から順に指でなぞった。二年一組。二組。三組の欄で、指が止まった。
そこに、名前がある。
印刷された文字が、確かにある。読める。ひらがなとカタカナと漢字でできた、普通の名前だ。特別なところは何も無い。
読めるのに、頭に入らない。
目が字面を通過して、その先に何も残らない。今読んだはずの文字を、もう一度読み直そうとして、自分がどこを読んでいたか分からなくなる。
三回、同じ行を往復した。
四回目で、俺は目を閉じた。
「……これ」
みなもが横から覗き込んで、息を止めた。
「これ、あの子だ」
「読めるか」
「読める。読めるんだけど」
彼女は指で文字を押さえた。押さえて、そのまま何秒か固まった。爪の先が白くなるほど、紙に押しつけていた。
「……ごめん、なんて書いてあった?」
宮杜さんが、名簿をゆっくり閉じた。
閉じる音が、思ったより大きかった。
彼女の顔から、司書としての表情が消えていた。
「柊くん。これ、何なんですか」
俺は答えなかった。
喉の奥に、一つの名前が浮かんでいた。
二年前に一度だけ借りた、あの怪異の名ではない。もっと別の、まだ形の定まらない名前だ。借りれば、この文字が読めるようになるかもしれない——そういう感触だけが、確かにあった。
名前は、覚えるものではない。
二年前にそれを知った。理を最後まで絞りきった瞬間に、喉の奥に音が置かれていた。誰かに教わったのではないし、どこかで読んだのでもない。
条件を全部そろえてしまうと、名前のほうから出てくる。
だから俺は、途中で止めるようになった。
絞りすぎない。三行で止める。三行より先へ行くと、次に何が起きるかを知っている。
根拠は無い。理も、成立条件も、まだ何一つ掴んでいない。
ただ、そういう予感だけが、はっきりとあった。
俺は口を閉じたまま、三つ数えた。
名前を思い浮かべることと、口にすることの間には、まだ距離がある。今はまだ、その距離が保たれている。
保たれているうちは、まだ大丈夫だ。
三日前、俺はその距離を一度失った。数える時間が無かったからだ。
今は、ある。
「柊くん」
みなもが俺の袖を引いた。
その手を、俺は振り払わなかった。振り払えなかった、というほうが近い。
振り払えば、この人は少しだけ下がる。下がれば、少しだけ安全になる。それが分かっていて、俺は袖を引かれたままでいた。
「あの子、取り戻せる?」
俺は、答えられなかった。




